第34話 袖口の皺と、勝手に溜まる青春ポイント
四月の朝は、日差しの角度がやけに浮ついている。
駅までの通学路は静かで、信号待ちの数秒間だけ街の音が遠のく。
その静寂に、最近は見慣れた二人の声が混ざる。
改札を抜けた先の歩道。
桜井が、スクールバッグを片手に軽やかなステップで言った。
「今日も同じ電車だったね」
「最近かぶるよね〜」
西村が、大きな欠伸を噛み殺しながら返す。
「けどたまに私だけ、やばいときはチャイムと競争だけどねー」
「千夏は大体いつも負けてるよね」
「負けてない。引き分け」
「遅刻ギリギリは引き分けじゃないよ」
桜井が笑って、西村が真顔のまま肩をすくめる。
その隣で、僕はただ歩幅を合わせるモブに徹した。
新学期、プロのモブでいくと決めたのに、通学路に同伴者が増えている。
桜井が、歩きながら僕を見上げる。
「安藤くん、今日は静かだね」
「朝は省エネモードだから」
「省エネって言い訳、好きだよね」
「……そうかな?」
「そうだよ」
桜井が軽く笑い、西村が即座に割って入る。
「はいはい。二人とも朝からごちそうさまです」
「何の話だよ……」
「色々!」
西村が無理やりにオチをつけて、桜井だけがくすっと笑った。
その笑いが、やけに近くで鼓膜を揺らす。
そんなやりとりをしてる中、歩道の端に、小さな段差があるのに気づいた。
気づいたのは僕だけだったと思う。
桜井がちょうど、横を向いて西村に何か言いかけていたから。
次の瞬間。
桜井のつま先が引っかかって、体が前のめりに泳ぐ。
何かを考える前に、手が動いた。
僕は咄嗟に、桜井のブレザーの袖口の生地を掴んで引いた。
前へ倒れ込む勢いを、半歩ぶん後ろへ逃がす。
腕越しに重さが伝わって、僕の足裏がアスファルトを噛む。
横を向いていた桜井の体が引き戻され、向きが戻る。
踏み直そうとして、よろめいたまま僕のほうへ寄って――
僕の目の前、ほんの数センチのところで動きが止まった。
距離が、近い。
見下ろすと、すぐそこに桜井の長い睫毛があった。
シャンプーの香りが鼻先をかすめる。
お互いの服が触れ合うくらいの距離。
「……っ」
声にならない息が、僕の喉の奥で行き場をなくす。
桜井が足をつけ直したのを確認して、僕は慌てて手を離し、一歩だけ下がった。
「ご、ごめん、とっさに……大丈夫?」
「あ、ううん。……ありがと」
桜井は頷きながら、掴まれた自分の袖口を、きゅっと反対の手で押さえた。
まだ呼吸が整わないのか、肩が小さく上下している。
それから、はっとしたように指を離し、ブレザーについた皺を丁寧に伸ばす。
その一連の動作を、見逃さない影があった。
「はい、加点」
西村だ。
「え」
「今のは加点対象。午前だから控えめに一ポイントってとこ」
「……何の」
「青春ポイント」
「勝手に謎の評価制度を作るな」
桜井が、まだ少し赤い顔で袖を直しながら口を尖らせる。
「今のはノーカウント」
「なんで」
「ただ転びかけただけだし」
「ラブコメにおいて『転びかける』は立派なイベントですー」
「イベントって言わないで」
桜井は言い返しながらも、落ち着かない手つきでもう一度、袖口を整えた。
その仕草が無意識に見えるのが、一番タチが悪い。
僕は見なかったことにした。
見たら、こっちが落ち着かなくなる。
気まずさを抱えて歩き出した、その時だ。
「……今の、初動としては悪くない」
背後から、温度のない声が通り過ぎた。
佐伯だ。
彼女は足を止めない。
僕たちの横を一定の速度で追い抜きざま、独り言のように言葉を置いていく。
「反応速度、合格点。……あと、袖を引いた判断が正解。肌に直接触れると、余計なノイズが乗る」
挨拶もなしに、分析結果だけが降ってくる。
声色は淡々としていて、悪意の温度は感じない。ただ、効率の良さに感心しているような響きだった。
西村が笑いを堪えた声で言う。
「理系の分析だ」
「分析じゃない。観察結果」
佐伯は振り返りもせず、背中だけで続ける。
「ただ、ああいう接触はすぐ話のネタにされる。……教室って、情報の回りが早いから。気をつけて」
淡々としたアドバイス。
刺すつもりはなさそうなのに、釘だけが正確に刺さる。
桜井の足が、ぴたりと止まった。
「……どうも」
桜井の声が低い。
彼女は佐伯の背中を睨むように見つめて、不満げに呟いた。
「別に、理屈でやってるわけじゃないと思うけど」
「え?」
「なんでもない」
桜井はぷいっと顔を背けた。
自分のことならともかく、僕の行動を勝手に分析されたのが気に入らないように見えた。
あるいは、ただ単に「恥ずかしいところを見られた」と思っているだけかもしれない。
校門が見えてきて、桜井がふいに僕との距離を詰めた。
誰にも聞こえない声で、囁く。
「安藤くん」
「なに」
「さっきの」
桜井は一瞬だけ言葉を止めて、自分の袖口を指先でつまむ。
僕がとっさに掴んで、くっきりと皺になってしまった場所。
「……皺、ついちゃった」
「ごめん……とっさだったから」
「ううん。……これくらいなら、アイロンかけなくていいかも」
桜井は自分に言い聞かせるように言って、その皺を確かめるみたいに指でなぞった。
「ありがと。助かった」
言葉は軽いけれど、指先はずっとその場所を離さない。
西村が前を向いたまま、独り言のように言う。
「はい、もう一ポイント」
「取らないでってば」
「取るよ。これ自動積み立てだから。満期になったら何が起きるか楽しみだねー」
「積み立てって意味わかんない」
桜井が文句を言う。
でもその歩幅は、なぜか頑なに僕の横からずれようとしない。
◇
教室に着くと、空気はいつもの朝の騒がしさに上書きされた。
席に座って、僕はシャーペンを取り出す。
黙ってやり過ごすほうが楽な自分の性分は、たぶん一生変わらない。
今日も基本は、背景に徹して流すつもりだった。
なのに。
通学路で、余計なフラグを立ててしまった。
ふと教室の真ん中を見る。
桜井が談笑の合間に、自分の袖口を左手でそっと包み込んでいるのが見えた。
僕が触れてしまった場所を、誰にも見えないように隠すみたいに。
あるいは、その感触を閉じ込めておくみたいに。
僕の視線に気づいたのか、彼女の手がぴたりと止まる。
止まって、何もなかったみたいにパッと離れる。
耳の先だけが、わずかに赤い。
僕は慌てて視線を切り、ノートの端に日付を書き殴った。
高二の四月。
西村の言う通りだ。
僕の意思とは関係なく、「青春ポイント」とやらは勝手に加算されていくらしい。




