第33話 匿名の引力と、鋭すぎる観測者
新学期の休み時間は、落ち着かない。
席が変わって、距離がリセットされて。
みんなが手探りで「盛り上がれる話題」を探している。
そして、その日の最初の火種は。
いちばん軽そうな顔をして、いちばん危ない場所へ転がっていった。
「ねえ、知ってる? 最近話題の、あのブログのやつ」
「ああ、主役になれなかった人たちの高校生活、ってやつ?」
そのタイトルが出た瞬間、僕の胃のあたりが勝手にきゅっと縮み上がった。
(……それって)
たぶん、桜井のやつだ。
去年から彼女が密かに書いている匿名エッセイ。
知ってるのは僕と西村だけ。
僕は「本文を見ない」と決めていて、西村は「見ている」。
この差が、今の僕らの役割分担として機能している。
僕は教科書を適当に開き、活字の上を視線だけ滑らせる作業に戻った。
モブの鎧は沈黙だ。
ここで不用意に顔を上げれば、見えない線が繋がってしまう。
「この前の駅前の回、マジでやばくなかった?」
「分かる。あの終わり方がずるいんだよ。読んだあと、いつもの帰り道がちょっと違って見える感じ」
好き勝手に語る声が、教室の空気を軽く持ち上げる。
匿名というのは、強い。
作者の顔が見えないぶん、読者は遠慮なく自分の理想を投影する。
勝手に神格化し、共感し、そして──遠慮なく事故も起こす。
僕はページをめくるふりを続けた。
心臓だけが、余計なテンポを刻む。
反射的に桜井のほうを見そうになって、理性がブレーキをかけた。
その代わり、視界の端で捉える。
桜井が談笑の輪の中で、笑顔を貼り付けたまま、スカートを掴む指先にぎゅっと力を入れたのを。
それだけ。
それだけで、彼女が平気じゃないのは分かった気がした。
(大丈夫。まだ、大丈夫だ)
そう自分に言い聞かせた直後。
隣でページをめくる音が、ふつりと止まった。
佐伯が、会話の盛り上がりを一度だけ見た。
興味本位ではない。
状況を、情報として取り込む目だった。
「それ、この前の『土曜日の更新分』の話だよね」
声がすっと通って、ざわつきが一瞬だけ凪いだ。
「え、佐伯さんも読んでるの?」
「意外、そういうの興味なさそうなのに」
話題の中心になりたがっていた女子たちが、意外そうに身を乗り出す。
佐伯は表情を変えず、平然と続けた。
「前の学校にいた時、SNSでたまたま流れてきた。……文章が、上手い」
感想は短い。だけど、妙に刺さる重さがあった。
「どこらへんが? 雰囲気?」
誰かが聞くと、佐伯は少しだけ宙を見て、正確な言葉を選び出した。
「視点の位置がいい。外側から見ているのに、解像度が高い」
「あと、情報の切り取り方が綺麗。……余計なノイズを消して、次に誘導してる」
教室の温度が、じわっと上がる。
ただの雑談が、批評の熱を帯びる。
褒め言葉のはずなのに。
僕は、嫌な方向の予感だけを拾ってしまう。
(やめろ、その具体的な褒め方は……)
それは、「作者への興味」を加速させる燃料だ。
視界の端で、桜井の背筋が強張ったのが見えた。
西村は何も言わない。言わないまま、目だけで教室の気流を読んでいる。
その判断の速さが、僕には警報に見えた。
「作者、絶対大人じゃない? 高校生にあんなの書ける?」
「いや、でも感性が最近の高校生っぽくない?」
予感的中。
作者の輪郭を特定しようとする方向へ、空気が流れ始める。
僕は今朝、ふとタイムラインで見かけたリンクを思い出した。
タイトルだけが視界に入って、僕は開かないままスマホを伏せた。
(……読まなくてよかった)
中身を知らないからこそ。
僕は今、作者の味方でも読者の味方でもない、フラットな顔をしていられる。
「……面白いでいいじゃん」
僕は教科書から目を上げないまま、独り言のように言葉を置いた。
声は小さく。
でも、教室の雑音に埋もれず、拾われるギリギリの音量で。
「匿名なんだからさ。作者が誰かを当てるのって、野暮だろ」
「面白いなら、それで終わりでいいんじゃないかな」
一瞬、空気が止まる。
水を差したわけじゃない。熱の方向を変えただけだ。
その隙を見逃さず、西村がカットインしてくる。
「そうそう! 作者当てってさ、当てた瞬間に一番冷めるやつじゃん」
「なにそれ」
「マジックの種明かしと一緒。しかも万が一当たって、本人が近くにいたりしたら地獄絵図でしょ」
西村の言い方は軽い。
軽いのに、的確な釘だけが刺さっていく。
教室の誰かが「あーね」と笑った。
その笑いに乗って、張り詰めていた緊張感が霧散する。
「確かに。面白いのは変わんないしな」
「作者、今ごろどっかの学校でニヤニヤしてるかもね」
危ない流れが、笑い話で薄まっていく。
その瞬間、視線が刺さった。
桜井と、ほんの一秒だけ目が合った。
彼女は、完璧な笑顔のまま。
机の陰で、人さし指を一度だけ折った。
小さく。
まるで、暗号みたいに。
(……警戒レベル、一段下げ。ありがと)
そう読めた。
僕は返事の代わりに、シャーペンを一回だけカチッと鳴らした。
小さい合図。
二人だけ分かるテンポ。
けれど。
隣から、無視できない視線の圧が来た。
「……今の、わざと?」
佐伯凛が、頬杖をついたまま僕を観察している。
「何が?」
「話題を誘導した。『正体』の特定から、作品の『評価』へ」
声に感情の色はない。
ただ事実を確認するような、フラットな響き。
なのに、図星を突かれているのが痛いほど分かる。
「偶然だよ」
「偶然にしては、タイミングが良すぎる。……火消しみたいだった」
佐伯はそれだけ呟いて、視線を自分のノートに戻した。
僕は内心冷や汗をかいた。
少なくとも。
今年の隣の席は、気が抜けない。
◇
放課後、教室がほどけていく。
帰宅組と部活組と、春の雑談組に分裂して。
僕はその端で、鞄の口を閉めるタイミングを測っていた。
視界の隅で、西村が桜井の袖を軽く引くのが見えた。
二人は示し合わせたように教室の外へ出ていく。
西村の口が早い。桜井は頷く回数だけが増えている。
見ないふりをして、僕も教室を出た。
昇降口へ向かう廊下。
背中にふわりと影が落ちた。
「……安藤くん」
振り返ると、桜井がいた。
近すぎない、それでいて周りの喧騒に溶ける、絶妙な声で話す。
「さっきの」
それだけ言って、桜井は一瞬、言葉を詰まらせた。
詰まらせたまま、僕の指先に視線を落とす。
一年の時の終業式、あの熱い握手の記憶が蘇る。
心臓が、勝手に不整脈を起こす。
「……ありがと」
言葉は短い。
けれど、そこには確かな体温が込められていた。
「……気をつけないとね」
何が、とは言わなくても通じる。
「うん。見てる人が多いのはうれしいけど……気をつけるね」
桜井は、冗談めかして言って、困ったように笑った。
その笑顔が、少しだけ無理をして貼り付けているように見えて、僕は目を逸らさないように意識した。
「春休み、お互い静かだったね」
「まぁ、休みだしね」
「ふふ。充電期間ってことだね」
桜井がふと顔を下に向けた。
「……クラス、離れたらどうしようかなって思ったら、なんか指が止まっちゃった」
桜井が、独り言みたいに小さくこぼした。
「……僕も。似たようなもんだよ」
「そっか。よかった、私だけじゃなくて」
桜井はそう言って、すぐにいつもの余裕ある表情に戻る。
それでも、纏う空気は少しだけ慎重だった。
さっき教室で漂った“作者特定”の気配が、まだ彼女の肌に残っているのかもしれない。
桜井は廊下の前後の人影をさりげなく確認してから、さらに声を潜めた。
「……忘れてないよね」
「何を?」
「私の、観察係。……休み中静かだったから、契約切れちゃったのかなと思って」
冗談みたいなセリフなのに、上目遣いの瞳だけは冗談じゃなかった。
不安と確認と、少しだけ期待が混ざっているように見えた。
僕は息を整えて、余計な言い訳を削ぎ落とす。
「忘れてないよ」
桜井の肩が、ほんの少しだけ緩んだ。
「よし」
その一言のあと。
彼女はすれ違いざま、僕の鞄の肩紐に指先をそっと触れさせて、すぐに離した。
スタンプを押すみたいに、一回だけ。
「今日は合格。……助かりました」
触れそうで触れない距離。
でも、心臓には直接届く温度。
「じゃ。明日も、観察係よろしくね」
「努力目標にしとく」
「あ、逃げた」
桜井は小さく笑って、今度こそ振り返らずに歩き出した。
その背中が、少しだけ軽くなっているように見えた。
匿名は強い。
だからこそ、脆くて怖い。
そして今年は。
その強さと怖さのすぐ隣で、僕は定期的に“更新確認”をされながら生きることになるらしい。




