第32話 二年目の春、プロのモブと転校生
廊下の掲示板に、二年のクラス名簿が貼られていた。
僕は人だかりの外側から、自分の名前を探す。
二年C組。
その行の少し上に、桜井すみれ。
さらにその隣に、西村千夏。
(……同じクラスか)
偶然というには出来すぎている並びに、自分でもよくわからない気持ちになった。
春休みは、驚くほど静かだった。
終業式の日にあんな大げさな「契約更新」みたいなことをしたくせに、メッセージの一つもなかった。
街でばったり会う都合のいい偶然も起きない。
(まあ、それが適正距離なんだろうけど)
スマホの画面を開いて、書いては消したメッセージがいくつあったか、彼女は知らないだろうし、言うつもりもない。
静かすぎて、あの日の握手が夢だったみたいに薄れていく。
なのに、指先に残った熱い感触だけは、なぜか消えてくれないのが嫌になる。
そして四月。
新しい名簿の前で、僕は一年間お世話になったモブの平穏が、音を立てて崩れる予感がしていた。
◇
新学期の教室は、紙の音が先に来る。
プリントが配られて、机の上で擦れる、さら。
椅子が引かれて、床が鳴る、ぎい。
どこかで誰かがファイルを落として、がたん。
窓の外は春の光が強い。
空気だけが勝手に「新しくなりました」って顔をしている。
(クラスが変わると何でも新しく見えるな)
僕は、受け取ったプリントを端から揃えながら、心の中で小さく宣言した。
今年は、プロのモブでいく。
ただ隠れるんじゃない。
照明係が舞台に上がらないのと同じだ。
主役たちが一番輝く角度を、客席の誰よりも知っている位置。
そこに徹する。
桜井すみれと、西村千夏。
あの二人と同じクラスになった以上、巻き込まれるのは確定事項だ。
なら、最高の観客席を確保しつつ、トラブルの火の粉だけをスマートに払う。
それが高二の僕の生存戦略だ。
◇
「えー、静かに。まずは席を決める」
新しい担任が教壇の前で声を張った。
三十代くらいの、少し気だるげな男性教師だ。
有無を言わさぬ手つきで、黒板にマグネットで大きな紙を貼り付ける。
座席表が貼り出された瞬間、教室は一気にイベント会場になった。
「うわ、最前列かよ死んだ」
「後ろだ! 神降臨! 俺の時代来た!」
「窓際、取られた……マジか」
席の位置で人生が決まる、と言わんばかりの熱量でみんなが黒板に群がる。
僕は人混みの圧をやり過ごし、波が引いてから座席表を確認した。
(……窓際)
しかも、いちばん後ろから二番目。
(よし。勝った)
目立たない場所というのは、それだけで安心する。
座席表の良し悪しは、一学期の成績より重要かもしれない。
しかし、その安心は秒で消えた。
僕の右隣の欄に、知らない名前がある。
『佐伯 凛』
(……誰だ?)
名簿にはなかった名前だ。
しかも、そこだけマジックの手書きで『佐伯 凛』と書き足されている。
黒板から目を離したタイミングで、野太い声が飛んできた。
「俺、廊下側のいちばん前なんだけど!」
山本だ。相変わらず声がでかい。
大木も近くの席にいるのが見えた。いつものメンツがいるのは助かるが、今はそれどころじゃない。
「先生の視界に常時入る、最高の主役席だな」
大木が淡々といじる。
「終わった。俺の高二、始まって五分で終わった」
「まだ出席取っただけだろ」
周りがくすくす笑う。
春の騒がしさは嫌いじゃない。
刺さっていたトゲが抜けるように、空気が柔らかくなる。
僕は自分の席──窓際の後ろから二番目へ向かった。
右隣の席は、空席のままだ。
全員の移動が終わり、ざわめきが落ち着くのを待って、担任が口を開いた。
「よし。じゃあ、最後のひとりを紹介する。入って」
教室の扉が、静かに開いた。
空気が一瞬で変わるのがわかった。
入ってきたのは、女子生徒だった。
背筋がすっと伸びていて、目元が涼しい。
艶やかな黒髪は腰まで届く長さで、派手じゃないのに自然と視線が集まるタイプの落ち着きがある。
(……あの子が、佐伯凛?)
教壇の横に立った彼女は、短く頭を下げた。
「佐伯凛です。四月からこちらに転入しました。よろしくお願いします」
声も表情も必要な分だけ。
自己紹介って、もう少し「初めまして」の揺れが出るものだと思ってたけど、佐伯は違った。
担任が何か一言あるかと促すと、佐伯は一拍置いて続けた。
「前の学校では、弟のゲーム配信の説明文を直したり、学校のイベント紹介文を手伝ったりしてました。文章を考えるのが好きです」
教室がちょっとだけざわつく。
「配信……?」
「紹介文って、配ったりするやつ?」
「それ地味にすごくね」
担任が「へえ」と頷いた。
「文章得意なら、助かるかもな。五月くらいからクラスのまとめみたいなのを予定なんだよ。まあいい、佐伯の席はあそこだ」
担任が指差したのは、僕の隣──唯一の空席だった。
佐伯が顔を上げ、迷うことなくこちらへ歩いてくる。
近づくにつれて、教室中の視線が僕の周辺に集まるのを感じる。
(前言撤回。これ、一番気の抜けない席だ)
彼女は僕の横まで来ると、音もなく椅子を引いて座った。
すぐに教科書を開いて、騒ぎの外に自分を置く。
クラスの連中は遠巻きに様子を伺っているが、この「話しかけるなオーラ」のせいで誰も近づけないようだ。
(……マイペースだな)
ページをめくる指先が静かで、無駄がない。
ふっと、清潔な石鹸のような匂いがした気がした。
◇
休み時間。
僕がノートを閉じたタイミングで、右隣から小さい声が飛んできた。
「さっき先生が言ってた、クラスのまとめって」
佐伯だ。
視線はノートの上のまま。
「クラスの主役の話だけ集めたら薄っぺらくなりやすい」
挨拶もなしに、いきなり切り口が鋭い。
「……主役の話って?」
「目立つ人の話。盛り上がるけど、だいたい内容は同じになるから」
温度のない言い方なのに、妙に説得力がある。
僕が返事を探していると、佐伯が淡々と続けた。
「主役じゃない側の一言を拾えると、内容に厚みが出る。……そういうのが、本当のリアリティになると思う」
言いながら、ちらっと僕を見た気がした。
(この人、初日からもうそんな事考えてるのか)
僕は戸惑いながらも、曖昧に頷いた。
そのとき、僕と佐伯の会話を断ち切るように、前から影が落ちた。
「安藤くん」
顔を上げると、桜井が立っていた。
なぜか、笑顔なのに目が笑っていない気がする。
彼女は、僕の机の右斜め前──ちょうど佐伯との境界線あたりに立った。
それから、僕の机の右上の角に手をついて、ぐいっと身を乗り出してくる。
まるで僕と佐伯の間を、物理的に分断するような配置だ。
彼女の腕と体が壁になって、僕の視界から佐伯が消える。
強制的に、桜井だけを見る形になる。
距離が近い。
視界いっぱいに桜井の顔があって、ふわりと匂いが混ざった。
「なに話してたの?」
「いや……大した話じゃないよ」
「ふ〜ん……」
桜井はそう言いながら、ついていた手で、僕のプリントをトン、と叩いた。
それから、身を乗り出したまま、視線だけを自分のすぐ横──佐伯のほうへ向ける。
「転校生の佐伯さん、だよね」
佐伯が顔を上げた気配がする。
僕からは、佐伯の表情までは見えない。声だけが聞こえてくる。
「うん。佐伯凛。よろしく」
「桜井すみれ。よろしくね」
握手が発生しそうな空気なのに、桜井は動かない。
僕と佐伯の間を体で遮断したまま、言葉だけを交わす。
僕の右側で、桜井からの一方的な圧を感じる気がする。
対する佐伯は、あくまで無風だ。
その温度差が逆に怖い。
「文章好きって言ってたよね?私もなんだ」
桜井が軽く笑う。
「桜井さんも、文章書くの?」
佐伯が聞く。
桜井は一瞬だけ間を置いて、笑顔を崩さないまま言った。
「国語の作文は好きかな。あと、色々な空気を言葉にするとか……ね」
言い方が、妙に含みを持たせている。
僕は余計な反応をしないように、プリントを揃えるふりをする。
桜井が視線を僕に戻した。
「安藤くんは? 文章書くの?」
「僕は読む担当だから」
「逃げた」
「逃げた」
桜井が即断し、佐伯が淡々と復唱した。
同じ言葉なのに、味が違う。桜井のは揶揄で、佐伯のは確認だ。
変なシンクロを起こさないでほしい。
そこへ、呆れたような声が降ってきた。
「ちょっとすみれ。新学期早々、距離近くない?」
西村千夏だ。
いつの間にか桜井の背後に立って、ニヤニヤしながら僕たちを見ている。
桜井は、言われて初めて気づいたのか、ほんの一瞬だけ目が泳いで、すぐにすました顔を作った。
「……近い? 普通だよ。挨拶してただけ」
「普通は人の机に陣地作らないの。完全に囲い込みにいってるじゃん」
「気のせいだよ」
桜井はそう短く返して、少しだけ体を引いた。
西村は「はいはい」と楽しそうに笑って、今度は佐伯のほうを見た。
「で、こっちが噂の転校生?」
「噂はまだ出てないと思う」
佐伯が真顔で返す。
「出るよ。出る出る。初日に『文章好き』なんてキャラ立て、しかも美人!絶対出るでしょ!」
西村が予言者のように断言する。
桜井がたしなめるように言う。
「千夏、言い過ぎだよ」
女子の会話のラリー。
僕はその端で、黙って嵐が過ぎるのを待つ。
モブとして気配を消すのは得意だ。
桜井が、ふっと声のトーンを落とした。
「とにかく。二年生もまたよろしくね」
それは、普通の挨拶のはずなのに。
桜井の視線だけが、僕の指先に一瞬落ちて、すぐに戻った。
僕は何も言わずに、ほんの少しだけ顎を引いて頷いた。
桜井は、誰にも分からないくらい小さく口角を上げた気がした。
席への戻り際。
僕にだけ見える角度で、桜井が唇を動かす。
『続き、始めるよ』
そう読めた気がした。
声は出ていない。
けれど、意味はわかった。
僕は返事の代わりに、シャーペンを一回だけカチッと鳴らした。
こうして、僕の高校二年生の春が始まった。




