第31話 終業式前後と、「契約更新」
終業式が終わって教室に戻ると、最後のホームルームが始まっていた。
「連絡事項読み上げるけど、聞きながら片付けていいぞー」
先生の投げやりな許可が出た瞬間、待ってましたとばかりに教室は片付いていく音で満たされる。
掲示板の紙が剥がれる、びり。
ガムテープが伸びる、べりべり。
ロッカーの中身が減っていくにつれて、空気まで軽くなっていく。
みんなのテンションだけ、先に春休みに突入している。
(一応、話も聞いてやれよ)
黒板の端に貼られていた係の表とか、行事予定とか、いつの間にか見慣れていた紙が次々と消えていく。
それを見てると、逆に実感が遅れてくる。
一年、終わるんだな。
四月のあの「新しい席の匂い」から、ここまで来たのかと思うと、変な感じだ。
長かったようで、教室の中だけで見れば、あっさりしている。
山本が、ロッカーの前でガサガサと何かを探していた。
「やばい、俺の消しゴムが一年の闇に飲まれてる」
「一年の闇って何」
大木が笑いながら返す。
「机とロッカーはブラックホールだからな」
(ほんと、そう)
僕も自分のロッカーを開けて、奥に押し込まれていたプリントの束を見つけた。
見なかったことにしたい過去が、わりとある。
(モブは“整理整頓”が下手でも許される……はず)
そう自分に言い訳しながら、必要そうなものだけを抜き出して、カバンに入れた。
◇
その流れで、通知表が配られる。
教室が、その瞬間だけやたら静かになる。
先生が名前を呼んで、一人ずつ前に行って受け取る。
その動きが繰り返されるだけなのに、なぜか心臓が少しうるさい。
前の席の大木が、やけに背筋を伸ばして座っている。
(……大木が緊張してるの、珍しい)
その背中越しに、教室の真ん中あたりから落ち着きのない気配が伝わってきた。
足をカタカタさせてるの、たぶん山本だ。
「なあ安藤ー」
前の席から声だけが飛んでくる。
「なに」
「通知表ってさ、封筒に入ってるよな?」
「入ってるね」
「……見えないよな?」
「見えないよ」
「よかった。見えてたら人生終わってた」
(見えてたら終わる人生って何だ)
大木が小さく笑って、前を向いたまま肩を揺らす。
先生が山本の名前を呼ぶ。
山本が「はいっ」と無駄に良い返事をして前に出ていった。
受け取って戻ってくるまでが早かった。
戻ってきた瞬間、山本は席に沈んで、封筒を額に当ててうめいた。
「……生きてる」
「点数じゃなくて生存確認してるの、初めて見た」
大木が小声で言う。
山本は封筒を抱えたまま、まだ開けない。
「開けるの、家でにするわ。ここで開けたら場が凍る」
「凍るのは山本だけだろ」
「俺が凍ると、周りも気まずいだろ」
(巻き込むな)
僕の名前が呼ばれて、前に出る。
封筒を受け取るときに、先生が小さく言った。
「安藤、一年よく頑張ったな。来年もこの調子でな」
無難に刺さるタイプの一言だった。
褒められてるのに、目立たない感じがするやつ。
「はい」
僕はそれだけ返して席に戻った。
封筒の中身は、たぶんいつも通りだ。
悪目立ちしない点数。
誰かに羨ましがられないし、心配もされない。
(モブのちょうどよさ)
封筒の角を指で軽くなぞって、安心する。
この安心感だけは、わりと好きだ。
◇
ホームルームが終わって、解散の空気になる。
教室の後ろの扉に、部活へ急ぐ連中や、一刻も早く帰りたい組が殺到する。
僕はその激流に巻き込まれるのを避けて、わざと席でカバンを整理するフリをした。
みんながいなくなってから、静かに出ればいい。
モブの基本スキル、「時間差退室」だ。
そうやって嵐が過ぎるのを待っていると。
教室の前の方から歩いてきた誰かが、僕の机の横を通り過ぎた。
桜井だった。
彼女は足を止めない。
僕の方を見もしない。
ただ、すれ違う一瞬、僕にだけ聞こえる声で呟いた。
「……階段の踊り場で、待ってる」
それだけ。
桜井はそのまま、歩くスピードも変えずに教室を出ていった。
周りの誰も気づいていない。
ただ近くを通っただけに見えたはずだ。
(……スパイ映画かよ)
僕は心の中でツッコミを入れつつ、少しだけ間を空けてから席を立った。
指定された場所に行かないという選択肢は、たぶんない。
◇
教室を出て、人の波が引いた廊下を歩く。
特別教室棟へと続く、東側の階段。
そこの踊り場は、予想通り静かだった。
部活へ行く生徒はみんな一階へ降りてしまうし、教室に残る生徒もここまで来ない。
桜井は、手すりに寄りかかって外を見ていた。
通学カバンを肩にかけ、手には未開封の茶色い封筒を持っている。
真昼の明るい陽射しが差し込んで、舞っている埃が白く光って見えている。
僕の足音に気づいて、桜井が振り返った。
「おつかれ。見つからないように来た?」
「来たよ。悪いことしてる気分だ」
「悪いことはしてないよ。業務連絡」
桜井はくすっと笑って、持っていた封筒を軽く掲げた。
さっきまで中身を確認しようとしていたのかもしれない。
彼女は封筒を持つ手を下ろすと、少しだけ言葉を探すみたいに視線を落とした。
「あのさ……来年度も、エッセイ続けてもいいかな?」
いきなり本題だった。
でも、桜井の声は、少しだけ自信なさげに揺れていた。
「別に僕が決めることじゃないけど……」
僕は、なるべく逃げ道が残るように言葉を選んだ。
「書いてて楽しいなら、やめる理由なくない?」
背中を押すというより、扉の前の荷物をどかす感じ。
通りたいなら、通っていい。そういうだけ。
桜井は、大きく息を吐いて、肩の力を抜いた。
張り詰めていた糸が切れたみたいに、表情が柔らかく崩れる。
「……そっか。楽しい、か」
「たぶん、でいいと思う。断言すると逆にしんどいし」
「それ、分かる。断言すると“やらなきゃ”になる」
桜井が頷いて、こぼれるように笑った。
それは学校で見せる「桜井さん」の顔じゃなくて、もっと無防備な顔だった。
「更新落ちるときもあると思うけど、それも込みでいいんじゃない」
「うん……そういう“逃げ”の許可が欲しかったのかも」
(逃げの許可)
それを人に言えるのって、たぶん強い。
僕が黙っていると、桜井は封筒の角を指でいじりながら、もう一つだけ言った。
「で、もう一個」
ここからが本命っぽい。
桜井は顔を上げて、僕をまっすぐ見た。
「来年度も、観察係よろしくね」
窓からの光が逆光になって、表情が少し眩しそうに細められる。
さりげない言葉だけど、その目は逸らさずに僕を見ていた。
僕の中で、言いかけた言葉があった。
(当たり前だろ)
たぶん、それが一番素直だ。
でも、それを言った瞬間、空気が一段だけ固くなる気がした。
春休みの初日に、心臓の仕事量だけ増やしたくない。
僕は、飲み込んで、代わりに安全運転の返事を選んだ。
「……業務、更新でお願いします」
言ってから、自分でも少し笑いそうになる。
こういう言い方にすると、変に真面目にならずに済む。
桜井は、一拍だけ止まって、それからぱあっと顔を輝かせた。
「口頭更新だけ?」
桜井が、右手を差し出してきた。
小さくて白い手。
階段の下から、運動部の掛け声が微かに響いてくる。
「……なに」
「ほら、区切り。句点みたいなものだから」
儀式、と言わずに、句点と言った。
文章を書く彼女らしい、でも少しだけ言い訳がましい比喩。
差し出された指先が、わずかに震えているようにも見えた。
言い換えられた瞬間、僕の返事の置き場がなくなった気がした。
僕は一瞬だけ迷って、恐る恐る手を伸ばした。
桜井の手のひらに、僕の手のひらが触れる。
柔らかい感触と、確かな体温が伝わってくる。
ぎゅっと握るわけじゃなく、ただ触れて、確かめ合うだけの握手。
桜井は、恥ずかしそうに視線を少しだけ逸らして、でも手は離さなかった。
「更新完了。ありがとうございます、観察係さん」
数秒の後、桜井は手を離して、いたずらっぽく付け足した。
「これで来年度、苦情は受け付けませんので」
「……あくどい契約だった」
「返品不可です」
桜井は「じゃ」と小さく手を振って、階段を降りていった。
その足取りは、来る時よりもずっと軽やかに見えた。
僕はその背中を見送ってから、自分の封筒を持ち直した。
(来年も、モブのままじゃ済まない気がする)
今日の終業式は、終わったはずなのに、まだ余韻だけ残ってる。
教室の掲示物はもう半分以上消えている。
ロッカーも軽い。
なのに僕の中だけ、ひとつだけ片付かない。
モブでいるはずだった。
なのに、桜井の「よろしくね」が、僕の中でまだ鳴っている。
僕は目立たないように息を吐いて、右手を軽く握ってみた。
手のひらに、まだ微かに熱が残っている気がした。




