第30話 学年末テストと、「回復案件」
学年末テスト最終日の朝の教室って、無駄な音が消える。
いつもなら、誰かの笑い声とか、椅子を引く音とか、プリントが落ちる音とか、いろんなノイズが混ざってるのに。
今日は、机の上の筆記用具の音だけが目立つ。
鉛筆の先が紙をこする、カリカリ。
シャーペンのノックが、コツコツ。
消しゴムが転がる、ころん。
(……なんか、音だけで緊張感を作れるんだな)
年度末って、教室が勝手に“片づけモード”に入る。
まだ何も終わってないのに、もう終わった顔をする人が増える。
机の中を整理し始めるやつまで出てくる。
その“終わった顔をする人”の代表格が、今日もいた。
「今回こそマジでやる」
山本が、筆箱を開けながら顔だけは落ち着いてる風に言った。
「前回も言ってた」
大木が即座に刺す。
中から出てきた鉛筆が、やたら多い。
「2BからHBまで揃えた。全部違う濃さ」
「揃える方向性がズレてる」
大木が半笑いで言う。
「濃さで運命変わると思ってんの?」
「変わるかもしれないだろ」
(気合いだけは伝わる)
僕は、目立たないようにペンケースを確認した。
シャーペン一本、替芯、消しゴム。
いつも通り。
(……平常運転。モブは平常運転)
大木が、前から小声で話しかけてきた。
「安藤、昨日寝た?」
「寝た」
「何時間」
「……寝不足自慢、始まった?」
僕が適当に返すと、大木は「お約束だろ」とだけ言って前を向いた。
黒板の前で先生が「机の上には筆記用具だけ」と言っている。
(終わりの手前の空気って、こういう感じか)
◇
最後の科目が終わった瞬間、教室が一斉に呼吸し始めた。
先生が答案を回収してる間って、普通はまだ静かなはずなのに。
今日だけは、空気がもう解放に向かってる。
「終わった……俺、自由……」
山本が机に突っ伏して、やたら大げさに言った。
「まだ回収中だから静かに」
「はい……」
返事だけ妙に素直で、クラスのあちこちで小さく笑いが漏れる。
「通知表こわ」
誰かがぽつりと言って、空気が一瞬だけ現実に戻る。
戻ったけど、すぐにまた薄まる。
終わった。
とりあえず今日の戦いは終わった。
そういう“終わった感”が、机の間をぬるっと流れていく。
(帰れるなら帰りたい)
僕は本気でそう思った。
この後の教室って、たぶん「どこが出た?」とか「やばい死んだ」とか「春休み何する?」とか、そういう“解放の雑音”で満たされる。
その雑音に巻き込まれる前に、外に出たい。
カバンを持って、なるべく自然に席を立とうとした、そのタイミングで。
廊下側の扉の近くで、桜井すみれと目が合った。
なんでこのタイミングで、って思うくらい、ちょうどいいところにいる。
桜井は、いつもの軽い顔で、でも声は小さく言った。
「テスト終わったら、スポドリ買う? って言ってた件、覚えてる?」
(覚えてたのか)
僕が油断しかけた頃に、桜井はちゃんと覚えてる顔で持ってくる。
そういうところが、地味にずるい。
「覚えてる。業務連絡っぽいやつ」
「業務です。回復案件」
「案件化すな」
僕が言うと、桜井は口元だけで笑った。
そして、目線だけで廊下の先を指す。
「自販機、こっち」
流れに逆らう隙がなかった。
◇
渡り廊下にある自販機前は、嘘みたいに人がいなかった。
テストが終わった直後なら、もっと人が流れてくると思ってたけど。
実際は、答え合わせで教室に残る組と、一気に部活のほうへ流れた組に割れたらしい。
教室棟と特別教室棟をつなぐこの場所だけ、エアポケットみたいに静かだった。
(……想像以上に、二人きりだな)
桜井は迷いなくスポドリのボタンを押した。
ガコン、と音がして、ペットボトルが落ちてくる。
「はい。回復案件」
「回復アイテムみたいに言うな」
「回復アイテムです。使用者、安藤くん」
「誰が使用者だ」
桜井が差し出してくるので、僕は受け取った。
冷たい感触が手のひらに残る。
「……ありがとう」
「いいの。業務だから」
「じゃ、こっちはお返し」
僕は言いながら、同じスポドリのボタンを押した。
ガコン。
落ちてきたペットボトルを取る。
その側面に、カバンの外ポケットから出した小さな紙袋を添えて、一緒に差し出した。
朝、コンビニで買った、個包装の焼き菓子がひとつ入っているだけのやつ。
それだけ。
「……なにこれ」
桜井が、きょとんとして手元の袋を見た。
「前の報酬の、追加払い」
僕はなるべくなんでもない風を装って言った。
「感想文の提出だけじゃ安すぎるって、雇い主がうるさそうだから」
「……」
桜井の目が、紙袋と僕の顔を何度か往復した。
状況を処理するみたいに、少しだけ瞬きが増える。
それから、じわじわと口元が緩んでいくのを隠しきれない顔になった。
「……年度末の精算?」
「そう。持ち越すとややこしいから」
「とぼけ方が下手」
桜井は笑いながら、紙袋を受け取った。
大事そうに、でも手早くカバンに滑り込ませる。
「受領。……雑じゃない?」
「雑にすると、楽だから」
「それ、便利って言葉で全部片づけるやつ」
桜井は楽しそうに笑って、カバンの口を閉じた。
テスト終わりの自販機前って、ただの水分補給のはずなのに、会話の余白ができる。
余白ができると、言わなくていいことまで言いたくなるから怖い。
桜井が、ペットボトルのキャップを開けながら、ふっと言った。
「最近さ、あれ……更新ちょっと落ちてたんだけど」
あれ、の言い方で分かる。
匿名のやつ。文章のやつ。
僕は頷くだけにした。
「そうなんだ。忙しかった?」
「忙しいっていうか……まとめたくなって」
桜井は視線を落として、ラベルを指先でなぞった。
「小分けにするのが、逆に難しくなったんだよね。書きたいことが、まとまって一個になっちゃう感じ」
「まとまって一個」
「うん。一年分のこと、一回ちゃんとまとめた長いやつ、書いてみたいなって思ってて」
“長い”って言った瞬間、桜井の声の選び方が少しだけ慎重になった気がした。
「でも、どこから手を付ければいいか分かんなくて」
桜井は笑って誤魔化すみたいに言ったけど、その笑い方はいつもより少し短かった。
「イベントの羅列だと薄くなるじゃん。でも感情だけに寄せると、誰かを勝手に主役にしちゃいそうで怖いし」
(……なるほど)
そういう悩み方をするところが、桜井らしい。
面白い話を書きたいだけじゃなくて、ちゃんと“誰かの扱い”を気にしているのが伝わってくる。
僕はスポドリを一口飲んで、喉の奥の乾きが落ち着くのを待ってから言った。
「出来事じゃなくてさ。“教室の仕組み”でまとめるのは?」
「仕組み?」
「席替えで、見える景色が変わるとか。行事のたびに、教室の真ん中が勝手に熱くなるとか」
桜井が、少しだけ顔を上げる。
「端っこの席の人間が、どうやって空気を受け流してたか、とか」
「……それ、端っこの席の人間の意見だ」
「はい、当事者です」
桜井が小さく笑って、でもすぐに真顔に戻る。
「でも確かに。事件っていうより、同じ場所で同じ人が、勝手に違う顔になるもんね」
僕は、それに乗せて言葉を足した。
「一年って、事件があったから覚えてるんじゃなくて、同じ場所で同じ人が“ちょっとずつ違う顔”したから残ってるんだと思う……たぶん」
言った瞬間、自分で少し恥ずかしくなった。
(何か気の利いたこと言ったみたいになってない?)
でも桜井は、照れた顔もしないで、すぐスマホを取り出した。
画面を見て、指を動かして、メモしてるのが分かる。
「それ、使っていい?」
「……どうぞ。著作権とかないので」
「採用。ありがと、観察係」
また業務に寄せてきた。
でも、その“業務”のラベルが、今はちょうどいい。
僕は桜井がメモするのを見て、嬉しいのか何なのかよく分からないまま、スポドリをもう一口飲んだ。
冷たいのに、胸のあたりだけが変に温かい。
◇
自販機の横で、少しだけ沈黙が落ちる。
桜井がキャップを閉めて、やけに事務的な声を出した。
「あと、終業式の前後でさ、もう一個だけ相談してもいい?」
「相談?」
「年度末なので。まとめて処理したい」
まとめて処理。
その言い方で、なんとなく内容が重そうなのが伝わってくる。
僕は「また図書室で」って言いそうになって、飲み込んだ。
言ってしまうと、“約束”になる。
約束になると、心臓が余計な仕事を始める。
だから僕は、なるべく平然と頷いた。
「……いいよ。タイミング見て」
「了解。タイミング見ます」
桜井は頷いて、口元だけ少し緩んだ。
そして、さっきより少しだけ軽い足取りで、廊下のほうへ戻っていった。
僕も、それに続いた。
テストが終わったのに、また“来年につながる予定”が一個増えた気がした。




