第29話 図書室と、「穴場」の続き
学年末テスト前の教室は、空気が勝手に固くなる。
机の上に並ぶのがプリントじゃなくて、問題集と単語帳になって。
黒板の端っこに「範囲:ここまで」みたいな小さな文字が増えて。
休み時間の雑談が、いつの間にか「昨日何時まで勉強した?」に置き換わっていく。
(……勉強の中身より、時間の話が多いのはあるあるだな)
僕は窓側の後ろから二番目の席で、その変化をなるべく静かに眺めていた。
眺めていた、はずだった。
「安藤ー、これさ、どっちで解く?」
前の席の大木が、ノートをひらひらさせた。
(来た)
誰かに頼られやすい顔をしてる自覚はない。
むしろ「話しかけないでください」って額に貼り紙したいくらいなのに、テスト前だけは勝手に“教える人”に仕立て上げられる。
「えっと……ここ、先に公式当てはめて。で、例題と同じ形になるから」
「おお、なるほど。ありがと」
(よし。深追いされる前に切る)
大木の「助かった」が教室に馴染む前に、教室の真ん中から別の声が乗ってきた。
「今日から俺、勉強キャラでいくわ」
山本が胸を張って宣言した。
「うわ、キャラ変宣言」
「今まで何キャラだったの」
「陽キャ」
「それはキャラじゃなくて属性」
女子のツッコミが飛ぶ。
山本は笑いながら、机の上に広げたノートを見下ろして言った。
「……ってかさ、まずノートがどれか分かんねーんだけど」
(崩壊が早い)
どっと笑いが起きる。
勉強モードの教室にしては、まだ平和なほうだ。
ただ、その笑いの中にいると、僕のほうにも視線が寄ってくるのが分かる。
(この流れだと、次は僕が“解説係”にされるやつ)
僕はすっとカバンを持ち上げた。
その拍子に、ふと桜井の席が視界に入る。
そこだけ、綺麗に空だった。
(……逃げ時)
「ちょっと図書室行ってくる」
誰にともなく言って、返事を待たずに廊下に出る。
背中で「逃げた」みたいな声が聞こえた気がしたけど、気のせいだと思うことにした。
モブは、戦場から離れるのが一番だ。
◇
図書室のドアを開けると、空気が一段冷たくなる。
暖房の効いた教室と違って、ここは静けさが先に来る。
ページをめくる音と、シャーペンの芯が紙を擦る音が、規則正しく響いている。
(……よし。誰もいない席、取れる)
そう思って足を踏み入れた、その瞬間。
奥のほう、窓際の席に、見覚えのある背中があった。
黒い髪をまとめて、机の端に問題集を積んで。
ペンケースと、付箋と、スマホ。
桜井すみれが、そこにいた。
そして、そこは。
(……あ)
僕の足が、ちょっとだけ止まる。
同じ席。
同じ机の端。
同じ、妙に落ち着く静けさ。
七月。
テスト前に、僕が“穴場”を探してここに来て。
先客として彼女がいて、そのまま何となく隣に座って、無言で勉強した日。
説明しようとすると薄くなるやつだ。
でも、思い出すと温度だけが戻ってくる。
桜井が顔を上げる。
「……あ。ここ、また被ったね」
声が小さくて、図書室に合っている。
その小ささが、やたらと狙って出してるみたいで困る。
「前もここだったよね」
僕が言うと、桜井は少しだけ目を細めた。
笑った、というより、そういう形になった、みたいな。
「うん。穴場の続き」
「続きって言い方、なんか連載みたい」
「連載です。期末まで」
さらっと言って、桜井は自分の隣の椅子を、ほんの少し引いた。
座っていい、って合図に見える。
(……いや、深読み)
そう思いながら、僕は静かに椅子に座った。
座った瞬間、机の端に置かれた桜井の付箋が、ちょっとだけ僕のほうを向いている気がした。
気がしただけだ。
見ない。見ないって決めてる。
◇
しばらく、会話はほとんどない。
問題集のページをめくる音が二つ。
消しゴムのカスを払う小さな動き。
机の上で、シャーペンが転がりそうになるのを慌てて押さえる指。
こういう時間は、教室だと成立しない。
誰かの笑い声が入って、誰かの話題が混ざって、勝手に“みんなの時間”になる。
でもここは、そうならない。
僕と桜井の間にあるのは、言葉じゃなくて同じ空気だ。
(……普通の勉強)
そう自分に言い聞かせて、問題に集中する。
集中してると、ページの端で手が止まる瞬間が来る。
(糖分補給)
僕はポケットから、チャック付きの小袋を取り出した。
中から、個包装のチョコを一個だけ出す。
クリーム色の箱に入っていた、ビター味のやつ。
箱ごと持ち歩くのは邪魔だから、今日食べる分だけ移し替えてきた。
いかにも「大事に食べてます」みたいな主張はしていない……と思う。
思うんだけど。
隣から、視線の気配がした。
桜井が一瞬だけ、僕の指先とチョコを見て。
すぐに何もなかったみたいに問題集に戻る。
(……見られた)
(というか、このチョコの出所、この人だ)
突っ込まれたわけでもない。
言われたわけでもない。
なのに、僕の心臓だけが勝手に騒ぐ。
(落ち着け。これはただの糖分だ)
僕は包装を静かに開けて、口に入れた。
甘さが広がる。
同時に、あの夜の小さい公園の街灯の光が、頭の隅にちらっと差し込む。
(説明すると、イベントになる)
だから僕は、何も言わない。
桜井も、何も言わない。
その沈黙が、妙に優しい。
……と思った次の瞬間。
桜井がシャーペンを置いて、付箋を一枚剥がした。
さらさらとペンを走らせる音が、やけに近い。
次の瞬間、付箋が指先からふわっと浮いて、僕のノートの端に落ちた。
(……落ちた?)
拾って返そうとして、文字が見えてしまう。
『糖分補給、必要』
(見えてしまった)
(というか、これ……僕宛てだよな)
僕が顔を上げると、桜井は問題集から目を離さないまま、言い訳みたいに小さく囁く。
「……今の、落ちただけ。図書室だから、声出せないし」
「落ちただけにしては、刺さる文字だね」
「仕様。観察係向け」
僕は小袋から、もう一つチョコを取り出した。
机の上を滑らせて、桜井の手元に置く。
桜井は受け取るのが早かった。
顔は真面目なまま。
なのに指先だけが、慣れたみたいに迷わない。
包装を静かに開けて、口に入れる。
何もなかったみたいに、ページをめくる。
自分が渡したものを、相手が持ってきていて。
それをまた、自分が食べる。
よく分からない「共有」の形に、僕だけが妙に落ち着かない。
桜井は付箋を自分のノートに貼り直して、何事もなかったみたいに問題集に戻った。
その仕草だけで、さっきの甘さが少し濃くなった気がした。
◇
十五分くらい経ったころ、桜井がシャーペンを置いて、小さく息を吐いた。
「……今日の教室、急に“勉強できる人”が増えた気がする」
小声なのに、的確すぎて笑いそうになる。
「分かる。さっき山本が“今日から勉強キャラ”宣言して、秒速で崩壊してた」
「秒速で?」
「ノートがどれか分からないらしい」
「それはもう、勉強以前の問題」
桜井の口元が、ほんの少し上がる。
「期間限定の職業、『受験生』、みたいな」
「限定すぎる」
「期間限定だからみんな頑張れるんじゃない?」
「その理屈だと、夏休みの宿題も限定のはずなんだけど」
「うわ、急に現実ぶつけてくる」
小さな笑いが二つ、机の上で転がる。
桜井は何か思いついたみたいに、机の端の付箋を一枚剥がした。
そこにさらさらとペンを走らせる。
(……また書いた)
覗かない。
覗かないけど、桜井の視線が一瞬だけ僕のほうへ来て、すぐ戻るのが分かった。
それが、やたらと“確認”っぽい。
桜井が付箋をノートに貼って、また問題集に戻る。
「……安藤くん」
「ん?」
「今の、“期間限定の職業”って言い回し、使っていい?」
「どうぞ。著作権とかないので」
「じゃあ採用。業務協力、ありがとうございます」
やっぱり、油断すると“業務”に寄せてくる。
でも今日は、それが不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、そういうラベルがあるから、隣にいられるのかもしれない。
桜井が、さらっと言う。
「……これ、覚えとく。来年も使うかもしれないし」
「来年って」
「うん。いいフレーズには、賞味期限がないから」
(……食品扱いかよ)
桜井の口調は軽いのに、言葉の選び方が妙に現実的で。
その「来年も会話している前提」の響きが、逆に照れる。
◇
そのあと少しして。
桜井が、問題集の同じページを何度か行き来しているのが視界の端に入った。
ペン先が止まる。
消しゴムが動かない。
目線だけが、式と設問の間を往復している。
(詰まってる)
桜井は、基本的に“できる側”に見える。
教室の真ん中で笑ってるときも、ちゃんと周りを見てるし、話の回し方も上手い。
だから、こういう“止まる瞬間”は少しだけ意外だ。
桜井が小さく僕のほうを見た。
「……これさ。解き方、二通りある?」
声が、さらに小さい。
図書室のルールを守ってる、というより、自分の中の何かを薄めてるみたいに聞こえた。
「見せて」
僕は椅子を少しだけ寄せて、ノートを覗き込んだ。
肩が触れそうで触れない距離。
触れないのに、触れそうってだけで、身体が勝手に意識してしまうのが腹立つ。
僕は指先で、問題文の条件を軽くなぞった。
「ここ。まず“場合分け”しないと、途中で迷子になるやつ」
「場合分け……」
桜井のペン先が、そこで一瞬止まる。
僕は声の大きさを意識して、囁くみたいに説明した。
「こっちの条件だと、最初からこの数は固定になるから……ここは計算しないでいい。で、残るのはこっち」
僕の指が紙の上を滑る。
桜井の視線が、その動きに合わせて動く。
近いのに、触れてない。
触れてないのに、やたらと意識してしまう。
(……集中)
桜井が小さく頷いて、ノートに式を書き足す。
「……助かる」
声がほんとに小さくて、聞き逃すところだった。
「どういたしまして。これ、教室で聞かれたら大声で説明する羽目になるから、むしろ今のほうがいい」
「それ、分かる。教室だと“教えてもらってる感”が出る」
「図書室だと“隣で確認しただけ”になる」
「便利だね、それ」
桜井が言ったあと、少しだけ間が空く。
その間に、桜井が僕の指先を見た気がした。
見た気がした、だけだ。
たぶん。
僕は少し距離を戻した。
戻したはずなのに、さっきより空気が近いまま残ってる気がした。
◇
気づけば、空の色がゆっくり濃くなっていた。
図書室の閉館時間が近いアナウンスが流れて、僕たちは同時に顔を上げた。
「……そろそろ出る?」
「うん。ここ、居心地良すぎて危ない」
「穴場の罠」
荷物を片付けて、席を立つ。
図書室のドアの前で、桜井が一拍だけ間を置いた。
「……また」
言いかけて、止まる。
桜井は咳払いみたいに息を整えて、言い直した。
「……また、たまたまね」
その言葉は、前にも聞いたことがある。
便利で、ずるくて、でも安心できるやつ。
「たまたま、便利だよね」
僕が返すと、桜井は少しだけ肩をすくめた。
「便利な言葉、乱用する派なので」
そのまま廊下に出る。
昇降口の手前で、桜井がふと思い出したみたいに言った。
「テスト終わったら、スポドリでも買う?」
「業務連絡っぽく言うな」
「業務です。期末後の体力回復案件」
「案件化すな」
桜井は小さく笑って、廊下の曲がり角で手を振った。
「じゃ、たまたまね」
「……たまたま」
僕も同じ言葉を返す。
たまたま。
偶然。
たまたま隣に座っただけ。
そういうことにしておけば、たぶん落ち着く。
僕はポケットの中で、チャック付きの小袋の角を指で確かめた。
中身のチョコは、もうだいぶ減っている。
さっきの付箋の文字が、頭の中にまだ貼り付いている気がする。
(袋は軽くなってるのに、なんで記憶だけ重くなるんだよ)
それはモブらしくない思考だったけど、今日くらいはいいかと思って、僕は一人で昇降口を出た。




