第28話 バレンタインの翌日と、追い焚き
二月十五日。バレンタインの翌日。
教室の空気は、魔法が解けたみたいに嘘のように静かだった。
黒板の隅の「バレンタイン」の文字は消されていて、代わりに「学年末テスト二週間前」という無慈悲な現実が書き込まれている。
男子たちも昨日の浮き足立った様子が嘘みたいに、参考書や単語帳を広げていた。
(……まあ、これが日常だよな)
僕も席に座って、次の授業の準備をする。
でも、ブレザーのポケットに手を入れると、指先に昨夜の余韻みたいなものが触れた気がした。
そこには、小さく折り畳まれた一枚のメモが入っている。
今朝、家を出る前に一つだけ食べた、クリーム色の箱のチョコ。
甘すぎない、カカオの香りが強いビター寄り。
口に入れた瞬間に思った。
(これ、僕が好きなやつだ)
自販機で無意識に選ぶ缶コーヒーの好みに近い。
甘いのに、甘ったるくない。
その箱が入っていた、小さな手提げ袋の底。
箱を取り出したあとに、この紙がひっそりと残っているのを今朝見つけたのだ。
『感想は三行まで』
『長文禁止。観察係の得意分野なので』
見慣れた字だった。
プリントの隅に走ってる、あの字。
(……朝から心臓に悪い)
僕はポケットの中の紙を、指先で確かめるように強くなぞった。
チョコの箱ごと持ってくるのは無理だけど、このメモだけなら、誰にもバレずに持ち歩ける。
平静を装って教科書を開いた、そのタイミングで。
「安藤く〜ん?」
横から、ひょいと顔を覗き込まれた。
西村だった。
「……なに、西村さん」
「いや〜? なんか今日、お肌のツヤがいいな〜と思って」
西村は隠す気ゼロのニヤニヤで僕を見る。
「昨日の“個別対応”、どうでした?」
「……っ」
思わず声が詰まる。
昨夜の公園の件は、当然ながら極秘事項のはずだ。
「なんで知って……」
「え、だってすみれ、昨日の帰り道にあんなに不機嫌だったのにさ。『邪魔が入った』って――」
「千夏、ストップ」
鋭い声が飛んできた。
振り返ると、いつの間にか後ろに立っていた桜井が、西村の口を手元のノートで塞いでいた。
「守秘義務。……ばらしたら契約、解除するよ」
「むぐぐ……解除って……目がガチなんだけど……」
桜井はいつもの涼しい顔を崩していない。
でも、ノートを押さえる指先にだけ、ほんの少し力が入っているように見えた。
「安藤くんも」
桜井が僕のほうを見て、短く言う。
「感想、今日中」
「……了解。三行で済ませる」
「よろしい」
その返事だけで、胸の奥が変に落ち着く。
暗号みたいなやり取り。昨日の続き。
桜井は西村の襟元をつまむみたいにして、自分の席へ引き戻そうとした。
そのとき、桜井のノートの間から紙が一枚ひらっと落ちた。
拾って渡そうとして、僕の指がその紙に触れる。
同時に、桜井の指も伸びてきて、一瞬だけぶつかった。
昨日ほどじゃない。カイロほどでもない。
なのに、記憶だけがやたらと正確に引っ張られる。
(……やめろ、思い出すな)
「……落ちた」
僕が言うと、桜井は紙を受け取って素早くノートに挟み直した。
「ありがとう。回収完了」
相変わらずの言い回し。
なのに、ほんの一瞬だけ、視線が泳いだように見えた。
(気のせいだ。僕の目が都合よく見てるだけ)
桜井が背中を向けて歩き出す。
そのまま行くと思ったのに、二歩だけで止まって、振り返らずに言った。
「待ってる間、寒かったでしょ」
「……え」
反射で固まる僕の隙をついて、桜井は畳みかける。
「風邪ひかれたら困るから」
「次から手袋してきて」
言い終わる前に、桜井は歩き出した。
西村の「はいはい出たよ管理側〜」という茶化す声が追いかける。
僕は机に戻って、教科書を開くふりをする。
ポケットの中の小さなメモが、やけに存在感を主張してくる。
(感想は三行まで)
(長文禁止)
提出物としては最高にくだらない。
なのに、最高にありがたい。
僕はノートの端に、三行だけ書き始めた。
『ビター寄りで食べやすい』
『香りが強いのにくどくない』
『手袋、用意しとく』
最後の一行を書いた瞬間、自分で自分に笑いそうになる。
(……なんだこれ)
でも消さなかった。
テスト前の憂鬱な教室が、昨日より少しだけ明るく見えた。




