第27話 夜の公園と、「業務上の適正な評価」
バレンタイン当日の夜は、びっくりするくらい普通だった。
晩ごはんを食べて、風呂に入って、部屋に戻って。
机の上には、課題プリントと教科書と、カバンのサイドポケットから救出した「一年B組女子一同」の小さな袋。
中身は、まだ開けていない。
(教室で配られたチョコとしては、これで十分だよな)
(“ゼロです”って状況からは、完全に脱出してるわけだし)
黒板の隅の行事予定。
ホームルーム前の「義理でもいいからゼロは回避したい」発言。
西村を中心にした、「クラス維持のための義理チョコ配布タイム」。
そして、合同義理の袋とは別に、桜井が何人かに渡していた、小さめの紙袋。
(“義理チョコ配る側”って、ああいうテンポなんだな、とか)
(そういう観察メモだけ増えて、特に何かあるわけでもなく一日終わり……のはずだった)
枕元に放り出していたスマホをなんとなく手に取った、そのタイミングで。
軽い通知音が鳴った。
画面の上部に、一瞬だけ名前が表示される。
「……マジか」
そこにあったのは、「桜井すみれ」の文字だった。
LINEのアイコンをタップすると、短いメッセージが二つ並んでいた。
『今日の教室の空気、観察係視点だとどうだったか聞きたいので』
『ついでに“お礼の現物支給”あります。近くで会える?』
メッセージを見た瞬間、息が浅くなる。
落ち着け……とだけ思う。
(“観察係視点”まではいつものノリなんだけど)
(そのあとに“現物支給”と“会える?”が並んでるの、急に破壊力高くない?)
親指が、返信欄の上をうろうろする。
数パターン頭の中でシミュレーションしては却下して、結局、一番シンプルなところに落ち着いた。
『大丈夫、行ける』
『何時に、どこ行けばいい?』
送信して数秒で返事が来る。
『河川敷のときに集合したコンビニ、覚えてる?』
『あの近くの小さい公園まで来られる? 街灯の下のベンチで』
画面の文字を目で追いながら、夏の光景がちらっと頭に浮かぶ。
(夏の花火のときに集合した場所の、ちょっと先か)
(“観察係召喚”にしては、だいぶロマンチック寄りの指定なのでは)
心臓の音と一緒に、変なツッコミが頭の中に並ぶ。
僕はコートを羽織り、「コンビニ行ってくる」とだけ言い残して外に出た。
◇
外の空気は、昼間よりもさらに冷たかった。
吐く息が、街灯の下で白く浮かぶ。
コンビニの明かりを通り過ぎ、その裏手にある小さな公園へ向かう。
街灯が一本。その下に、鉄製のベンチが一つ。
約束の時間まであと五分。
手をこすり合わせて暖を取っていると、背後の砂利を踏む音がした。
「お待たせ。寒いのにごめん、呼び出しっぽくなっちゃって」
振り返ると、マフラーに顔を埋めた桜井が立っていた。
頬が少し赤い。寒さのせいか、走ってきたせいか。
右手には、コンビニ袋とは違う、小さめの紙袋。
薄いクリーム色の紙に、細いリボンが巻かれている。
「いや、“観察係召喚”って書いてあったから、出動要請かなと」
「物騒な職種みたいになってるんだけど」
桜井は苦笑しながらベンチの横まで来て、僕の手元を見て、すぐに目線を外すみたいに言った。
「……手、冷たそう」
「まあ、冬だし」
「これ」
桜井はポケットから小さい使い捨てカイロを出して、押しつけるみたいに僕の掌に乗せた。
「え、いいの」
「取材協力者が風邪ひいたら困るから」
「あと、見てて寒いし」
今、さらっと余計な一言が混ざった気がしたけど、追及したら負けな空気だった。
「とりあえず、今日一日分の“教室レポート”を聞きたいです」
そう言って、桜井はベンチの背もたれに軽くもたれる。
そこからの会話は、本当にただの「業務報告」だった。
男子の無駄なプライド合戦とか、女子の義理チョコ配布の動線とか、ひとしきり話す。
「……なるほどね。やっぱりカオスだったんだ」
僕の話を聞き終えて、桜井は納得したように頷いた。
「で、本題の“現物支給”なんだけど」
桜井が片方の手袋を外す。
細い指先が、紙袋のリボンをそっと持ち直す。
「いつも、変な相談に付き合ってくれてるので」
そこで、ほんの少しだけ息を吸った。
「これ、“業務上の正当な報酬”です」
差し出された紙袋。
受け取ろうと手を伸ばすと、指先が紙ごしに一瞬だけ触れた。
冷え切った空気の中で、そこだけ驚くほど熱かった。
「……ありがとう」
紙袋を両手で受け取る。
ずしりとした重み。教室で配られていた義理チョコとは、明らかに質量が違う。
「これさ」
僕はずっと気になっていたことを、口にした。
「教室で、他のチョコと一緒に渡すのも、アリだったよね」
「なんでわざわざ、呼び出したの?」
教室で渡してくれれば、僕が放課後あんなにモヤモヤすることもなかったはずだ。
そう聞くと、桜井は「ああ、それね」と少しだけ顔をしかめた。
「行こうとはしたんだよ。ほんとに」
「でも」
「でも、あの空気」
桜井は短く息を吐く。
白い息が、街灯の光で一瞬だけ浮かぶ。
「山本くんがさ、机ふさいで、笑いの流れ作ってたでしょ」
「……あー、いたな」
「そこで渡したら、これも“はい追加で義理でーす”みたいに流されるじゃん」
桜井はベンチの背もたれを指でつつく。
「そういうの、嫌だったの」
「雑にされたくなかった」
その言い方が、妙に真面目で。
僕のほうが変に照れる。
「……取材協力者への報酬だから?」
「そう」
「頼んだ側が、ちゃんと渡すのは礼儀でしょ」
言い切ったあと、桜井はマフラーに少しだけ顔を埋める。
照れ隠しなのか、風が冷たいだけなのかは分からない。
「……よく分かった。こだわり強いな」
「今さら気づいたの」
桜井はふふんと笑って、マフラーを巻き直した。
「そろそろ帰るね。長居すると、さすがに怪しまれるから」
「了解。気をつけて」
背を向けかけた桜井が、ふと思い出したように立ち止まる。
「あ、そうだ。それ、中身もちゃんと美味しいやつだから」
「うん」
「ちゃんと味わって、感想提出して」
「次の相談の参考にするから」
「……プレッシャーのかけ方がプロなんだけど」
「共犯者なら、そのくらい応えてくれないと」
桜井は小さく手を振ると、公園の出口へと歩いていった。
その足取りは、教室のときよりもずっと軽やかに見えた。
一人残された公園で、僕は手元の紙袋を強く握りしめる。
(雑にされたくなかった)
(ちゃんと渡したかった)
ただの業務ロジックのはずなのに、寒さを完全に忘れさせる破壊力がある。
カバンの奥の義理チョコとは違う、リボンのついた「報酬」。
それは、僕がモブキャラの持ち場から一歩だけずれた証拠みたいに、街灯の下で静かに揺れていた。




