第26話 バレンタインと、観察係の持ち場
二月に入ると、教室の光の質が少しだけ変わる。
窓の外はまだ冬仕様で、空の色も、グラデーションというよりはただの薄い灰色に近い。
でも、黒板の隅っこには「二月の行事予定」のプリントが貼られていた。
期末テストの日程。
学年末の大掃除。
それから、十四日のところに小さく書かれた「バレンタイン」の文字。
(学校の公式行事でもなんでもないのに、ちゃんと行事予定に載るの、よく考えるとすごいよな)
冬休み中の「イルミネーション取材」や「初詣での偶然の遭遇」を経て、僕と桜井の間の「共犯関係」は継続中だ。
エッセイのネタ探しという名目で、たまに放課後に話す。
その距離感は、一月を過ぎても変わらず維持されていた。
ホームルーム前の教室は、いつもどおりざわついていた。
でも、そのざわつきの中に、いつもよりチョコレートっぽい単語が混ざっている。
「義理でもいいからゼロは回避したい」
前のほうの男子グループから、山本の声が聞こえた。
「そういうこと言うと、余計にゼロになるやつね」
「フラグの立て方が雑なんだよな……」
笑い声と一緒に、机が軽く揺れる。
(二月十四日が近づくと、教室全体の“イベント進行モード”が勝手に上がっていく)
(こっちは特に出番が決まってるわけでもないのに、イベント進行だけ勝手に進んでいく感じ、わりと見慣れた光景だ)
「はい、じゃあ女子ミーティング入りまーす。“義理”の範囲確認」
後ろの列から、西村の声がした。
数人の女子が、彼女の周りに自然と集まっていく。その輪の中に、桜井の姿も見えた。
「配る側? 配らない側? どうするの、店長」
「その呼び方やめてってば……」
そんな言葉が、教室のざわつきの中に混ざる。
女子の島からは、「全員は無理でしょ」とか「お世話になった人くらい?」とか、ところどころだけ単語が切り取られて聞こえてきた。
(“義理の範囲確認”ってパワーワードだよな……)
「たとえば?」
西村の声だけ、はっきり届く。
少し間があいてから、桜井の小さめの声。
「……観察係とか」
その単語だけ、教室のざわつきの中でもやけにはっきり耳に届いた気がした。
(今、“観察係”って聞こえたよな)
プリントをめくる手を止めずに、耳だけそっちに向ける。
でも、そのあとの会話は、ちょうどチャイムと周りの笑い声にかき消されてしまった。
(……聞き間違いってことにしておこう)
僕は、手元のプリントを一枚めくった。
黒板の隅の「バレンタイン」の文字だけが、やけにくっきり目に残っていた。
◇
二月十四日。
放課後直前の教室は、いつもより静かだった。
誰も何も言っていないのに、空気だけが妙にそわそわしている。
男子の何人かは、あえて普段どおりを装うみたいに、わざと大きめの声で喋っていた。
「よし、ホームルーム終わったら即帰りだな!」
「“何も期待してませんから”アピール逆に分かりやすいんだけど」
そんなやり取りが飛び交う中、担任のホームルームがさくっと終わった。
先生が出て行くのを待っていたかのように、教室の空気がもう一段階ざわついた。
「はい、では“クラス維持のための義理チョコ配布タイム”、さくっといきまーす」
西村が、半ばヤケ気味な声で宣言する。
「名前のつけかた」
「本命じゃないって最初に明記しておくの、大事だから」
数人の女子が、西村の机の周りで袋を持ち上げた。
小さな個包装のチョコが、透明の袋に数個ずつ入っている。袋には、「一年B組女子一同」と書かれた小さな紙が差し込まれていた。
(クラス合同義理セット、特に説明もなく当たり前みたいなテンションで始まった)
そんなことを考えているうちに、その波がこちらにもやってきた。
「はーい、安藤」
西村が、僕の机にその小袋を置く。
「とりあえず、これで“チョコゼロ”は回避だから」
「言い方が若干、保険みたいなんだよな……けど、ありがとう」
「どういたしまして」
袋の中には、小さなチョコレートが三つと、よく見るメーカーのロゴ。
特別高いわけでもないけれど、「ゼロ」を回避するには十分すぎる中身だ。
「よっしゃ、ゼロ回避!」
前のほうの列で、山本が袋を掲げていた。
そんな会話を横目に見ながら、僕は袋をそっとカバンの横に置いた。
(教室で配られたチョコの範囲としては、普通に十分だよな)
そう自分に言い聞かせるみたいに、頭の中で言葉を並べる。
「はい、次〜」
西村たちは、ざっと教室を回りながら、男子の机に同じ袋を置いていった。
その少し後ろを、桜井が歩いている。
彼女の手には、クラス合同の袋とは別に、もう一つ、小さめの紙袋があった。
薄いクリーム色の紙に、細いリボンがくるっと巻かれている。
さっき女子の島から聞こえてきた「こっちは女子会用」「こっちは個人用」という声と一緒に見えた袋だ。
桜井が、委員長の机に紙袋を置いた。
「はい、“ホームルーム進行お疲れさま”セット」
黒板の前のほうでは、委員長の男子が、「いやいや、そんな」と言いつつ受け取っている。
そのまま廊下側の列へ流れて、プリント係の机の前で手が止まる。
「はい、“プリント配りのプロ”にも」
紙袋が渡って、相手が小さく会釈した。
そんな光景を、なんとなく視界の端で追いかけているうちに。
桜井の足が、僕の机の前まで来て、ほんの少しだけ、ゆっくりになった。
「安藤〜、安定のモブポジだな!」
そのタイミングで、山本が僕の机に肘をついた。
「そのラベリングやめろって毎回言ってない?」
「いやいや、“一年B組のモブ代表”としてクラス義理を受け取るの、大事な役割だから」
「代表する意味が分からないんだけど」
山本が笑いながら、僕の机に寄りかかる。
肘と肩で、机の前が半分ふさがった。
その向こうに、桜井の姿が見えた。
紙袋を持った手が、ぴたりと止まる。
彼女の視線が、僕と、その前に立ちふさがっている山本を交互に見て――そして、ふっと諦めたように逸らされた。
「桜井〜、それ何? 個人用?」
後ろのほうから、別の男子が声を飛ばす。
「“今日頑張った人”向けのやつ」
桜井は、軽く笑いながら答えた。
言いながら、彼女はまた別の机に紙袋を置きに行く。
その動きは、さっきまでと同じテンポに戻っていた。
(……だよな)
僕は自分の机の上に視線を戻す。
そこには、さっき置かれたクラス合同義理セットが一つだけ、ちゃんと存在していた。
◇
放課後。
部活に行く人たちと、真っ直ぐ帰る人たちとで、教室はじわじわ人が減っていった。
僕は、カバンに教科書を詰めながら、さっきの配布タイムを頭の中で巻き戻していた。
(客観的に見れば、全然“貰ってない”なんて状況じゃない)
(……のに、一瞬だけ、桜井から何か来るのを期待してた自分がいて)
そこまで考えて、カバンのチャックを閉める手が、ほんの少しだけ止まった。
その事実のほうが、ちょっと居心地悪かった。
クラス合同の袋は、カバンのサイドポケットにきちんと収まっている。
それ以上を、誰かに要求する理由なんて、どこにもない。
(そろそろ帰るか……)
カバンを肩にかけて、僕は立ち上がる。
視線だけ、もう一度自分の机の上を確認した。
そこに、新しい紙袋が増えている、なんてことは当然なくて。
黒板の隅の「二月の行事予定」のプリントだけが、静かにこちらを見下ろしていた。
僕は少しだけため息をついて、教室の後ろの扉を開けた。
廊下はすでに薄暗くなりかけていて、部活へ向かう生徒の声が遠くに聞こえる。
カバンの中の義理チョコの軽さが、妙に背中に響く帰り道だった。




