第21話 黒子のままでいたかったけど
文化祭が終わったその二日後、月曜の放課後。
最後のチャイムが鳴って、日直の号令が終わったあと。
ホームルームの締めとして、担任が教卓の前で腕を組んだ。
「はい、それじゃあ文化祭の講評ね」
教室のあちこちから、小さくため息みたいな声が漏れる。
(そういえば、まだ“公式の振り返りタイム”してなかったな)
文化祭のあと、日曜はまるっと休みで月曜は代休。
二日間の休みを挟んでからの文化祭講評は、若干の時差ボケ感がある。
「模擬店系は、どのクラスもよく頑張っていたけど、
一年B組の“教室カフェ”は、来場者アンケートで
『接客態度が丁寧だった』ってコメントが多かったみたいです」
担任は、プリントをちらりと見て続けた。
「それから──“スタッフブック”?」
教室のあちこちで、くすっと笑いが起きる。
「これも、『裏方の子たちもちゃんと楽しそうだった』とか、
『見えないところまで雰囲気が良かった』って書かれていました」
担任は頷いた。口角がほんの少し上がっているように見えた。
「先生も全部細かくは見られていないけど、
表も裏も、いいバランスで回っていたんじゃないかなと思います」
(アンケート、ちゃんと読んでくれてるんだな)
頭のどこかで、冷静にそう思う。
「はい、真面目な話はこのくらいにして。
じゃあ、机と装飾の片づけをしたら、今日は解散にします。
備品の返却先が分からないものは、長谷川に確認してね」
「はーい」
形式ばった返事がぱらぱらと上がる。
担任が教卓のプリントをまとめて、さっさと廊下に出ていく。
その瞬間、教室の空気が少しだけゆるんだ。
「文化祭ロスだわ……」
前のほうから、山本の声がする。
「テストロスなら味わってもいいけどね」
西村が即座に返す。
「それはただの現実逃避じゃない?」
桜井が笑いながらかぶせた。
笑い声と、椅子のきしむ音と、ガムテープを剥がすぺりぺりした音。
イベントが終わったあとの教室特有の、“抜け殻っぽいけど、どこか達成感も混ざってる”ざわざわが広がっていく。
僕の担当は、自分の席まわりと、黒板横のゾーンだった。
黒板の端には、例のシフト表がまだ貼られている。
その下のチョーク置き場には、走り書きのメモや予備シフト案が、折りたたまれたまま突っ込まれていた。
“厨房ピンチのときの予備シフト案”。
“急な早退が出たとき用の穴埋め候補”。
どれも、当日ぎりぎりに書き足したやつだ。
(全部まとめて捨てれば、ただの紙ごみなんだけど)
黒板からシフト表をゆっくり剥がしながら、思う。
(文化祭一日分の、“誰がどこにいたか”が、ここには全部残ってるんだよな)
くしゃっと丸めるには、ほんの少しだけ惜しい密度だった。
◇
「ガムテ、ガチガチなんだけど……!」
前のほうで、山本がポスターと格闘していた。
「それ来年のネタに使えるかもしれないから、丁寧に剥がして〜」
西村が笑いながら言う。
「いや、来年もやる前提なんだ、それ」
「先生がさっき“来場者評価良かった”って言ってくれたから、シリーズ化、狙ってこ?」
「マジか、教室カフェ第二弾」
(……いや、来年はクラス替えがあるだろ)
僕は心の中で静かに突っ込んだ。
今のB組がそのまま持ち上がるわけじゃない。
けれど、祭りのあとの無敵感の中にいる彼らに、わざわざ現実を突きつけるのも野暮だ。僕は黙って手を動かすことにした。
そんな会話の中、長谷川が備品のリストを片手に動き回っている。
「ホットプレートとケトルは家庭科室、紙コップの残りは職員室。
砂糖とミルクは家庭科室横の倉庫に返却って言われてる」
「はい、じゃあ運搬係募集〜」
「じゃあ私、スタッフブックの余りまとめてくる」
桜井が、机の上の冊子を抱えて歩き出す。
「家庭科室行く人〜」
西村が、教室全体に向かって声を上げた。
「ついでに理科室前のポスターも剥がしてって言われたから、力仕事要員もお願い」
「はいよー。俺、筋肉担当で行きまーす」
山本が、ポスターを片手にひらひらさせながら立ち上がる。
「じゃ、西村と山本ペアでよろしく〜」
二人は、そのままガサガサと備品の箱を抱えて教室を出ていった。
他のみんなも、「職員室持ってく」「廊下の飾り剥がしてくる」とか言いながら、作業をしていく。
気づけば、教室の前半分は人の出入りでごそごそ賑やかで、
窓側の後ろのほうは、ちょっとした静かなゾーンになっていた。
僕は、自分の席の横の机にシフト表をいったん置いて、机の中のメモを引っ張り出していた。
そこに、教卓の周りを片づけ終えた桜井が、ダンボールを一つ抱えてやってくる。
「スタッフブック、これで全部かな」
ダンボールのふたを軽く閉じてから、僕の席の近くの机にどさりと置く。
「学校に何冊か置いてもらって、残りは職員室預かりだって」
「了解」
教室の前のほうでは、まだガタガタと音がしている。
でも、僕と桜井のあいだの空気は、文化祭当日の夕方に少し似ていた。
他にも人はいるんだけど、会話の輪としては、二人だけ、みたいな距離感。
◇
「それ、どうするの?」
ふっと、桜井が声をかけてきた。
「これ?」
僕は、黒板から剥がしたシフト表をひらひらさせる。
「うん。“誰も黒子で終わらない文化祭”って書いてあったやつの、証拠品」
「黒歴史予備軍とも言う」
「でもさ」
桜井が、机に広げたシフト表のマス目を、指先でとん、と突いた。
「ここ埋めてたの、ほとんど安藤くんでしょ」
「まあ、配置図書くのは好きだから」
「“好きだから”で済ませるには、けっこうえぐい密度じゃない?」
マス目ぎっしりの紙を眺めながら、桜井は少し笑う。
「わたし、あのとき“誰も黒子で終わらない文化祭にしたい”って言ったけどさ」
「うん」
「実際にそれを形にしてたの、安藤くんのシフト表だったなって、今思う」
「……大げさに言われると、捨てづらくなるんだけど」
冗談っぽく返しつつも、喉の奥に何か引っかかった感じが残る。
「それにね」
桜井は、言葉を選ぶみたいに一拍置いてから、少し声を落とした。
「スタッフブックのほうも」
「うん」
「“裏方で動いてくれた人紹介”のページとか、“窓側後ろから二番目の司令塔”とか」
指先で、ダンボールのふちをとん、と軽く叩く。
「わたし一人じゃ、絶対ああいう書き方、思いつかなかった」
その言葉と同時に、頭の中に昨日の声がよみがえる。
(この冊子書いてる人さ……兄ちゃんのこと、めっちゃ見てるよね?)
まいの、あの妙に的確な一言。
それと、目の前の桜井の言葉が、ぴたりと重なってくる。
桜井は、一瞬だけ前のほうのざわめきに視線を向けてから、ちゃんと僕のほうに戻した。
「だからね」
少しだけ息を吸う音が聞こえた気がした。
「文化祭、一番頑張ってたの」
ほんの少し笑って、でも目は真っすぐで。
「安藤くんだと思うよ」
「え」
反射で、変な声が出た。
「いや、僕はただの裏方だから」
「ほら」
桜井が、わずかに眉を寄せる。
「またそういう言い方する」
「事実として、表ではそんなに目立ってないし」
「“ただの裏方”が、シフト表もスタッフブックもまとめてたらさ」
シフト表と、ダンボールのあいだを、指先でなぞるみたいに視線を動かす。
「それ、もう“ただの”じゃないから」
「……」
言い返す言葉が、うまく見つからない。
「わたしさ」
桜井は窓のほうへ視線を逃がしてから、続きを言った。
「表側で“店長”してただけだから」
「“してただけ”って言うほど軽い仕事じゃなかったと思うけど」
「でも、裏でごちゃごちゃ動いてくれてたの、ちゃんと見えてたよ」
そこで、ほんのわずかに間が空いた。
「だから、その……ありがと」
最後だけ、声が少し小さくなる。
恋愛的な雰囲気とはちょっと違う。
でも、“クラスの真ん中にいた人”からの、ちゃんとした評価の言葉としては、十分すぎるくらい重い一言だった。
「……なんか」
僕は、シフト表の端を指でいじりながら、どうにか空気を軽くしようとする。
「“一番”とか言うとさ、他の人に怒られない?」
「じゃあ、“一番のうちの一人”で」
桜井は、すぐに言い換えてきた。
「そういう言い換え上手なの、エッセイ書きズルいよな」
「職業病みたいなものです」
桜井が、いたずらっぽく笑って、僕のほうをじっと見た。
「……じゃあ、もう一個言い換えていい?」
「なに?」
「“ただの観察係”じゃなくて、“わたしの特別観察係”ってことで」
「……重いし、なんか語呂悪い」
「あはは、拒否された」
互いに、ふっと笑いが漏れる。
その笑いが落ち着いたあとも、「ありがと」の余韻だけは、机の上にうっすら残っていた。
◇
それからしばらく片づけを続けていた。
「戻ったよ〜。家庭科室の先生に“これ、一年で終わらせるのはもったいないね”ってベタ褒めされた!」
前のほうから、西村の弾んだ声が飛んでくる。
「“教室カフェ”シリーズ化決定だな!」
山本も、一緒に戻ってきていた。
「はいはい、勝手にシリーズ化しない」
そんな会話と一緒に、教室の前のほうに人が戻ってくる。
「親御さん用のスタッフブック、職員室に預けといていいって〜」
桜井も、空になったダンボールを抱えて帰ってきた。
そのタイミングで、教室のざわめきが僕の席まで届く。
(……さっきから、何人かの視線がこっちに流れてくる)
(黒子のままでいるには、今日は少し明るすぎた)
「シフト表、それどうするの?」
西村が、僕の手元を見て聞いた。
「燃えるゴミ行き?」
「……黒歴史フォルダ行き」
僕は、シフト表を二つ折りにして、さらにもう一回折ってから、自分のカバンのサイドポケットに突っ込んだ。
「お、大事にしてるじゃん」
西村が、にやにやしながら言う。
「将来発掘されたときに、笑い話にできればいいかなって」
桜井は、そのやり取りを横目で見ていたが、さっきの「ありがと」の続きは口に出されることはなかった。
でも、口元だけは、さっきより少し緩んで見えた。
「片づけ、終わったかー?」
廊下から、担任の声がする。
「はーい」
クラス全体で返事をして、残りのテープや画鋲をざっざと回収する。
机の列が元通りになっていくにつれて、教室の中の“文化祭っぽさ”は、少しずつ薄れていった。
◇
「じゃあ今日はこれで解散。気をつけて帰れよー」
担任のひと声とともに、
「また明日〜」「駅まで一緒に行く?」みたいな声がそこらじゅうで飛び交う。
それぞれがカバンを肩にかけて、好きな方向に散っていく。
僕も、自分のカバンの重みを確かめながら教室を出た。
サイドポケットには、二つ折りにしたシフト表が一枚。
『文化祭、一番頑張ってたの、安藤くんだと思うよ』
さっきの桜井の声だけが、妙にクリアに頭の中で再生される。
(ああいうのは、その場のノリで流して、
いつも通りのモブに戻る予定だったんだけどな)
階段を下りながら、小さくため息を吐く。
頭の中の教室の図を思い浮かべる。
黒板の前。
クラスの真ん中。
窓側後ろから二番目の自分の席。
(黒板の前と、窓側後ろから二番目のあいだに引いてた“安全な線”が)
(この文化祭で、ちょっとだけ前のほうにずれた気がする)
それが、いいことなのかどうかは、まだよく分からない。
昇降口を出ると、もう外は薄暗くなり始めていた。
街灯に火が灯りはじめた通学路を、いつもより少しだけゆっくり歩く。
(モブ志望の観察係としてはさ)
(本当は、黒子のままでいたかったんだけど)
カバンのサイドポケットに指先を入れると、折りたたまれた紙の端が、かすかに触れた。
(……まあ、“一番”なんて言葉は)
(とりあえず今は、頭の隅のメモ帳にだけ、そっと保存しておこう)
そんなことを考えながら、僕はカバンの重さをもう一度だけ確かめて、
家までの道を、いつもより少し長めに感じながら歩いた。




