第2話 教室の隅の住人たち
翌日から、桜井がちょっとだけ「引っかかる」ようになった。
いい意味で、だけど。
教室に入って席に座ると、無意識に真ん中の島に目がいく。
桜井と西村、それから何人かが混ざって、いつもの朝の雑談タイムだ。
「昨日さ〜、帰りに犬がさ〜」
「語彙力」
「うるさい千夏。あのね、スーパーの前でさ――」
内容はほぼ頭に入ってこないのに、声だけは自然と耳に届く。
昨日までは教室のBGMみたいなものだったのが、今日はほんの少しだけ「意識して聞いている音」になった感じだった。
(……やっぱり、どう見ても“主役側”なんだよな)
【主役になれなかった人たちの教室には――】
あの一文を書いてた人とは、どうしても結びつかない。
そう思いながら、僕はカバンから教科書とノートを出して、机の中をざっと整えた。
窓の外には、まだ少しだけ残っている桜の花びらが風に揺れている。
(主役側だからこそ、ああいうこと考えるタイプってのも、いるのかもしれないけど)
他人の内側なんて、想像してもだいたい外れる。
だから興味を持たないほうが楽だと、ずっと思ってた。
……昨日までは。
◇
一時間目と二時間目が終わり、短い休み時間。
先生が「ホームルームのプリント、前から配っといて」と言って、数枚の紙を桜井に預けた。
「はーい」
桜井は立ち上がって、前の列から順番にプリントを配っていく。
西村がなぜかドヤ顔で手伝い始め、教室のあちこちから「ありがとー」「さすが〜」の声。
(こういうときに自然に“配る側”になるの、ほんと主役サイドだよな)
僕の列にも紙が回ってきて、何気なくチラ見する。
進路希望調査……かと思ったら、ただの「今月の行事予定表」だった。
ちょっとだけ構えて損した気分になる。
プリントを机の端に置こうとした、そのとき。
「あ、ごめん、それ先生に返す一枚だった」
通路側から、桜井がすべり込むように近づいてきた。
片手に残りのプリントを抱えたまま、もう片方の手で僕の机の紙を指さす。
「あ、はい」
思わず立ち上がってしまい、結果、顔の距離がやたら近くなる。
ふわっとシャンプーの匂いがした気がして、慌てて一歩引いた。
「ありがと。先生のところ持ってくね」
「い、いえ」
桜井はプリントをひょいと持ち上げた。
その去り際、一瞬だけ目が合った。
ニコッと笑ったはずなのに、その目が「昨日のこと、分かってるよね?」と言っている気がして、背筋が少しだけ冷えた。
そのまま教卓のほうへ小走りで行ってしまう。
それだけのことなのに、心臓の鼓動がさっきよりほんの少しうるさい。
(……いや、落ち着け。近かっただけだ)
自分に言い訳しながら、僕はペンケースを開いた。
いつもなら、ここで「はいはい人気者人気者」と頭の中でラベリングして終わりなのに、
今日は、そのラベルがうまく貼りつかない感じがする。
(あの一文、やっぱり気になるな……)
◇
放課後。
今日は掃除当番でもなかったので、少し雑談したあと、いつもどおり教室を出た。
……つもりだったのだが、昇降口でスニーカーに履き替えていたとき、ふと嫌な予感がよぎる。
(あれ。英語のワーク、机の中じゃないか)
二時間目に使ったあと、そのままにしてきた気がする。
明日が小テストだと先生に脅されたばかりなのを思い出し、僕は靴を上履きに履き替え直した。
夕方の廊下は、部活に向かうやつらでまだ少しだけ騒がしい。
バスケ部のボールの音、吹奏楽部のチューニングの音、誰かの笑い声。
教室のドアをガラッと開けると、中にはもう誰もいない――
という想定だった。
「……いる」
教室の真ん中の島に、一つだけ背中があった。
桜井だ。
何かに集中しているのか、ペンを走らせている。
机の上には教科書もプリントもなく、代わりに無地っぽい小さいノートが一冊だけ開いていた。
(……勉強って雰囲気じゃないな)
ペンの動きが、なんとなく「問題を解く」やつじゃない。
もっと滑らかで、止まったり戻ったりを繰り返している。
僕は、なるべく音を立てないように自分の席に向かった。
窓側の一番後ろから二番目。英語のワークブックは、やっぱり机の中に突っ込んだままだった。
(セーフ)
胸の中で小さくガッツポーズをしつつ、そっと取り出してカバンに入れる。
そのまま、何事もなかった顔で教室を出ようと、ドアのほうへ向かっているところへ――
「安藤くん?」
背中のほうから名前を呼ばれた。
振り向くと、桜井がペンを持ったままこちらを見ていた。
さっきまでノートに向かっていたせいか、表情は「人気者スマイル」より少しだけ力が抜けている。
「あー、うん。英語のワーク、机に入れっぱなしで」
「テスト前に気づいてえらい」
「いや、忘れたままだと僕が死ぬだけなので」
桜井がくすっと笑う。
それは、クラスの真ん中でみんなを巻き込むための笑い方じゃなくて、
目の前の一人にだけ向けられた、クラスの真ん中用じゃない笑い方だった。
「……さっき、ちょっとびっくりした」
「え?」
「誰もいないと思ってたからさ。いきなりガラッて音するし。
ノート見てたから、ホラーかと思った」
「あー……すみません」
「別に謝ることじゃないけどね。心臓にはちょっとだけ悪かったけど」
そう言ってから、桜井は一度視線をノートに落とした。
ページの端を指でいじりながら、しばらく黙る。
教室の中には、グラウンドから聞こえる掛け声と、遠くの楽器の音だけ。
さっきまで騒がしかった一日が、ようやくスローモーションになったみたいな静けさだった。
「……ねえ、安藤くん」
桜井が、不意に口を開いた。
「帰り、ちょっと時間ある?」
「え」
いきなり過ぎて、変な声が出た。
「そんなガチなやつじゃなくて。話すのは五分くらい」
「五分でも、僕からするとだいぶガチですけど」
「真面目な顔で何言ってんの」
桜井が、また少し笑う。
それもやっぱり、僕にだけ向けられた笑い方だった。
「話したいことがあってさ。今ここじゃ、なんかやりづらいから」
「……今ここで誰か来る可能性もあるし、ですか」
「それもあるし。なんかさ、教室のど真ん中より、ちょっと“それっぽい場所”で話したくなるタイプなんだよね。こういうの」
「それっぽい場所」
「うん。たとえば……屋上とか」
屋上。
漫画やドラマで散々見てきた単語が、現実の会話に混ざってくると、途端に嘘くさく感じる。
でも、桜井が言うと、不思議とそこまで浮いて聞こえなかった。
「屋上って、そもそも入れるんですか」
「今日ね、廊下で二年の先輩が話してるの聞いたんだよね。『今日屋上開いてるから昼寝しよ〜』って」
「昼寝」
「怒られないのかなとは思ったけど。とりあえず、開いてる日は開いてるらしい」
「なるほど」
「閉まってたら、別のとこで立ち話して終わり。開いてたらラッキーってことで」
軽い調子で言うくせに、目だけは少しまっすぐだった。
「なんで、僕なんですか」
気づけば、その質問が口から出ていた。
「昨日、一緒に帰ったじゃん」
桜井は、当然みたいな顔で言う。
「それに、安藤くん……見ちゃったでしょ。私のスマホ」
「……!」
「あの一文を見た安藤くんだからこそ、聞いてみたい話があるんだよね」
さらっと、そんなことを言われた。
観察していると思われていたこと。
それを「めんどくさい」とか「キモい」とかじゃなく、「聞いてみたい」に繋げられたこと。
その二つが、自分でもよく分からない種類のくすぐったさを連れてくる。
「……五分で終わる話なら」
気づけば、口が勝手にそう言っていた。
「ありがと」
桜井は、ぱたんとノートを閉じて、ペンをペンケースにしまう。
そのままノートをカバンに入れてから、椅子から立ち上がった。
「じゃあさ、人減ってからでいいから、四階のいちばん上の階段まで来て」
「屋上の前ってことですか」
「そう。そこで合流」
「ここから一緒に行くんじゃないんですね」
「安藤くん、目立ちたくない派でしょ。教室から一緒に出たら、絶対誰かになんか言われる」
たしかに、その通りだった。
「……そこまで読まれてるの、若干こわいんですけど」
「読みやすいだけだよ。じゃ、あとで」
ひらっと手を振って、桜井はカバンを肩にかけ、そのまま教室を出ていった。
残された僕は、少し遅れて自分のカバンを持ち上げる。
屋上で何を話されるのか。
自分が、どこまで「話のネタ」にされているのか。
考えたくないような、でも気になって仕方ないような感情を抱えたまま、
僕は、英語のワークを握りしめて教室を出た。
モブとして静かに背景に溶け込む予定だった一年は、
たぶんこの日の放課後、まだ誰にも知られないまま、少しだけ別のほうへ動き始めていた。




