第12話 本屋と、努力している横顔
夏休みの午後の空気は、外に出ただけで「やる気」を蒸発させてくる。
アスファルトの照り返しと、「期間限定・冷やしなんとか」のポスター。
本来なら、この時間帯は家のクーラーの下で、動画サイトをだらだら眺めているはずだ。
(……こんな日に、課題図書を探しに来るやつじゃないだろ、本来)
でも、あの河川敷の夜以来、「さすがに夏休み全部だらだらはまずいかな」と思う時間が、ほんの少しだけ増えた。
駅から少し離れた商店街の一角に、その本屋はある。
昔からある、小さめの本屋だ。
自動ドアじゃなくて、押すタイプのガラスドア。
中に入ると、外の熱気と入れ替わりに、少し古い紙とインクの匂いがふわっと鼻をくすぐった。
冷房は効いているけど、チェーン店みたいなガンガンの冷気じゃなくて、「なんとか汗は引くかな」くらいのゆるい涼しさ。
(課題図書、まだ残ってるといいけどな)
入口近くの「学校推薦図書コーナー」に向かうと、案の定、人気そうなタイトルはほぼ売り切れていた。
「これと……これと……」
まだ残っている中から、ページ数があまり多くなさそうなやつを、それとなく選ぶ。
表紙だけ見るとどれも「深いテーマを扱ってます」みたいな顔をしているけど、ページ数は正義だ。
とりあえず二冊を抱えてから、その足で文芸コーナーに足を向けていた。
(ついでに、なんか“観察係の参考書”的なやつも見とくか)
夏休みに入ってから、気づけば教室じゃないところでも、人の動きや会話をぼんやり追う癖がさらに強くなっていた。
あの河川敷の夜とか。
手持ち花火の火の色とか。
線香花火が落ちるまでの、あのどうでもいい勝負とか。
『安藤くんといると、なんか楽なんだよね』
『ちゃんと見られてる感じはするんだけど、“主役っぽく扱われない”っていうか』
(……あれも、“仕事トークの延長”って言い張ろうと思えば言い張れるんだよな)
観察係としての距離感は、まだギリギリ保てている……はずだ。
はずなんだけど、あの夜のことを思い出すと、胸のあたりがちょっとざわつく。
(なんか、観察係としてのポジション、じわじわ崩れつつある気もするけど)
そんなことを考えながら、エッセイ・評論コーナーの棚の前に立つ。
妙に目に引っかかるタイトルの本があって、思わず手に取った。
『人を見る技術』。
(自然にとってしまった……。まぁ、いいか。他にも何かあるかな?)
棚を目線の高さからざっと眺める。
『日常を切り取る文章術』
『エッセイの書き方入門』
『ことばの温度を上げる技法』
タイトルだけ見ても、それっぽい本がいくつか並んでいた。
(こういうの、一冊くらい読んでみてもいいのかもな)
エッセイそのものを書きたいわけじゃないけど、「観察したものを言葉にする」っていう意味では、重なるところもある気がする。
一冊、エッセイの本を手に取って、パラパラとページをめくった。
『人の仕草をメモしておくノートの作り方』
『“なんとなく”を言葉にする練習』
(……タイトルに“観察係向け”って書いてあっても違和感ないな、これ)
苦笑しながらページをめくっていると、隣の棚のほうに誰かが来る気配がした。
スニーカーの音。
ビニール袋がかさっと鳴る音。
なんとなく視線だけそっちに向けると、棚越しに、見覚えのある後ろ姿が見えた。
肩くらいの長さの髪を、今日はゆるく一つにまとめている。
白いノースリーブに、薄い水色のシャツを羽織って、濃いめのデニムショートパンツ。
学校とは少し違う、夏休みモードの私服。
(……桜井?)
心の中で名前を呼んだタイミングとほぼ同時に、向こうが少し身を乗り出した。
「……あれ?」
棚のすき間から、視線がぶつかる。
「安藤くん?」
「あ、どうも」
思ったより近い距離で目が合って、変な挨拶になった。
「本屋にも出張してくるんだ、エッセイ書き」
「安藤くんも出張してるじゃん、観察係」
「観察係はほら、現場を知らないといけないから」
「その言い訳、わりとなんにでも使えそうだよね」
桜井は、少し笑いながら、持っていた本を胸の前に抱え直した。
表紙がこっちから見えないように、さりげなく向きを変えている。
その動きが、やけに分かりやすかった。
「その本……何?」
「いや、これはその……」
ちょっとだけ目線が泳ぐ。
そのまま誤魔化すかと思いきや、桜井は一度だけ息を吐いて、本の向きをくるっとこっち側に向けた。
「こういうやつ」
差し出された表紙には、はっきりと大きな文字が書いてあった。
『日常を切り取るエッセイの書き方』
「タイトルそのまんまなんだけど」
「でしょ。分かりやすさは正義」
桜井は笑って、わざとらしく胸を張った。
「そういう本、読むんだ?」
「読むよ。むしろ好きだよ、こういうの」
「てっきり、何も考えずに書いてるのかと」
「それ一番の悪口だからね?」
「いや、褒めてるつもりだったんだけどな……」
「“何も考えなくても書けちゃう人でしょ?”って、天才扱いと見せかけて責任全部押しつけてくるやつだから」
言われてみれば、たしかにそうかもしれない。
僕の中では、「桜井=思いついたことをすっと文章にできる人」というイメージがどこかで出来上がりつつあった。
教室の真ん中で起こったことや、人の一言を、あのノートに流れるみたいに書いていく人。
でも実際は──。
「最初はさ、勢いだけで書いてたんだよ」
桜井は、本の表紙を親指でなぞりながら言った。
「“こういうことあったから書いとこ〜”みたいなノリで」
「今は違うの?」
「今はその……」
一瞬、桜井は視線を棚の上に逃がしてから、もう一度こっちを見た。
「更新したときの閲覧数とか、リアクションがさ、前よりだいぶ増えてきちゃって」
「リアクション?」
「“こういうことありますよね!”とかさ、
“見ていて楽しいです”とかさ。ちょいちょいコメント飛んでくるの」
「……ああ」
「最初は、本当に一部の人しか読んでないと思ってたんだよ。
でも、通知とか見てると、“あ、想像してたより読まれてるんだな”って」
苦笑いしてから、少しだけ真面目な声になる。
「“なんとなく書いたやつです〜”って逃げられなくなってきたというか」
「前に言ってた、“言葉の責任取らなきゃ”ってやつ?」
「そう、それ」
「だから、ちゃんと“書き方”のほうもアップデートしないと、ってちょっと焦ってる」
桜井は、教室でみんなの前で話しているときより、ずっと力の抜けた顔で言った。
(エッセイって、才能だけでさらっと書いてるのかと思ってたけど)
(桜井はちゃんとこうやって、本読んで、悩んで、積み上げてる)
エッセイを書いている姿は、どこか才能っぽく見えていた。
でも実際には、こういう「書き方の本」をこっそり読んで、もっと良くしようって考えてる。
そういうのを目の前で見せられると、なんというか──ちょっとずるい。
「安藤くんは?」
「え?」
「何読んでたの?」
視線が、僕の手元の本に移る。
さっきまでパラパラしていたエッセイ本と、課題図書をまとめて抱えている状態だった。
「あー……これは、その……」
今度は僕のほうが、さっきの桜井みたいに本の表紙を隠したくなる番だった。
けれど、隠そうとすればするほど、逆に怪しい。
「これと、これ」
観念して、本の向きを見えるように変えた。
一冊は、さっきのエッセイ本。
もう一冊は、『人を見る技術』と書かれた、いかにもなタイトルの実用書。
「タイトル読むな」
「いや、読むでしょ、これは」
桜井は吹き出した。
「“人を見る技術”って。観察係、ちゃんと勉強してるんだね」
「やめて、その言い方」
「でも、ちょっと面白い」
くすくす笑いながら、表紙をじっと見る。
「お互いさ、けっこう“努力してる本”読んでるの、ちょっと恥ずかしいね」
「そういうカテゴリ名をつけないでよ」
「“努力してるところ見られるの、ちょっと恥ずかしいんだけど”って思わない?」
「思う。だから本屋の真ん中でやるの、だいぶ度胸あると思う」
「それはこっちのセリフ」
言いながら、桜井は本を胸にぎゅっと抱えた。
「でもまあ、こういうのもネタにはなるかなって」
「本屋で努力してるところ見つかった話?」
「やめて、それタイトルにするの」
そんなやりとりをしながら、気づけば二人とも自然にレジのほうへ歩き出していた。
レジ前の小さな行列に並びながらも、会話は続く。
「安藤くん、課題図書は?」
「一応、ページ数の少なそうなやつを二冊」
「そこ正直に言うんだ」
「観察係は、現実から目を逸らしてはいけないので」
「そういうところだけ真面目なんだよな〜」
桜井は笑いながら、自分のかごの中身をちらっと見せてくれた。
エッセイ本が二冊と、小説が一冊。
小説のタイトルは、すぐには読み取れない位置にあったけど、表紙の雰囲気からしてたぶん「日常系」だ。
「そっちの小説は?」
「これは完全に趣味。エッセイ書くときの“言葉のリズム”の参考にしたくて」
「そこまで考えてるの?」
「考えるよ。だって、“物語書いてる人たちのリズム感”、めちゃくちゃ勉強になるもん」
レジのピッという音が、やたらリズミカルに聞こえた。
(そりゃ、疲れるよな)
教室で、人気者扱いされて。
エッセイでも、読まれる側になって。
それでも、「ちゃんと書き方のほうもアップデートしないと」って本を探しに来てる。
(“仕事”として、ちゃんと背負ってるんだ、この人)
観察係の目線が、ちょっとだけ「尊敬」のほうに傾いた気がした。
◇
会計を済ませて、店を出る。
自動ドアじゃないガラスドアを押して外に出ると、むわっとした熱気と、夕方に近づきつつある日差しが一気に襲ってきた。
「うわ、店の中、天国だったね……」
「外界、レベル高いな」
思わず二人で同時にため息をついて、ちょっと笑う。
商店街のアーケードには、ところどころに「夏祭りのお知らせ」のポスターが貼ってあった。
あの日行った河川敷の屋台も、その一つだ。
「このあとどうするの?」
桜井が、腕にかけた紙袋を少し持ち上げながら聞いてきた。
「特に予定ないし、一回帰って課題図書“を開いたふり”してみる」
「“ふり”って自分で言っちゃったよ、この人」
「正直さは、観察係の大事な資質なので」
「でも夏休み終盤でそれ言えるの、わりと度胸あると思う」
「そっちは?」
「わたしはカフェ寄って、ちょっとだけ下書きするかも」
そう言って、桜井は手元の紙袋を見下ろした。
「今日買ったやつ、パラパラめくりながら、あの透明ノートに」
「休みの日まで仕事熱心だな」
「仕事って言われると、急にすごい真面目なことしてる人みたいで照れるんだけど」
「実際、真面目なことしてる人では?」
「うーん、“ちゃらんぽらん真面目”くらいでお願いしたい」
「新しいカテゴリ作るな」
軽口を叩き合いながら、僕はふと、さっきの本屋での姿を思い出した。
真剣に本を選んでいた横顔。
「……でもさ」
「ん?」
「そういうの、普通にかっこいいと思うけどな」
僕が前を向いたまま言うと、隣で足音が止まった。
「……え?」
「才能だけじゃなくて、ちゃんと裏打ちしようとしてるところ。素直に、尊敬する」
横を見ると、桜井がぱちくりと目を瞬かせていた。
それから、じわっと耳のあたりを赤くして、持っていた紙袋を顔の横に持ち上げた。
「……急に褒めるのは反則」
「事実を述べただけなので」
「観察係、たまにデレの火力高いんだよなあ……」
桜井はぶつぶつ言いながら、紙袋で口元を隠す。
その仕草を見て、僕も少しだけ気恥ずかしくなって、視線を前に戻した。
商店街の出口まで、並んでゆっくり歩く。
途中で、近所の子どもたちが自転車で走り抜けていって、「こんにちはー」と声をかけていった。
桜井が反射的に手を振り返して、「誰の知り合い?」って顔でこっちを見る。
「いや、こっちのセリフ」
「なんか、“地域の人気者”っぽい動きだったから」
「それはそっちでしょ」
そんなくだらない会話をしているうちに、商店街の出口に着いた。
「じゃ、ここで分かれ道かな」
右に行けば駅。
左に行けば、住宅街とバス停。
「安藤くん、こっち?」
「うん。駅のほう」
「わたしは逆方向」
桜井は、左側の道を顎で示した。
「今日ここで安藤くんに見つかった話、いつかどっかでエッセイのネタにするかも」
「それ、今のままだと“本屋で努力してるところバレた会”とかのタイトルにならない?」
「うわ、それちょっと嫌だ。もうちょいオシャレなタイトル考えとく」
「“努力している横顔”とか?」
「急にポエムっぽくなったね」
桜井は笑いを収めきれないまま、小さく「うん」と返した。
「じゃ、またね」
「うん。また」
軽く手を振って、僕たちはそれぞれ逆方向に歩き出した。
紙袋の中で、本が小さく揺れる。
(“天才っぽく見える主役側”の裏で)
(ちゃんとこうやって本読んで、悩んで、書き方を探してる)
教室の真ん中で笑っているときとは違う、努力している横顔。
それを知っちゃうと、「ただの観察対象」として見るのは難しくなる。
(……観察係としては、貴重な情報なんだけどな)
それでも、さっき本屋の棚越しに見えた横顔は、どう考えても“仕事”のメモだけで片づけられるものじゃなかった。
(観察係としてのノートに書くか)
(それとも、安藤湊としてのどこかにしまっとくか)
答えはまだ出ないまま、夏の午後の熱気にちょっとだけ汗をにじませながら、僕は駅へ向かって歩いた。
ポケットの中で、スマホが小さく震えた。
取り出すと、見覚えのある名前からの通知。
『さっきの、“努力している横顔”ってタイトル、採用するかも』
続けて、変な顔をした猫のスタンプ。
(……採用すんのかよ)
呆れながらも、口元が勝手に緩む。
『楽しみにしておきます』
そう打ち返して、スマホをポケットに戻した。




