第10話 夏の夜の下見メンバー
終業式が終わった後の最後のホームルーム、学校の空気は一言で言うと「だるい」だった。
担任が「夏休みの課題一覧」を読み上げているあいだも、クラスの半分はもう心ここにあらずという顔をしている。
「はい、国語のワークが一冊、数学がプリント二十枚、英語が……」
「二十枚って聞こえたけど、気のせいだよな……?」
「気のせいじゃないんだな、これが」
近くの席の大木と奥野が、小声で現実逃避を始めている。
(夏休みって、始まる前がいちばん元気あるよな)
窓の外は、すでに真夏の日差しだ。
蝉の鳴き声が、校舎の壁越しにもじんわり届いてくる。
部活組はこれから合宿だの大会だので予定がぎっしりらしくて、教室のあちこちで
「うちの部、今年は山のほうなんだよね〜」
「合宿の夜の肝試しだけは楽しみ」
みたいな会話が飛び交っている。
僕は、配られたプリントの「夏休みの生活目標」の欄を、ペンを止めたままぼんやり眺めていた。
(目標か……とりあえず“宿題を最終日にまとめてやらない”あたり?)
理想はそうだが、現実は毎年だいたい同じパターンをたどっている自覚はある。
◇
ホームルームが終わって、教室が一気にざわつき始めたころ。
鞄に教科書を詰めていると、前のほうの列で桜井と西村が並んで立っているのが見えた。
「夏休み中も、なんだかんだネタはあると思うんだけどさ……」
桜井が、配られた課題プリントをひらひらさせながらぼそっと言う。
「宿題のほうのネタは要らないんだけどね〜」
西村が笑いながら返した。
その会話だけで、「ああ、あのノートの話だな」と察する。
夏の夜、合宿、宿題、肝試し。
どれも、あのエッセイと相性が良さそうな単語ばかりだ。
(夏って、観察する側からしたら確かにネタ多そうだよな)
そんなことを考えながら、僕はプリントを二つ折りにして筆箱の下に押し込んだ。
観察係としては、きっと忙しい季節になる。
◇
夏休みに入って数日目の夜。
宿題を開いたふりをしながら、実際は動画サイトのおすすめを無限にスクロールしていたところで、スマホが小さく震えた。
画面の上部に、見覚えのある名前が表示される。
桜井すみれ。
一瞬だけ、スワイプする親指が止まった。
(……なんだろ)
変に身構えている自分に気づきつつ、通知をタップする。
トーク画面には、シンプルな一文が届いていた。
『夏の夜っぽい景色、見に行かない? ネタになるかもだし』
「夏の夜っぽい景色」
そのフレーズだけで、頭の中に河川敷とか、花火とか、屋台の明かりとか、そういうものが並ぶ。
ちょっと間を置いてから、続けてメッセージが届いた。
『近くの河川敷、今週末なんか出店出るらしいんだよね。
ちゃんとした祭りってほどじゃないけど、屋台っぽいのが並ぶやつ』
間に、花火の絵文字がひとつ挟まっている。
(……ネタの下見、ってことだよな、多分)
そう自分に言い聞かせながら、返信用のキーボードを開いた。
『いいよ。たぶん家でだらだらしてるだけだし』
とりあえず無難に返す。
送信ボタンを押す前に、「たぶん」を消して「どうせ」に変えようとして、やめた。
数秒後、またすぐに返事が来た。
『じゃあ、千夏も誘ってみるね』
その一文で、スマホを握っていた指が、ようやく緩んだ。
(……そうだよな。二人きりのわけないよな)
そんなことを考えた自分に、今度は別の意味で少しだけ驚く。
続けざまに、もう一通。
『安藤くん側も、誰か呼びたい人いたら呼んでいいよ。
外部の人いたら、ネタ増えそうじゃない?』
外部。
その単語で、自然と一人の顔が浮かぶ。
田中陸。
外部相談役、と勝手に任命された幼なじみだ。
『じゃあ、幼なじみ一人誘ってみる』
と打ち込んで送ると、すぐに
『幼なじみ、いいね。なんか情報量多そう』
という返事が返ってきた。
夏の夜っぽい景色。
ネタ。
観察係。
チャットの上に並んだその単語を見ているうちに、少しだけ胸の奥がそわそわしてきた。
(ただのネタ集め、だよな)
自分にそう言い聞かせながらも、どこかで「ただの」と言い切れない感じが、じわっと残っていた。
◇
週末の夕方。
集合場所は、河川敷に一番近い駅前のコンビニの前だった。
まだ日は沈みきっていないけれど、空はオレンジから群青に変わり始めて、アスファルトの熱だけがまだ残っていた。
コンビニの前には、すでに一人、壁にもたれかかっているやつがいた。
「おー、湊。ちゃんと来たな」
「来るって言ったからな」
「いや、“当日ドタキャンしそうな顔”してたから」
「どんな顔だよ、それ」
陸は、いつも通り軽いテンションで手を振ってきた。
Tシャツに短パン、サンダルという、いかにも夏休み男子高校生という格好だ。
「で、今日は“青春もの的には”なんのイベント?」
「普通の河川敷ピクニックだよ」
「普通のって言葉ほど信用ならないやつないからな」
くだらない会話をしながらも、僕のどこかは少しだけ緊張していた。
幼なじみを、今のクラスの輪に混ぜるのは、なんとなく不思議な感じがする。
そんなことを考えているうちに、横から別の声が飛んできた。
「安藤くん?」
振り向くと、少し離れたところで桜井と西村が並んで立っていた。
一瞬、誰か分からなかった。
桜井は、白いシンプルなワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。
普段の制服姿や、ジャージ姿とはシルエットが違う。
髪も少しだけ巻いているのか、風に揺れる感じが妙に大人びて見えた。
西村は対照的に、デニムのショートパンツにゆるめのトップスという、ちょいギャル寄りの夏コーデだ。
髪を後ろでまとめていて、ピアスがきらっと光っている。
「ごめんね、ちょっとコンビニで何買うか相談してた」
桜井が手を振る。
「あ、いや、今来たとこだから」
テンプレみたいな返事をした自分に、心の中でツッコミを入れつつ、軽く会釈する。
「どうも、すみれの相方やってる西村です」
西村が、にっと笑いながら一歩前に出てきた。
「この前、ちょっとだけ視線送ったことあるかな〜って思うけど、覚えてないよね、多分」
「えっと……」
図書室のあとや、教室でスマホを覗き込んでいたときの、あの「知ってる側」の目線を思い出す。
「千夏、そういう自己紹介ある?」
桜井が苦笑いをする。
「でも、合ってるでしょ?」
「まあ、合ってるけど」
「そっちの……幼なじみくん?」
西村の視線が、隣の陸に向く。
「あ、えっと。田中です」
陸は、少しだけ姿勢を正してから言った。
「田中陸。別の高校で、湊の幼なじみ。
で、最近は勝手に“外部相談役”やってます」
「外部相談役?」
桜井が、目を丸くする。
「観察係の外側に、さらにそんな役職まであるんだ?」
「世界観、だいぶカオスになってきたね〜」
西村がくすっと笑った。
「幼なじみって聞くと、それだけでいろいろ想像しちゃうよね〜」
「変な想像はしなくていいから」
僕が慌てて割って入ると、桜井が小さくため息をつきつつ、少し笑った。
「とりあえず、“観察係”と“外部相談役”と“相方”で、役職表はだいぶカラフルになってきたね」
「どんなクラスだよ、それ」
ぼそっとツッコむと、西村が「すみれ、そうやって何でも名前つけたがるからね〜」と肩をすくめた。
「だって、そのほうが書きやすいんだもん」
桜井は、笑ってそう言った。
◇
ひと通り挨拶を済ませてから、四人でコンビニに入った。
「とりあえず飲み物と、なんかつまめるやつ買う?」
「レジャーシートは、うちが持ってきたから大丈夫」
西村が、肩にかけていたトートバッグをぽんぽん叩く。
「コンビニで買うと、お菓子の選択肢が無限で迷うんだよな〜」
「そこは観察係に決めてもらう?」
「観察係の仕事範囲、そっちじゃないと思う」
とは言いつつ、棚の前で「皆が食べそうなやつ」をつい考えてしまうあたり、職業病みたいになってきている。
結局、それぞれ好きなものを適当にカゴに放り込み、河川敷へ向かった。
◇
河川敷には、すでにいくつかの屋台っぽいテントが並んでいた。
かき氷、焼きそば、フランクフルト、射的もどきのゲームコーナー。
ちゃんとした夏祭りほど混んではいないけれど、家族連れや中学生、高校生のグループがちらほら。
川沿いの土手の上には、レジャーシートや折りたたみチェアを広げている人たちがいて、それぞれ思い思いに座っている。
「ちゃんと“夏の夜っぽい景色”だね、これ」
桜井が、川沿いの夕焼けを見ながら言った。
空の色は、さっきよりさらに濃くなっていて、遠くのほうで誰かが小さな花火をしているのが見える。
「ここらへん、たまにこういう出店イベントやるんだよね〜」
西村が、周りを見渡しながら説明してくれる。
「本番の花火大会ほどじゃないけど、軽く雰囲気味わうにはちょうどいいっていう」
「下見にはちょうどいいってことだね」
桜井が、意味ありげに「下見」という単語を強調した。
エッセイの下見なのか、夏そのものの下見なのか、そこはあいまいなままだ。
◇
土手の少し高くなっているところに、四人分のレジャーシートを広げた。
コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチ、からあげ、ポテトチップスを真ん中に並べる。
屋台でも、それぞれフランクフルトやかき氷を買ってきたので、シートの上はあっという間にカラフルな食べ物で埋まった。
「これさ、明日の体重計るのこわいやつじゃん」
西村が、からあげをつまみながら言った。
「大丈夫。夏は食べてもゼロカロリーってことで」
陸の雑な理論に、桜井が吹き出す。
「それ信じてると痛い目見るやつだろ……」
僕がぼそっと言うと、また笑いが起きた。
そんな中で、桜井はペットボトルのお茶を一口飲んでから、周りを見回した。
「ねえ、安藤くん」
「なに?」
「こうやって見るとさ……ネタだらけじゃない?」
桜井の視線の先を、つられて追う。
「ネタだらけって?」
「ほら、あそこ」
少し離れた川沿いの階段に、スマホを両手で構えている男子二人組がいる。
「“とりあえず花火の写真撮っとくけど、後で見返すことはほぼない人たち”」
「……ああ、いるな、そういうの」
「その隣のカップルは?」
「どれ」
「あの、屋台の列でずっとしゃべってる二人」
視線の先には、並びながら笑っている男女がいた。
「“屋台の列に並んでる時間も込みで楽しめる人たち”」
「ポジティブだな、だいぶ」
「いや、楽しめないとあれしんどいから」
さらに視線を動かす。
家族連れで来ている小さな子どもが、はしゃぎすぎて転んで泣いている。
「“夏の夜のテンションを持て余すちびっこたち”」
「それはそのまま日記に書けそう」
「で、その横でタオル持って走ってるお母さんが、“本日の影のMVP”」
「分かる」
思わず相づちを打ってしまう。
ラベリングの仕方が、妙にしっくりくるから困る。
「すみれ、完全にエッセイモード入ってるね〜」
横で聞いていた西村が、ふっと笑った。
「夏はネタの宝庫だから」
「宿題の進捗は?」
「聞かないで」
即答だった。
◇
しばらくは四人で、出店の話や部活の話、どうでもいい動画の話なんかをしていた。
そんな会話に混ざりながら、僕はときどき川の流れを眺めていた。
風が少し出てきて、昼間の蒸し暑さがだいぶ和らいでいる。
ふと、桜井がこちらを向いた。
「ねえ、安藤くん」
「なに」
「こういうときさ」
桜井は、土手の少し下のほうを顎で示した。
そこには、同じくらいの年齢のグループがいくつかシートを広げていて、その中の一つの端っこで、男子が一人、スマホをいじっていた。
グループの輪から半歩だけ外れて、画面をじっと見つめている。
「“こういうとき、端っこでずっとスマホいじってる人”ってさ」
「うん」
「だいたい、今日ここに来る前から“端っこでスマホいじってる自分”を想像してるんだよね、多分」
「…………」
「“どうせ自分はそうなるし”“そのポジションが一番居心地いいし”って、なんとなく分かってる感じ」
桜井の言葉に、胸のあたりがちょっとだけチクっとした。
(それ完全に、過去の自分だよな)
入学したてのころ。
中学のときの行事。
端っこでスマホをいじりながら、「まあ自分はこういう立ち位置だし」と思っていた時間のことを、つい思い出す。
「でもさ」
桜井は、少しだけ笑いながら続けた。
「そういう人も、“誘われたから来てる”んだよね、ちゃんと」
「たしかに」
「“どうせ端っこでスマホだしな〜”って言いながら、なんだかんだ来てるの、ちょっと好き」
「褒めてるんだか、いじってるんだか」
「半々くらいかな」
そのやりとりに、西村がすかさず割り込んでくる。
「はい出ました、“半分いじり、半分本音褒め”」
「千夏、言い方」
「でもさ、すみれ」
西村は、チップスの袋を軽く揺らしながら言った。
「今日の観察係、端っこでスマホいじってないじゃん」
「たしかに」
桜井の視線が、自然とこっちに向く。
「こういうとき、本来なら“端っこでスマホ”候補だった人が、レジャーシートのど真ん中で普通に会話してるの、けっこうレアだよね〜」
「レアって言うな」
「あー、それは物語的においしいやつだな」
陸が、妙に納得した声を出す。
「お前はすぐ物語にしようとするな」
「いや、だってさ」
陸は、ペットボトルを指でくるくる回しながら言った。
「こういうとき、“端っこスマホ”だったやつが、気づいたら真ん中に座ってて、そのことに自分で気づいてないの、だいたい主役側のフラグだから」
「主役側じゃないから」
「モブ志望なのは知ってるけど、外部相談役としては“もうちょい自分の立ち位置見直したほうがいいんじゃね?”とは思う」
「外部相談役、仕事しすぎだろ」
四人分のツッコミと笑い声が、川の音に混ざって流れていく。
その中で、桜井はふっと視線を下ろした。
「……まあ、今日は観察係も、“端っこスマホ枠”から一日だけ出向ってことで」
「出向って表現やめて」
「ちゃんと戻れるように、送り出し元のポジションは取っておくから大丈夫」
「戻る前提なんだ」
そんな会話をしながらも、心のどこかで「今日は端っこじゃないんだな」という実感が、じわじわ広がっていくのを感じていた。
◇
しばらくして、空がだいぶ暗くなってきた。
河川敷の出店にも、ぽつぽつと灯りがともり始める。
遠くのほうで、小さな花火の音が鳴った。
「そろそろ、ちゃんと飲み物追加しとかない?」
西村が、空になりかけたペットボトルを持ち上げた。
そして、ちらりと陸を見る。
陸が一瞬だけきょとんとして──すぐに、ニヤリと笑って頷いた。
「たしかに。氷も溶けてきたし」
陸が同意する。
「じゃあ、うちと田中くんで行ってくるわ」
「え、二人で?」
「四人で行ったらシート誰が見てるの。荷物番必要でしょ」
西村は、さも正論です、という顔で言った。
でもその目は、明らかに楽しんでいる。
「すみれ、何飲む?」
「お茶系。甘くないやつ」
「観察係は?」
「じゃあ同じので」
自分で言った瞬間、「同じ」という言葉に微妙なニュアンスを感じてしまって、少しだけ視線をそらす。
「了解〜。じゃあ行こ、田中くん」
「お、おう。西村さん、判断が早いね」
「外部相談役なら、これくらい空気読めないと」
すれ違いざま、西村が小声でそう言うのが聞こえた気がした。
屋台の灯りのほうに向かっていく二人の背中を見送りながら、ふと気づく。
川の音と、遠くの喧騒。
近くを通り過ぎる人たちの話し声。
その真ん中で、レジャーシートの上には──
僕と桜井だけが残っていた。




