第八話 狩猟会
森を抜け、息も整わぬまま、俺は真っ直ぐ集会所へ向かった。村の男たちが狩りの相談や冬の備えの打ち合わせをする、いわば“中枢”だ。
俺はこの不気味な出来事を、一刻も早く伝える必要がある。
「すみません、リーダーにお話が――」
扉の前でそう尋ねた俺に、若手の狩人が面倒そうに首を横に振った。
「今は忙しい。取り込み中だ」
「でも、急ぎの――」
「帰れって! メンバーでもないくせに……」
バタン、と扉が閉まる。
少しばかり乱暴に、無造作に。
中からは笑い声と、グラスが打ち鳴らされる音が漏れ、肉の焼ける匂いが漂ってきた。
「乾杯!」
誰かの高らかな声。
中では、宴が開かれているようだった。
……冬支度で余裕なんかないはずなのに。
備蓄も底をつきかけてる、って言ってたくせに。
偉い人たちは、やることやって、あとは飲んで騒いでるってわけか。
唇の端が勝手に吊り上がる。
笑ってないのに、笑いそうなほど、腹が立った。
けど、それ以上食い下がっても意味はない。
俺は渋々その場を離れ、夕暮れの村を歩き出した。
もう今日は、疲れた。明日、朝一番で――もう一度、話しに行こう。体の疲れと、心の疲れは俺に重くのしかかり、足を引きずるようにして家路を辿る。
そのときだった。
「アレス!」
名を呼ばれて振り返ると、エミリーがこちらに向かって小走りで来ていた。
「無事だったんだね。よかった……!」
心底ホッとしたような笑顔。
俺は思わず、目を逸らした。
あの森で嗅いだ匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
それが彼女に伝わりそうで、嫌だった。
「まあね。別に大したことはなかったよ」
「……ほんと?」
彼女の瞳は、子どものくせに時々、大人びた光を宿す。今もそうだった。
俺の軽口の向こうにあるものを、見透かしてくるような――優しいけど、逃げ場のない眼差し。
しばらく見つめられたあと、エミリーは小さな紙包みを差し出してきた。
「これ。おばあちゃんが焼いたビスケット。アレスに渡しておいてって」
受け取った包みはほんのり温かく、甘い匂いがした。
俺は小さく息を吐いた。
「……ありがと」
「ううん。こっちこそ、ありがとう。ちゃんと帰ってきてくれて」
ふっと笑った彼女は、それ以上なにも言わずに、踵を返して帰っていった。
俺はしばらくその背を見送り、それから紙包みを握りしめながら、家路をたどる。
たとえ誰にも信じてもらえなくても――
あの森に“何か”がいるのは、間違いない。
そう確信しながら、俺は夜の帳に消えていった。
* * *
翌朝、俺は夜明けと同時に家を出た。
昨日の疲れも、体の痛みも、どうでもよかった。
どうしても伝えなきゃならないことがある。それも、何よりも優先するべきことが。
だから、集会所の前に腰を下ろして、ひたすら待った。
とっくに日も昇って、朝の仕事が始まる時間を一時間も過ぎた頃――
ようやく奴が現れた。
マルケル。狩猟会のリーダー。
顔中に脂肪を貼りつけたような、ぶくぶくした大男だ。親が権力者だっていうだけで、狩猟会のリーダーにしがみついているだけの男。
「……おい、なんでここに座ってんだ、坊主。邪魔だぞ」
俺は立ち上がり、歩み寄った。
「朝早くからすみません。昨日、禁じられた森で――見つけたんです。家畜の死骸や、村の道具も……!」
奴の顔が、しかめっ面になった。
面倒な話を持ちかけられたって顔だ。
「……忙しいんだよ。今度にしろ。こっちは朝からやることが山ほどあるんだ」
面倒臭そうに手をシッシッとやり、あくびをしながら俺をあしらおうとする。
風に漂って酒の臭いが鼻をついた。
なにが"朝から”だ。昨日の夜はずっと飲んでたくせに、今日はこんなに遅い時間に動き出して……!
「俺が見たのは、確かに村のものなんです! 放っておいていいはずが――!」
「証拠は?」
マルケルは、俺の言葉を遮って脂の乗った顔をぬっと近づけた。
「名前でも書いてあったのか? それが村のもんだって証拠はあるのか?」
体がでかいだけあって、圧を感じる。まるで山が悪意を持ってのしかかってくるような感覚。
「そ、それは……ないですけど……」
「ふん」
マルケルは鼻で笑った。
「やっぱりな。所詮あいつのガキだ。口から出るのは嘘ばかり。信用ならん」
ガッ、と心臓が掴まれたように痛んだ。
でも、それ以上に、腹の底がぐつぐつ煮え立っていく。
「俺は……嘘なんて……!」
声が震える。歯を食いしばる。
下手をしたら、俺の右手が勝手に飛んでいってしまいそうで、ギュッと袖を掴んだ。
「本当のことだ……! 俺は村のために――」
「村だぁ?」
マルケルは唇を吊り上げ、心底軽蔑するような目で俺を見下ろした。
「お前がいようがいまいが、この村にはな~んにも関係ねえよ! それどころか、み~んなお前がいなくなることを願ってるぜ! お前を置いて、どっかへ行っちまった"誰かさん"のほうが、よっぽど村のためにたってるなぁ!」
……バチン。
俺の中で何かが、切れた。
「黙れぇえっ!!」
目の前が真っ赤になり、気づいた時には、俺の拳は奴の顔面に叩き込まれていた。
二発、三発。全力だった。手の甲が熱くなり、皮膚の感触が直接伝わる。
でも、そこまでだった。
ぶよぶよの大男はほとんど怯まず、俺の体を片手で引きはがした。
そして、力一杯地面に叩きつけた。
「がっ……!」
背中に鈍い痛みが走る。呼吸が一瞬止まった。
「この……! ガキの分際で!!」
怒声と共に、蹴りが飛んできた。醜い顔を、さらにひどく歪めながら暴力の限りを尽くす。丸々とした手が容赦なく俺を殴り付け、汚れたドタ靴は何度も何度も俺を踏みつける。
痛みはすぐに麻痺して、どこを殴られているのかわからなくなった。ただ、ぐちゃぐちゃになっていく世界の中で――
なぜだろう。
心の奥が、冷たく、どこか静かだった。
これが、俺の村だ。「アレス、これがお前の生きている世界だ――」と、誰かに言われたかの様に、静かに諦めを受け入れた。
* * *
目が覚めると、天井が見えた。見慣れた、木の板張りの天井だった。
ここは……俺の家だ。
「……夢じゃ、ないか」
かすれた声が喉から漏れる。まるで夢の中にいるようなふわふわとした感覚だ。けれど、次第に体中を突き刺す痛みが、それをあっさり否定した。
軋むような重さ。ズキズキとうずく痛み。呼吸も浅くしかできない。切り傷、打撲、内出血……一体どれ程の怪我だったのか。
目だけをなんとか動かすと、上半身は裸で、ぐるぐると包帯が巻かれている。誰かが介抱してくれたのだろうか……?ぼんやり考えていると、泣きそうな声が聞こえた。
「アレス! やっと起きたんだね!」
トッドだ。よく見る顔によく聞く声。だけど、その声にはいつもと違う響きが混じっていた。少し、安心したような――そして、どこか張り詰めたような。
「すごい顔だよ、アレス。なんかもう、ガラの悪い野良犬みたい」
冗談混じりにトッドはそう言ったが、声は少し震えていた。
「うるせぇ……」
喉が乾いていて、声にならない声だった。
「なんで、お前がいるんだ……?」
「エミリーから、アレスが帰ってきたことを聞いてさ。家の前で待ってたら、ボロボロになって担がれてきたんだよ」
「担がれた……?」
その時、ぎぃっと扉が開く音が聞こえた。なんとか目を向けると、パウロさん――狩猟会のリーダー次席が立っていた。
「起きたのか、アレス」
「リーダー、次席……」
パウロさんは俺の隣に静かに腰掛けると、深々と頭を下げた。
「すまなかった。俺が、もう少し早く気づいていれば……騒ぎを聞いて駆け付けた時には、もう……」
パウロさんは、俺の隣膝に置いた手をぎゅっと握りしめていた。拳が白くなるほどに。
……驚いた。あの人が、こんな顔をするなんて。
怒りとか、後悔とか……いろんなものが混じったような、見たことのない表情。
「じゃあ、リーダー次席が俺を助けて……?」
「ああ……ここまで運んで、簡単な応急処置だけさせてもらった。トッドにも手伝ってもらってな」
「そうだったんですか……ありがとうございます。トッド、お前もありがとうな」
トッドは少し照れながら、へへっ、と鼻をすすった。
「……なあ、アレス。あそこで、一体何があったんだ?」
パウロさんは、低く優しい声で尋ねた。俺はそれに応えるように、ゆっくりと体を起こした。ズキン、ズキンと、痛みが波のように襲ってくるけど、ちゃんと伝えなきゃいけないことがある。
「トッド、悪い、ちょっとだけ外してくれるか?」
気の弱いトッドには退席してもらい、俺はパウロさんに全部を話した。
禁じられた森の奥で見たもの――朽ちた道具、腐敗した家畜。そして森で感じた違和感と妙な気配。
パウロさんは黙って、最後まで聞いてくれた。俺の話す一言一言に小さく頷き、まるで真実を吟味するように目を閉じる。そしてしばらくの沈黙の後――
「……わかった。信じるよ、アレス」
たった一言だった。でも、それが胸に深く沁みた。
自分の中に巣食っていた絶望が、ほんの少しだけ、やわらいでいくのを感じた。
「でも……」
その言葉のあとの沈黙が、やけに重たかった。
パウロは視線を落とした。
「今の俺には、どうすることもできない。リーダーの許可なしでは……村を動かせないんだ」
胸の奥がずきんと痛んだ。
この痛みは、怪我のせいじゃない。
「……っ」
分かってた。分かってたけど、それでも言わずにはいられなかった。
「俺の話、全部……なかったことにされるんですか?」
「そうじゃない。 ただ、今のままでは村は動けない。冬支度も、備蓄も――余裕なんてない。お前の言う通り、リーダーが聞く耳を持たなければ……」
ギリィっと、拳を握る音がした。
「……俺たち狩猟会は、なんのためにあるんだ」
珍しく、パウロさんの声に棘が混じっていた。明確な怒りを。それが、どこか救いだった。
冷静で、いつも落ち着いている大人が――自分の痛みに、悔しさを感じてくれている。村のことを考えてくれている。
それだけで、俺の中の暗闇が、ほんの少しだけ後退した気がした。