第七話 禁じられた森へ
数年振りに入った森は、俺の昔の記憶とはかなり違うものとなっていた。
鳥の声はまばらで、木の枝を跳ねるリスの姿も、足元を走る虫のざわめきすらも、どこにもなかった。
ただ、どこか遠くで風が葉を揺らす音だけが、時折、低く、くぐもった呼吸のように響いてくる。
「なんて……寂しい所なんだ」
この森の印象が、ふと口をついて出た。
昔、父さんと来た時、この森は生命に溢れていた。今のような秋の終わりともなると、丸々と太った獲物を見つけて歓喜していたものだ。
でも、この森にそんなものは感じられない。
たった数年の間に、ここまで森は変わってしまったのか。それとも、何か"こうなってしまう原因"があるのか。
「なんだよ……っ」
俺は、猟師としての仕事ができる喜びと、ずっと憧れを抱いていた場所の荒涼感に、まるで父さんと想い出を踏みにじられたような気持ちなった。
ふっと不安の風が吹き、パウロさんからもらった道具をなんとなく手に取った。腰布に二つくくりつけた閃光玉の小瓶と、矢筒から飛び出た黒鉄の矢。どちらも今の俺の生活ではほぼ手に入らない貴重なものだ。
閃光玉は、強い衝撃を与えると激しい光を放ち、暗い森の中でも敵を一時的に目くらましにできる。ヒカリ苔の抽出液と、暗輝石の粉末を丁寧に混ぜ合わせたもので、一瓶二千リグもする高級品だ。
そして黒鉄の矢。鈍く黒光りする矢尻は独特の形状で、その圧倒的な威力から猟師たちの憧れの的だ。風を裂く音が甲高い鳥の鳴き声にも聞こえることから、"風鳴きの矢"なんて呼ばれたりする。お値段なんと、一本五千リグ。俺の丸一週間分の稼ぎに相当する。
頼もしい道具とパウロさんの気遣いに、少し気分が落ち着くのを感じる。俺はゆっくりとしゃがみ込み、指先で湿った地面をなぞった。指についた土をずりずりとすりあわせ、辺りを見渡す。
「……おかしい」
獣道からは点々と草が伸び、地面に残る足跡は、何の動物かも判別できない程古くなっている。
いくら冬が近付いているとはいえ、妙だ。
まるで、生き物たちが急いで消えてしまったかのような静寂。
村から一時間の森の中。俺は強い孤独と焦燥感を振り払うように、無我夢中で調査に没頭した。
* * *
俺が森に入ってから、あっという間に二日が経った。思い付く限りの場所をくまなく探して回ったが、調査の成果はゼロだ。持ってきた食糧は三日分、もう時間はない。
それが胸の内でじわじわと焦りに変わっていく。
自分でもわかる。眉間に皺が寄って、呼吸が少しずつ浅くなるのを。
「クソ……」
小さく吐き捨てると、背中にしょった荷物がやけに重く感じた。
森の中をひたすら歩き回っているだけ。
どこかで時間を無駄にしてるような、空振りばかりしてるような――そんな嫌な感覚だけが積もっていく。
これだけ探しても、気配ひとつ感じない。
村からは家畜が消え、物資が盗まれているっていうのに、ここには……
「……何の気配も、しない」
それがかえって、不気味だった。
“何もいない”という気配が、あまりにも完全すぎて。
「結局俺は、役立たずなのかよ……!」
俺は苛立ちから、足元にある小石を思い切り蹴飛ばそうとして、盛大に空振り。ぐるんと半回転、空を仰いで転倒した。二日間山を歩き回ったおかげで、俺の足は言うことを素直に聞いてくれなくなっていた。
「……ははっ、何やってんだろ、俺」
転んだショックで少し冷静になり、仰向けに寝っ転がりながら息を整える。濃い土の香りと夕暮れの冷気が鼻をくすぐる。
そのとき、不意に父のことを思い出した。
まだ幼かった俺を狩りに連れていった時、父は必ずやっていた“儀式”。
――息を深く吸え。
――頭じゃなく、身体で森を感じろ。
――獣を探すな。自分を、自然の中に沈ませろ。
そう言って、父は狩りの前にいつも目を閉じていた。
俺は立ち上がり、両足をしっかりと地面に据える。
そして目を閉じて、息を吸った。
一度。二度。三度。
冷たい森の空気が肺の奥へと入り込み、そこに溜まっていた焦りや苛立ちを静かに押し流していく。
――村を守るため。
――トッドやエミリーたちを、不安にさせないため。
――俺は、俺にできる方法で、何かを見つけ出す。
そう思うと、不思議と視界が晴れてきた。
冷たく澄んだ空気の中で、余計な感情が静かに沈んでいく。
そして――
(……まだ、行ってない場所がある)
森の地形を思い浮かべていくうちに、ひとつの空白が浮かび上がる。村の北東、地図にもほとんど描かれていない、鬱蒼とした黒い森。
そこは誰も近づかず、ただ「禁じられた森」と呼ばれていた。
理由は曖昧だ。
「昔から不毛だ」とか、「気味の悪い声が聞こえる」とか、「入った者が帰ってこなかった」とか。
言い伝えのようなものが、村の中で当たり前に信じられているだけ。
けれど、今の俺の中には妙な確信があった。
(何かある。……あそこに、何かがいる)
喉の奥が渇き、ごくりと唾を飲み込む。
足が自然と、そちらへと向かっていた。
理屈じゃない。体が、心が、あそこに導かれているような感覚。俺は"何か"に呼ばれ、自分でも気付かないうちに"それ"に答えるかのように――
深く、さらに深く。
俺は、誰も踏み込もうとしなかったその森へ、たった一人で足を踏み入れた。
そして、背後で風が吹いた。
――まるで「ようこそ」と囁いたように聞こえた。
* * *
「禁じられた森」には、境目がない。
ここからがそう、という明確な目印も柵もない。
ただ、いつの間にか森の雰囲気が変わり、足元の土が湿り気を帯び、木々が妙に密集してきたと思ったら――そこが、そうだった。
名前こそ物騒ではあるけど至って普通の森だ。ただ一つ、普通と違うのは異様なほど静かなことだ。まるで、森そのものが息をひそめているような――そんな、居心地の悪い沈黙。
空が見えないほど鬱蒼とした枝葉。
静寂。鳥も虫もいない。
それでいて、どこかで“何か”がこちらを見ているような……そんな感覚だけが、背中にまとわりついて離れない。
俺はひとつ、深呼吸をした。
少し腐ったような空気。
鼻をつくこの臭いは……木が腐っているだけだろうか?
――いや。
確かにこの臭い、前にも嗅いだことがある。
死んだ獣の腹が裂け、中身を風が持ち去ろうとしたときに立ちのぼった、あの独特な匂いに似ていた。
足を進めるたび、木の根が奇妙な形にねじれている。
まるで苦悶するように、大地にしがみついているように。ひどく不気味に感じたが、この森ではそれが当たり前だと納得させる。
俺の足は止まらなかった。
吸い寄せられるように、森の奥へ奥へ。
意識の表層では警戒の声が響いているのに、身体は勝手に前へと進んでいた。
やがて視界が開けた。
同時に、重く冷たい空気に変わるのを感じる。
そこには、ぽっかりとした空間が広がっていた。
木々が輪を描くように立ち並び、中央には――何かが、ある。
「……うっ」
鼻をつまみたくなるほど、強烈な腐臭。
それは明らかに“動物の死体”の臭いだった。
近づいて、息を止めながらその正体を確認する。
ヤギ。それから、ニワトリ――
自然に、それもこんな山奥の森に生息していないはずのそれらが何体も、重なるように転がっていた。
どれも内臓が抜き取られ、肉は無惨裂かれ、骨が露わになっている。
しかも、腐敗の進み具合に差があり、最近殺されたものと、何日も前のものが混在していた。
……誰かが、繰り返しここに捨てている?
脇の茂みに目を向けると、何かが引っかかっていた。
錆びたスコップ、欠けたクワ、壊れた籠――見覚えがあるものばかり。そして、「ウィンストン」と書かれた木箱――
雑貨商のウィンストンさん、つまり、エミリーの両親も盗難の被害にあっていたという。
ここにあるのは、盗まれた農具。村の道具だ。
(……ここに、運ばれていたのか)
そのとき、不意に首筋にざわりとした悪寒が走った。
何かが、俺を見ている。
背後? いや、もっと……上?
何もない空間なのに、そこに“誰か”がいる気配。
形のない視線が、肌を刺す。
この場所はまずい――
本能が叫んだ。
俺は道具も死体もそのままに、逃げるように駆け出していた。藪を掻き分け、枝に服を引っかけ、何度か転びかけながらも、とにかく前へ、前へ。
どこかで足音が聞こえた気がしたけれど、それが自分のものなのか、それとも別の“何か”のものだったのか、分からなかった。
ようやく木々がまばらになり、遠くに村の屋根が見えたとき、俺は地面に膝をついた。
息が切れる。頭が痛い。吐き気がする。
でも、それでも――生きて、戻ってこられた。
空はすでに夕暮れ色に染まり、村の炊煙がいくつか立ち上っていた。ここに来るまでは何もかもが静かで、不気味だったのに。
人の暮らしの気配が、こんなにも温かく感じるなんて――。
けれど、俺の中には、温かさとは真逆のものが、じっとりと残っていた。
あの森には、何かがいる。
そしてきっと――それは、まだ“見つかっていない”だけだ。