第五話 アパト村の不穏な空気
最近、夜明けがめっきりと早くなってきた。ニワトリが鳴き始めるより先に明るくなり、夕陽はいつまでも村を照らしていた。そして何より、ここしばらくジリジリと暑い日々が続いている。
そう、アパト村に夏が訪れた!
朝も夕も明るくて活動時間は増えたけど、その分日中の疲れは倍増する。でも、俺はそんな疲れなんか気にせずトッド、エミリーの三人で夏時間を満喫していた。
夏といえば、ベリーの季節!近くの森に入れば、色とりどりの果実が溢れんばかりの実をつけている。俺たちは夢中になって森で甘いベリーを探した。
籠から溢れそうな程ベリーをたくさん採った次の日には、エミリーが自慢げに手作りのジャム入りクッキーを持ってきた。もちろん、エミリーのお母さんが作ったものだ。
「はい、これ!昨日採ったベリーのクッキーだよ!」
「うわ……!甘酸っぱくてうまい!」
「美味しい……!ほっぺ落ちるかと思った……!」
「ふふ、そうでしょうそうでしょう?」
エミリーはいつもながら、とても誇らしそうに胸を張っている。
ある日には、3人で釣りにも出かけた。
「石がツルツルしてるから気を付けて」と言ったが、案の定トッドが真っ先に足を滑らせて川に落ちた。しかも二回。
「うわぁ、アレスぅ!」
「お、俺の竿が……!」
「まずはトッドの配しなさいっての!」
だが、その水びたしのトッドが、まさかの大物を釣り上げたときは、みんなで笑い転げた。
そうやって、気がつけば笑い声が絶えない毎日になっていた。なんの変哲もない村の、俺たち三人だけの、かけがえのない時間。
そうしてあっという間に夏は終わり、三ヶ月が経った。トッドの修行の成果は上々……とまではいかないが、着実に力をつけている。エミリーは冬に向けて、家の手伝いが増えてきたみたいだ。
やがて実りの秋も終わりに向かい始め、静かで穏やかな時間が村に流れていた。心地好い空気感。だけど、どこかで違和感があったのも確かだった。
夜になると、遠く森の奥から時折、聞き慣れないざわめきや低いうなり声が風に乗って届いてきた。
誰も気にしないふりをしていたけど、俺はそれが胸の奥にモヤモヤとした不安を残していくのを感じていた。
――この平和は、果たしていつまで続くだろうか。
そんな疑問が、頭の隅に小さな影を落としていた。
最近では冷たい風が肌を刺すようになってきた。
森はまだ肥えた獲物を連れてきてはくれたけれど、どこか静かで、獣の数が確実に減っているのがわかった。あのいつも賑やかな森が、なんだか寂しげに感じられる。
トッドの修行は、目に見えての成長こそなかったけれど、槍を構える姿は少しずつ形になってきていた。
もうすぐトッドも十三歳。村の慣習では、この十四を迎えたら大人として扱われる。
それを思うと、嬉しい気持ちと、同時にどこか寂しさも込み上げてくる。成長は嬉しいけど、仲間との時間が変わってしまうんじゃないかって、なんだか胸がざわついた。
そんなことをぼんやり考えていると、どこか重たいノックの音が響いた。
まだ修行を始めるには早い時間。誰だろうとドアを開けてみると、そこにはやつれた顔の男が立っていた。
「あ、マイルズさん。こんにちは」
「……」
挨拶を無視してじっと俺の目を睨みつけるこの男は、マイルズ。養鶏場を経営しているが、なんとも陰気でやる気のなさそうな男だ。
肩まで届きそうなボサボサの茶色い髪を掻き上げながら、じりじりと不快そうに俺を見ていた。
「あの、今日はどういったご用件でしょうか?」
「……あー。お前、のぼけのやつとコソコソ何かやってるらしいな。面倒なことはすんなよ」
なんだそれ。なんだか妙に偉そうな態度に、俺の頭の中で雷が落ちた。
トッドがどれだけ頑張ってるか知らないくせに、いきなりそんな言い草をするなんて許せない。
「ああ、トッドですね。俺たちはただ遊んでるだけです。マイルズさんには関係ありませんよ。用が済んだならお帰りください」
そう言ってドアに手を伸ばすと、男の手がガシッとドアを掴んだ。
「待て、ガキが。話は終わっちゃいねえよ。最近うちの鶏が消えてるんだ。……お前らのせいじゃねえのか?」
「はあ?何ですかそれ」
「あのなあ、そんなことされると、村のみんなが食べる分が無くなっちまうんだよ」
「はぁ……だから、知らないですって!」
その言葉にマイルズの怒りが一気に爆発した。
「とぼけんな!お前みたいなガキが一人で生きていけるわけねえだろ。腹が減って腹が減って、うちの鶏に手を出したんだろうが!」
腹の底から怒鳴るマイルズ。俺は手足がゾワゾワと震え、あっという間に怒りのピークに達した。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえ! 俺は一人で何年もやってきてる!あんたがグータラしてた子供の頃とは違うんだよ!」
「てめえ……!」
拳を振り上げるマイルズを、低く響く声が遮った。
「そこまでにしとけ」
強い手がマイルズの腕を掴み、がっちりと押さえつける。
「パウロ……」
「仕事はどうした、マイルズ。さっさと自分の役割を果たしてこい」
「ち、こんなガキの肩持ちやがって……はんっ、わかったよ、俺が行けばいいんだろ」
先程の威勢は消え、捨て台詞だけを残して男は去っていった。でも、俺の中のムカつきは消えないまま、腕をさすりながら去っていく男を見つめる。
「アレス、大丈夫か?」
「はい、リーダー次席。助かりました」
俺の前に立つのはパウロ・エヴァンスさん。村の狩猟会のリーダー次席で、狩りの腕は村一番。整った髭と鋭い目つき、まるで獲物を狙うタカのようだ。
彼は狩猟会の要で、冷静な判断と的確な指示で皆を支えている。正直、彼がリーダーだったらどれほど良かったか。
今のリーダーは、ただの権力者の子息で、俺にばかりいちゃもんをつけてくる。そんな理不尽な現実に、胸の中で小さな不安がひそかに広がっていた。
「いや、礼には及ばんよ。たまたまマイルズの奴がここに来るのを見かけて、念のため寄ってみただけだからな」
パウロさんは涼しい顔でそう言った。
「マイルズさん、妙な言いがかりつけてきて困ってたんですよ」
俺がそう言うと、パウロさんは少し眉をひそめた。
「ああ、少しだけ聞こえた。まさに言いがかりってやつだな。お前ほどの狩人が家畜襲うわけがない」
「い、いやぁ、買いかぶりすぎですよ」
「いや、事実を言ったまでだ。……ただ、確かに最近家畜が消えたとか、農具がなくなった話はよく聞く」
パウロさんは眉間にシワを寄せながら、どうしたものか、と首をひねった。
「え、そうなんですか?」
俺は村の人とはあまり関わらないし、村に行くこともほとんどない。だから、そんなに大変なことになっているとは知らなかった。
「うむ。狩猟会でも軽く調べてみたが、野生動物の仕業と思える痕跡はなかった」
「そんなことが……」
「ああ。だが、リーダーからは冬支度を最優先しろと言われてな」
パウロさんはため息をつき、眉間にしわを寄せた。
冬がくれば食べ物は減り、塩漬けや乾燥肉を準備するのが村の常識。だけど、家畜を失えば冬を越せない家も出るだろう。
俺は嫌いなマイルズのことも気にかかってしまった。例えあんなやつでも、村の人間が困っているなら何とかしたい。それに、村の問題ともなればトッドやエミリーにも関わってくるだろう。
「あの、リーダー次席」
「ん?」
「さっきの家畜の件、俺が調べてみてもいいですか?」
「……おまえが?」
パウロさんは目を丸くして尋ねた。
「はい。まだ狩猟会の正式な一員じゃないから、冬支度や調査の仕事は手伝えないんです。でも森で見つけた手がかりを、リーダーの指示で行ったことにすればいいかなって」
俺の熱意に負けてか、パウロさんはふっと笑った。
「うちのリーダー、そういう話は好きだからな。直接話してみるよ」
「……!リーダー次席!」
「まあ、あまり期待せず待っていてくれ」
そう言い残し、彼は颯爽と去っていった。
今の俺にはできることは少ない。もどかしいけど、仕方のないことだ。
正直、村のことは気になるけど、任せられる人にお願いして、俺はトッドの修行の準備に集中するとしよう。