第十二話 真夜中の遭遇
合流地点に着いたとき、俺の足はもう、がくがくだった。さっきまで張り詰めていた神経が、ぷつりと切れたみたいに、急に重力が増した気がした。
森の開けた場所に、ふたつの影が見えた。焚き火の準備をしていたようで、小さな炎がぱちぱちと音を立てていた。
パウロさんと、もうひとり――確か、村の道具屋の息子で、名前は……ロイ。茶髪の男で、口が軽いことでちょっと有名な男だったはずだ。
「おお、戻ったか」
パウロさんが静かに声を上げて立ち上がる。眉のあたりが少し緩み、安堵の色が見えた。
アーヴィンが軽く手を挙げて応え、そのまま二人の前に歩み寄って、ぽつりと口を開いた。
「……グレイベアーが出た」
その場の空気が、一瞬にして凍りついた。
ロイが顔をしかめ、パウロも小さく息を呑んだ。
焚き火が、パチッと乾いた音を立てる。
「……だが、この坊主が倒した」
アーヴィンは、顎で俺を示した。空気が一変し、全員の意識が俺に向く。
「……こいつが?」
ロイの視線が、じっと俺に突き刺さる。その声には疑念と警戒の色が混じっていた。
パウロさんも、俺の顔をじっと見ていた。何かを測るように、ゆっくりと。
俺は、うまく言葉が出なかった。でも、嘘をつく気にもなれなかった。
「……無我夢中で。気がついたら、もう……」
それ以上は、言えなかった。矢を放ったときの痺れるような感覚が、まだ指先に残っている。
「……」
アーヴィンが、ちらりと横目で俺を見る。冷たいというより、どこか探るような、底を見ようとする眼差しだった。
焚き火の炎が、少しだけ大きく揺れた。風が通り抜け、誰も口を開かなかった。
「……しかし、遅いな」
沈黙を破ったのはパウロだった。腕を組み、空を見上げる。
「もう一組――リッグスとバーディが、まだ戻ってこない。とっくに時間を過ぎているんだが……」
誰かが、息をのむ音がした。
顔を見合わせる誰の目にも、不安が宿っていた。
さっきまでの静けさが、今はやけに冷たく、耳に痛かった。
俺たちは、すぐに出発することにした。リッグスとバーディを捜しに。
日はすっかり沈み、森の中は黒い墨汁をこぼしたみたいに真っ暗だった。パウロが火打石で松明に火を点けると、ぼんやりとしたオレンジの光が揺れて、木の影が生き物みたいにうごめいた。
夜の森は静かだった。でも、それが逆に怖かった。音がないのに、何かが潜んでいる気配だけが、じっとりと肌にまとわりついてくる。
歩きながら、パウロさんがぽつりと声を落とした。
「……グレイベアーの件、本当か?」
問いかけは鋭くも、疑い深くもなかった。ただ、静かだった。
「本当です。……リーダー次席にいただいた道具のおかげですけど」
パウロさんは小さくうなずいた。松明の光が彼の顔をなめ、険しさと優しさが交じった表情を映し出す。
「……よくやったな」
その一言が、胸に沁みた。
「はい!」
思わず声が弾けた。
俺の中で、あの戦いがほんの少しだけ報われた気がした。
やがて、森の奥の開けた場所に出る。リッグスたちが向かったエリアだ。
パウロがしゃがみ、松明を下に向けて地面を照らした。
「……これを見てくれ」
土の上には、リッグスたちのものと明らかにわかる猟師靴の跡。そしてそのすぐそばに、小さな足跡。しかも素足で、子どものようなサイズ。でも、先端が……尖っている。まるで爪のようだ。
「なんだこれ……」
ロイの声が震える。誰も答えなかった。
しばしの沈黙を置いて、アーヴィンが口を開いた。
「……グレイベアーと遭遇した時、何かを食ってた。人の子どもくらいの大きさだったが……はっきりとは見えなかった」
俺も頷く。
「俺も、見ました。……ボロボロでしたけど、明らかに人の形をしてました」
森の奥で、フクロウが一声、鳴いた。
パウロさんが沈黙を切り裂くように言う。
「……この足跡の“主”が、お前たちが見た“それ”と同じだとしたら……」
そこまで言って、黙った。でも皆、その先を考えていた。火が揺れる。風が木の間を吹き抜ける。
得たいの知れない何かが、少なくとも数体。確実に俺たちに近付いている――
「……急ごう」
パウロの低い声に従い、俺たちは再び足を進めた。
誰も口を開かない。枯れ枝を踏む音も、風が葉を揺らす音も、やけに耳に刺さった。
リッグスたちの痕跡を追いかける時間は、実際にはたぶん、十分もなかったと思う。だけど俺には、何時間も深い森の中をさまよっているような気がした。
息を潜めるたび、胸の奥で心臓がバクンバクンと騒ぐのがわかった。音が漏れて誰かに気づかれやしないかと、ばかばかしい妄想まで浮かんできた。
ふと、パウロさんの手が上がった。
〈止まれ〉と〈しゃがめ〉の合図。
俺は急いで身をかがめる。隣のロイも、アーヴィンも、みな身を伏せる。
森が、凍りついたみたいに静かだった。風すら息を潜めている。
パウロの視線の先――そこに、“なにか”があった。
月の光が、木々の隙間からスポットライトのように差し込んでいた。俺の目は、ゆっくりと、その光に照らされた“それ”をとらえていった。
……ダメだ。頭が、拒否する。
そこにあるのは――リッグスとバーディ。……いや、かつてそう呼ばれていた“もの”だった。
皮膚の上に、深々と残る無数の爪痕。粗悪なナイフで斬られたようにぐずぐずと肉が裂け、骨がのぞき、内臓はまるで子どもの落書きみたいに無造作に外へ飛び出していた。
どこを見ても「人」と呼ぶには無理がある。けれど髪の色、服の切れ端、つけていた首飾り……そんな断片が、かろうじてそれが彼らだと教えてくれた。
ロイが、小さく息を呑んだ。
そして次の瞬間――
「リッグス! おい、リッグス!!」
叫び声とともに、彼が飛び出した。
「やめろ!」とパウロが叫んだが、もう遅い。
ロイは、ぐちゃぐちゃになった“友だち”のもとへ駆け寄り、崩れ落ちた。
「おい……! 起きろよ……っ!」
手を揺さぶる。返事は、当然なかった。
ロイは泣きじゃくった。まるで小さな子どもみたいに、ぐずぐずと泣きながら、壊れた彼の名前を呼び続けた。
そういえば――リッグスとロイは、よく一緒にいたっけ。俺はその背中を見ながら、ただただ、手のひらに汗をにじませていた。
この森は、何かが、おかしい。
そう思った瞬間、またひとつ、背筋に冷たいものが走った。辺りにはロイの悲痛な叫びがこだます。
――その時。
「いいかげんにしろ!」
バチッ!という乾いた音が森に響いた。
ロイが黙った。顔を押さえて、うつむいたまま、小刻みに震えている。アーヴィンの拳が、彼の頬を打ったのだ。
「お前の気持ちは、わかる。でも……死ぬぞ。こんな場所で、声を上げれば。次は俺たちがああなる」
言葉に怒気はなかった。ただ、冷たくて、静かで、重かった。ロイは何も言い返せなかった。ただ、鼻をすする音だけが、小さく、繰り返された。
俺たちは周囲を警戒し直し、ゆっくりと隊列を組み直した。ぴん、と張り詰めた空気の中で、俺はふと、視線を横へと向けた。
――あれ?
茂みに、草の端に、何か……赤黒いものが。月明かりをぬらりと反射した。赤黒い、血だ。獣のものとも思えない。もっと……生々しい、まるで"腐った鉄の匂い"がした。
俺はゆっくりと、その茂みに近づいた。息を止めて、音を立てず、足を運ぶ。かすかに風が揺らし、草が擦れる音がやけに耳に響いた。
そして――俺は、見つけた。
それは、小さな子どものようだった。
けれど、人間じゃない。
肌は薄汚れた灰色、ところどころ、どろりと溶けかかっているような肌。頭は大きく、不自然に膨らんでいて、小さな角をはやしている。顔の真ん中にぽっかり開いた口は、獣のような牙で満ちていた。
服なんて着ていなかった。ただの肉塊。赤黒い不気味な体液をとくとくと垂れ流していて、鼻がひん曲がりそうな悪臭が、そこら一帯に漂っていた。
俺は限界だった。
しゃがみ込み、その場で吐いた。
胃の中に残っていたものをすべてぶちまけながら、身体を震わせた。その音に気づいたのか、アーヴィンとパウロさんが駆け寄ってきた。
「おい、アレス! 大丈夫か!」
パウロさんが俺の背中に手を当てる。だが次の瞬間、彼の目が、その“もの”を見て止まった。
「だい……じょ……ぶ……か……」
途中で声が、息に変わった。絶句していた。
アーヴィンは顔をしかめ、袖で鼻を押さえながら、一歩踏み出した。
「……なんだ……こいつは……?」
誰も動けなかった。あまりに、異様で、醜くて、異世界の“何か”だったから。
ようやくパウロさんが、ぽつりと、でも確かに呟いた。
「……ゴブリンだ」
その言葉が、俺の脳に焼きついた。
ゴブリン――聞いたことのない名前だった。
だけど、俺は確かに思った。
こいつは、ここにいてはいけない”もの”だと。




