第十一話 月夜の激闘
黒鉄の矢は、背後の木に深々と突き刺さる。グレイベアの首もとからはぶくぶくと血が溢れ、瞬間、咆哮にも似た呻き声とともに、巨体が大きく揺れる。
グレイベアーは怯み、バランスを崩して転がった。
地面を削り、木々をなぎ倒しながら、ゴロゴロと転げ落ちていく。赤黒い血が、首から、口から、滲むように流れていた。月光が、それを鈍く照らす。
だが――終わりではなかった。
グレイベアーは、ゆっくりと、しかし確実に、立ち上がろうとしていた。その目には、闘志か殺意か、あるいはその両方が灯っている。
俺は――駆け出していた。
何も考えず、斜面を飛び降りる。
草を蹴り、石を踏み、身を投げ出すように、グレイベアーへと駆け寄る。滑り落ちてもおかしくない急傾斜。
なのに、体はまるで“落ち方”すら覚えているかのように、勝手に動いていた。
気づけば、アーヴィンのすぐ側に降り立っていた。
彼は驚愕に目を見開き、俺の姿を見上げていた。
「お前……なんで……それに、あんな崖を……」
彼の額に、たらりと汗が伝う。
問いの先にあるのは、戸惑いと――畏れのように思える。
「今はそれよりも――」
アーヴィンの問いを切り捨て、俺は一歩、グレイベアーの方へと踏み出す。血を滴らせながら、それでも奴は立ち上がっていた。
その瞳は紅く萌え、研ぎ澄まされた殺意を放っている。矢を受けた事実など、どこ吹く風といった様子で、低く唸り声を漏らすと……
ズン、と地面が震えた。次の瞬間、グレイベアーの巨体が――跳ねた。
怒り狂ったように突進してくる。木々をなぎ倒し、地を削りながら。振り回す両腕は凶器そのもの。近づくことすら、許さない。
俺は身を屈めて回避の姿勢をとるが、その勢いに、全身が圧される。一歩、いや半歩でも踏み間違えれば――押し潰される。
「ブオォォォ……!!」
ブンブンと振り回されるぶっとい腕。その合間に潜り込む隙もなく、ただただ後退り、横に飛び、避けるだけで精一杯だ。
「……ッ!」
次の瞬間、跳ね飛ばされた石片が飛び込んできた。それが額に命中した瞬間、乾いた音とともに頭が揺れた。
血が滲み、右目の視界が赤く染まる。 けれど、不思議なことに痛みは感じなかった。
代わりに――胸の奥が、妙に熱い。
「どうした……それで終わりかよ、化け物ォ……!!」
喉が裂けそうな声で吼えていた。口元には、笑み。血の味と熱が入り混じる、獣じみた笑みだった。
「こっちはまだ立ってんだ、なあ……さっさと来いよッ!!」
挑発、煽り。理性が追いつく前に、俺の体は衝動的に動いていた。アーヴィンが息を呑む音が聞こえる。端から見たら、余程おかしいのは俺だろう。
確実に熱に燃えながらも、冷静に分析する俺も存在した。まるで、俯瞰して俺自身を見ているかのように。
グレイベアーが、後ろ足で立ち上がり咆哮を上げる。重低音が空気を震わせた、その瞬間――俺は腰布にくくりつけた小瓶を掴み取る。
パウロさんに貰った閃光玉。
地面に叩きつけると同時に、爆ぜた――
「――――ッ!!」
白光が闇を裂いた。純白の閃光が、一瞬で視界を埋め尽くす。
グレイベアーが仰け反る。反応すらできぬまま、後方に大きくのけぞり、地面へと沈んだ。
今だ。
俺はすでに矢をつがえ、限界まで弓を引いていた。 狙いは、たった一つ――首元より、さらに上。一撃で屠ることができる場所。
グレイベアーが呻きながら立ち上がる。まだ見えていたないだろう目をギョロギョロと動かし、両腕を大きく広げ、威嚇の咆哮を上げた。
だがその真下には、既に肌が触れそうな程に急接近した俺がいる。瞬間、矢が放たれた。放たれたというより、"解き放たれた"。迷いなく。
「ヒュイィッ――!!」
甲高い、風を裂く悲鳴のような音が短く鳴った。それは一瞬でグレイベアーの下顎を貫くと、口蓋をズルリと通り、上顎を突き抜け、脳天をえぐるように突き破った。
「……ブ、ブオォァァ……ァ……ガァ……」
声にならない呻き声を最後に、グレイベアーの巨体が激しく二度、三度と痙攣し――
ズシャァァァン――!
激しい音を立て、地面に突っ伏した。倒れた衝撃に、大地が震え、木の葉が舞った。
直後、血が噴水のように噴き出し、俺の頬にまで飛び散る。
静寂――
その中、突き刺さった矢が――貫通した勢いのまま、直線軌道で舞い戻ってきて、ズドッと地面に突き刺さる。
俺はそれを当然のように抜き取り、血を払って矢筒へ戻した。
その一部始終を、アーヴィンは呆然と見ていた。口を半開きにし、視線は俺の姿に釘付けのまま。
「……な、何なんだよ、お前……」
アーヴィンの小さく絞り出したような声は、強大な魔物を倒した者へ贈る称賛の声色ではなく、恐怖におののくそれだった。
だけど、そんなことを気にしている程の余裕はなかった。息が切れ、膝が笑う。肺が焼けつくように痛む。立っているのがやっとだ。
自分でも、いま何をしていたのか、はっきりとはわからなかった。ただ、目の前の命を、殺すしかなかった。ただ、それだけ。
俺は一息つくと、もう一本の黒鉄の矢を探して矢筒に戻し、今度はゆっくりと深呼吸をする。胸の奥に残る熱を、燻った殺意を吐き出すように。
「……行きましょう。合流地点に戻らないと」
声が掠れていた。けれど、いつもの自分を装った。そうしなければ、崩れてしまいそうだったから。
アーヴィンはまだ呆然としていたが、やがて我に返ると、小さく頷いた。
「ああ……そうだな」
その返事は、どこか含みのある――ひどく複雑な、重さを持っていた。背後では、グレイベアーの屍から血が滲み出し、地面を静かに染めている。俺たちは勝利の余韻に浸る間もなく、その場を後にした。
* * *
森の空気が、妙にひんやりとしていた。
グレイベアーとの死闘を終え、俺たちは合流地点へと急いだ。帰り道は、あの獣と最初に遭遇した場所を通る。薄暗い中、木々はねじれ、へし折れた枝がまだ生々しく散らばっていた。
そして、その傍ら。
異臭を放つ、何かが転がっていた。
視界の隅に映ったそれは、人の子どもほどの大きさで、妙に不自然な格好で折れ曲がっていた。片腕は変な方向にねじれ、くすんだ肌には、大きな牙の痕が食い込んでいる。
……あの時、グレイベアーの餌食となっていたものだ。
咥えられたまま振り回され、不要になって捨てられた――そんな痕跡が、そこには残っていた。
俺は、足を止めかけて、すぐに目を逸らす。
小さな子が――やられたんだ。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
誰かが迎えに来るはずだったかもしれない。名前を呼ぶ声が、どこかに残っていたかもしれない。でも、その命は、もう戻らない。
俺は、心の中で、そっと手を合わせた。
どうしてこんな場所に子どもが?村の子なのか――?そんな当然の疑問が頭をよぎったが――今は立ち止まっている場合じゃない。それに、確認のしようがない程に原型をとどめていないのだから。
走り抜ける視界の端。倒れたそれの頭部らしき球体に、まるで角のような小さな突起が見えた気がした。
けれど、俺は気にすることなく、ただ走り続けた。
風が木々の間を通り抜ける音だけが、妙に大きく、耳に残った。




