第十話 森の"ヌシ"
誰一人として、言葉を発さなかった。
風が吹くたびに枝葉が擦れ、ぞわぞわと不安を掻き立てる。だというのに、その場の空気は妙に静かだった。まるで、音が“吸われて”いるような。
「……ここだな」
パウロの声が、その沈黙をやんわりと裂いた。
彼は目を細め、周囲をゆっくり見渡す。
「……妙な、気配だ」
その言葉に、全員の首が自然と回る。
だけど森は、ただ暗い緑を揺らしていただけだった。まるで、無邪気なふりをしている子供のように。
「――ここを起点に、二人一組で周囲を探る。陽が落ちたら戻るぞ。いいな」
パウロの指示に、皆が小さく頷いた。
すぐに組分けが決まり、俺はアーヴィンという男と組むことになった。
無口な大男。無精ひげに吊り目で、ちょっと怖そうだけど、その動きからは熟練の猟師であることが分かる。
手にした弓も、俺のような見習いが使う物とはまるで違う。使い込まれた道具の“重み”があった。
アーヴィンの先導のもと、俺は薄暗い森をずんずん進んでいく。その間にも森の影はだんだんと長くなる。
まるで、森そのものが伸びあがり、俺たちを飲み込もうとしているかのように。
枝葉のこすれる音すら、妙に大きく感じた。
森は静かだった。いや、静かすぎた。
アーヴィンと俺は、慎重に足を運んでいた。
口を開くことはない。代わりに、手のひらや指先を使って、互いの意図を伝える。
〈停止〉
〈警戒〉
〈右に迂回〉
猟師たちの間に伝わるサインだ。音を立てず、風と木々の音に溶けるように、俺たちは進んだ。
──ぴたり。
アーヴィンの片手が上がる。
即座に〈止まれ〉の合図。
そのまま、しゃがみ込むようにして身を低くした。
俺もすぐに従う。
全身の神経が、一本の糸のように張り詰めていく。
俺たちから数メートル先、木々の隙間のわずかな光の漏れるその奥に――"それ"はいた。
見たこともない程巨大なクマ。ずんぐりとした体躯に灰色の毛並み。異様なほどせりあがった背中は、岩と見間違う程だ。ぬらりと黒光りする爪の一つ一つが、大人の腕ほどもある。
昔話でしか聞いたたことのない、巨大な獣だ。人の背丈をゆうに越え、その腕一本で牛の首を砕くとも言われる魔物。
だが、恐ろしいのはその姿だけではなかった。鼻先をゆるゆると動かしながら、何かを咥えていた。
やつの足元には、小さな“何か”が転がっている。
それは――
小柄な人影。
肢体の輪郭は崩れているけど、手足のようなものがかろうじて見てとれる。そしてその大きさは、俺よりも少し小さく、まるで小さな子どもだ。
その物体には、所々に衣服のようなものが残っていた。人間が着るような、だけど粗雑で単純な一枚ものの布キレのようなものが。
まさか、村の子どもが迷い込んでしまい――
そこまで想像してしまったところで、俺は喉の奥でせり上がるものを、必死に押しとどめた。
アーヴィンが、ゆっくりと手を動かす。〈動くな〉。
そしてもう一つ、〈引け〉のサイン。
慎重に、後ずさる。
ほんの、あと三歩で茂みまで戻れる。そう思った、その瞬間だった。
──パキ。
何かが、すぐそばで音を立てた。
枝を踏みしめるような、乾いた音。
たった一音で、森の気配が変わる。
グレイベアーの耳が動き、鼻がひくつく。
のっそりと起こした体は、離れていても異様な圧を感じる程の巨体だ。思わず唾をゴクリと飲む音が、徐々に早くなる胸の鼓動が、うるさいくらいに耳をつく。
そして、ぬらりと首が回る。
その目が、俺たちのほうを――まっすぐに、捉えた。
瞬間、風が凍ったようだった。
森全体が息を呑み、時間が止まったような錯覚。
だが、現実は容赦なく動き出す。
グレイベアーの体が、ずずんという重たい音とともに向きを変えた。
「ブオォォォォ……!!!」
咥えていた“何か”をずるりと落とし、重低音の落雷のような唸り声が、喉の奥から響く。ビリビリと体の芯まで痺れが走り、地面に足を掴まれたかのように一歩も動けなくなる。
アーヴィンが咄嗟に「逃げろ!」と小さく叫んだ。
その声に、固まった俺の体がビクッと跳ねる。ザ、ザザッと、後退ったところで、ようやく"走る"ということを思い出した。
「こっちだ、化け物ォ!!」
アーヴィンはグレイベアーにも引けをとらない程の大声を張り上げ、両手を高く掲げた。
そして怒鳴り声とともに、俺とは反対の方向に駆け出した。まさか、アーヴィンは囮に――!
グレイベアーが低く唸り、地を揺らす勢いでアーヴィンの背を追っていく。俺の心臓は、引き裂かれるような音を立てた。その音に背中を押されるようにして、来た道を駆け出した。
全力で――がむしゃらに。
音を立てるな。呼吸を殺せ。視線を切るな。
猟師としての血か、はたまた本能か、頭の奥で冷静な声が命じる。だが、そんな理性はとうに崩れ落ちていた。今の俺にできるのは、ただ――走ることだけ。
薄暗い森。月明かりもまともに届かず、視界はおぼろだ。木の根が這い、岩が転がり、罠のように足元を脅かす。それでも俺は、一度もつまずかなかった。
体が、“知っている”かのように動いていた。
まるで、誰かに操られているような、あるいは、自分の中にもう一人の自分がいるような――そんな感覚。
枝を避け、地を蹴り、迷いなく道を選ぶ。
怖いはずなのに、嘘のように足が止まらない。息は焼けつき、肺は悲鳴を上げているというのに、俺の心臓は、むしろ歓喜に跳ねていた。
怖い、怖い、怖い、楽しい――
その感情が入り混じって、わけがわからない。
ただ一つ、確かなのは――
血が、燃えるように巡っているということだ。
胸の奥が熱い。喉元まで込み上げるような、言葉にできない“何か”が、俺の中でうねっていた。
(なにやってんだ、俺……!)
恐怖のはずが、どこかで笑いそうになっていた。
それは決して、正気の笑みではない。狂ったように歪んだ顔。ただ、今――生きている。強烈に。
気づけば、俺の足は重く地面を捉えた。斜面を駆け上っていたのだ。どうやって登ったのか、記憶が曖昧だ。
気がついた時には、森を見下ろす高みに立っていた。
足元は崖に近い斜面。
その下には、人影が――アーヴィンの小さな背中が見える。無事だったんだ!でも、さらにその向こうには――灰色の巨躯。グレイベアーだ。アーヴィンは崖を背に、今まさに追い詰められようとしていた。
その時、雲の切れ間から月が顔を覗かせた。
その淡い光が俺の背を押すように降り注ぎ、地面に薄く影を塗る。
俺は自然に呼吸を止めた。
左手には弓。右手には一本の矢。最初からそうだったかのように、いつの間にか俺はそれを構えていた。
黒鉄の矢の黒い矢尻が、冷たい風を帯びる。森を抜ける夜風が指先を震わせる。
体の奥で何かが目覚めかけていた。それが何なのか、俺にはわからない。
けれど――一つだけはっきりとしていた。
ここで射らなければならない。倒さなければならない。この瞬間のために、ここへ導かれたのだと。
右手の指先が、クロオオワシの羽で作られた矢羽根をつまむ。まるで、体に吸いつくようにファサと馴染む。それをゆっくりと――いや、迷いなく、引き絞る。
筋肉が軋む。肩が鳴る。
限界まで引ききったその瞬間、俺の中の何かが、確かに“引き金”を引いた。
放たれた矢が、甲高い音を立てて夜風を裂き、真っ直ぐに駆けていく。
「ヒュイィィィッ――――!」
それは、悲鳴のようでもあり、風の咆哮のようでもあった。闇を裂いて進む一本の線。まるで意志を持つかのように、一直線に伸びていき――
グレイベアーの首もと。分厚い皮膚を、肉を裂き、強靭な骨を易々と貫き、血飛沫が月光に紅く光った。




