吸血姫《化物》を越える人間《怪物》
「な、なぜ……。生きて……。えぇ?!」
あきらかに狼狽しているジャネット。
それを見て、セラは不思議そうに、そして面白いものを見た表情をしていた。
セラとジャネットは付き合いが深いわけではない。そもそも、ジャネット自身最近ダンジョンに、しかも幹部クラスとして現れたぽっと出の存在だ。
しかも、その立場はセラたちの夫。ゴブリンのルードが就くとばかりに思われていたのに、横からかっさらわれた形で、だ。
正直、セラからすると面白く思う筈がない。それは第一夫人であるファラも同じだった。
それでも彼女たちが文句を言わなかったのはダンジョンマスター、秀吉が釘を刺していたから。ルード夫人という立場に笠を着て下手に介入するな、という言葉があったからだ。
もし、その言を破ればルードの立場が悪くなる。その可能性を考えてふたりは行動しなかった。特にセラは没落したとは言え、元貴族令嬢。そこら辺りの機微は嫌という程理解していた。
もっとも、だからといって不満に思わないわけはない。
その原因となった女がここまで狼狽しているのだ。セラにとって胸がすく想いだろう。それが性格が悪いと思っても、そう思わずにはいられない。それがルードという男に惚れた女たちの、いわゆる惚れた弱みというやつだった。
そう思い、内心嗤っていたセラだが、そもそも彼女にとっても他人事ではない、ということに一切気づいていなかった。
メイド服を着た女性、エリス・アルフォード男爵令嬢は、セラを、セラ・セント・クレア元子爵家令嬢を興味深く見つめる。そして口を開く。
「うんうん、やっぱりどことなく面影がありますね。性格はルーシーさまとは似ても似つかないようですが」
「…………は、ぁ?」
エリスの口からでたルーシーという名を聞き、ポカンとするセラ。なぜ、そこでご先祖さまの名前が……。と疑問を覚えた。しかし、その時点でいまだ点と点は繋がっていなかった。
然もありなん。なにしろ、彼女がアンネローゼ・フォン・ハミルトン。いや、アルデン公国国母、アンネローゼ・アルデンの最側近。メイドでありながらもっとも信を得たエリス・アルフォードと同一人物であることなどつゆにも考えていなかった。
なにしろ、エリス・アルフォード男爵令嬢は彼女の先祖、ルーシー・セント・クレア子爵家令嬢と同じく歴史上の人物。まさか、そのふたりが重なる。同一人物など、分かる筈もなかった。
客人ふたりが困惑している様子――しかも片方は弟子にあたるセラ――をもっと楽しみたかった千代女であるが、そのままにしておいては話が進まない。渋々、本当に渋々ながら上司であるエリスへ話しかける。
「頭、エリスの頭。ふたりとも混乱してるよ。そろそろ種明かししてもいいんじゃないかい?」
「種明かし、と言われましても…………」
千代女の指摘に、不満げな様子を見せるエリス。
彼女からすれば、別に嫌がらせやイタズラをしようとした訳じゃない。単純に、本当に単純に話していたに過ぎない。なにしろ、彼女にとってこれは当たり前の状態でしかないのだ。
それを説明しろ、などと言われたところで意味が分からない。不満に思うのは当然の話だった。
それをさも、自身が異常みたいに言われるのは不本意この上なかった。……もし、この場に既に死んでいる彼女の主。アンネローゼがいたら、間違いなく頭を抱えていただろう。どう考えても異常なのはエリスの方だ、と。
……まさか、手慰みに話した創作を彼女が不完全ながら再現し、力を行使するなど想像の欄外だった。
「単純ですよ。ジャネットさまはわたしが使う力、ご存じでしょう?」
「えぇ、えぇ。知ってますとも、あなたの力には幾度となく煮え湯を……。…………まさか?」
さぁ、と血の気が引くジャネット。あり得る訳がない。むしろ、あり得て良い訳がない。そんなことになれば彼女の仮初の主。ダンジョンマスター-荒木秀吉は元より、魔界に座する真なる主。魔界を統べる魔王陛下、アリス・ヘイズすらも歯牙にかけない、本当の意味で化物ということになる。
その力は天使すら、天上にいる神ですら禁忌とする力となってしまう。
「えぇ、言葉にすれば単純。わたしの身体の流れる時間を極端に遅くしています。一年で一日経過する、その程度の遅さに、ね?」
可愛らしくウィンクして伝えるエリス。しかし、聞かされた方からすれば堪ったものではない。そんなこと、あり得て良い筈がないのだ。
そもそも魔法とは、当然ながら魔力を消費する。そして、時間を操る魔法は希少性は当然ながら、燃費もすこぶる悪い。
エリスが宣ったことなどできる筈がないのだ。常識的な観点で。
そもそも、そうでなかったとしてもそんなことを考える時点で狂気の所業。考えつける筈もない。なのにも限らず、エリスはその狂気を実現させてしまった。
はっきり言って、吸血姫であるジャネットよりも異物。あり得ざる者と成り果ててしまっている。まさしく、人の皮を被った化け物だ。
それに比べれば、不死に近い再生能力を持つジャネットすら幼子扱いになってしまう。
なぜなら、そんなことが可能ならエリスは、エリス・アルフォードは即死さえしなければ、自身の時間を逆行させることで傷を負ったことすらなかったことにできる。吸血姫すら越える不死性を得ていることになる。
それは吸血姫を、悪魔、魔王すら越える幻想。人が持って良い力ではない。だというのに……。
「……まだ、お嬢さまが教えてくれた権能には程遠いんですよねぇ……」
本当に困った、とでも言いたげに頬へ手を添えるエリス。その慮外の力ですら、まだ不完全であるという。では、完全な力とはどれほど馬鹿げていて、どれほどあり得ざる力なのか。その力の行き着く先、それは――。
「凍える――、……なんでしたっけ? まぁ、名前なんて重要じゃないですし、良いでしょう。いずれ、この身体は時の歩みすら止め、何物も受け付けなくなる。その上でわたしは、わたしという存在で永劫、歩み続ける。それがすべてなのですから」
それは己自身の時を止めることにより、あらゆる変化を受け付けなくする外法にして偉業。それこそが、かつて。エリスが主君、アンネローゼに聞いたひとつの到達点にして、終着点。他の何者でもない、エリス・アルフォードという怪物のみがたどり着ける極致。
「ふ、不可能ですわ! そのようなこと!」
その、あり得ざる極致を聞き、ジャネットは発狂したように叫ぶ。それはもはや、自然の摂理などという問題では片付けられない。まさしく夢物語。
「そもそも己の時を止めて、どうやって動こうと言うのですかっ! そんなこと、魔王陛下ですら叶わない! なのに――」
……確かに、ジャネットの指摘が圧倒的に正しい。身体の時を止めた、意識すら凍結したエリスを誰が動かせるというのか。
あぁ、確かに正しい。ジャネットが指摘するものが正道だ。だが、こと今回に関してだけは――。
「えぇ、ジャネットさまがおっしゃる通り。わたし自身の時を止めてしまっては身体を動かすことなんて無理。でも――」
――もし、わたし自身の意識を別の空間に移し、身体を操り人形のようにできるとするならば?
仮定に次ぐ仮定。あり得る筈のない夢想。だが、ジャネットはひゅ、と思わず息を呑む。理解した、理解してしまった。
他の誰でもない。エリスという、時間だけではない。空間すらも操れる怪物のみが至れるかもしれない幻想。
そして、それは完全なる人間という存在からの逸脱。
ジャネットの理性はあり得ない、と拒否している。だが本能は――。
――がちがち、とうるさい音が聞こえる。急に寒くなってきた、部屋の温度が下がったのだろうか?
――否。
ジャネットは、目の前の人間に恐怖している。がちがち、というのは歯が震えている音。寒くなったのは、ぶわ、と浮き出た大量の汗が体温を奪っているから。
その自覚をして、ジャネットの顔はどんどん青ざめていく。目の前の、ただの人間だった筈の怪物が、自らの命を容易く奪える存在だと気づいて。捕食者と非捕食者の関係が逆転したのだと気づいて。
足下がガラガラと崩れていく感覚に陥る。
ふっ、と身体中から力が抜け、意識が遠退く。
最後に感じたのは、誰かが支えてくれた暖かな感触。そして、うるさく聞こえる自身を、ジャネットの名を呼ぶ声であった。