グッバイ、ララバイ。
1.青空
コトリは、注意深くゆっくりと空を見上げた。こんなにも窮屈な世界に広がる満天の星空を眺めながら、誰かのことを思い出そうとしていた。
新緑の森の中を、穏やかな足取りでスキップして抜けると、次の街が見えてきた。寂しさと微かな期待を胸に、迷彩色に包まれた光化学スモッグの雲を抜けると、そこは不思議の街だった。
銀色のアーチをくぐると、人々が楽しそうに微笑みかけてきた。思わず、嬉しそうな笑みを浮かべると、皆が待ってたよ。と言ってくれたような心持ちになった。生きることはなんて素晴らしいんだと美しい涙を流しそうになったが、コトリは楽しみを見つけることに夢中になろうと心に誓った。
よくよく、辺りを見回してみるととても古い街並みだった。木漏れ日に照らされ、何かに夢中で取り組む人々の姿に目をやり、自分もこうなりたいと思慮に浸った。
街の広場に佇みながら、楽しげに口笛を吹いてあちらこちらを眺めていると、教会から、温かな旋律と歌声が聞こえてきた。何となく、コトリはこれから、大切な思い出を集められそうな予感がした。
すみません。
振り返ると、初老の女性がそこに、佇んでいた。背筋の伸びた、真っ直ぐな眼差しを向けてくる人だった。ぼくはこの人物を知っている。しかしそれが誰なのかは思い出せない。コトリは柔かに何かご用ですか?と笑いかけようとしたが、突如、脳に落雷が落ちたかのような激しい鈍痛に襲われた。
すみません、すみません。
コトリは罪悪感に満ちた表情で女性から目を背け、その場を後にした。
何か大切なことを、思い出せそうな気がしたが、その激しい痛みに耐えられず、申し訳ないことをしてしまったなと思いながらも、コトリは新しい楽しみを見つけるため、彼女の事を忘れることにした。
もう一度、讃美歌に耳を澄まそうと教会の方へと近寄ると、ふと、教会の隣にある空き地のようなひらけた場所で老人がカルマポリスたちに詰め寄られている光景が目に入った。
カルマポリス。という名前がなぜ思い浮かんだのか、それが何なのか、まったくコトリには思い出せないが、あれがカルマポリスだということはよくわかっていた。
何となくここで、止めに入らなければ自分は一生後悔するだろうと思ったコトリは、やめてください。と彼らの間に割って入った。老人は奇妙な目でジロジロとコトリを眺め、感謝の言葉も口にせず、去っていった。すると、カルマポリスの一人が氷のような眼差しでコトリに詰め寄った。
お前は、誰だ?
コトリにはカルマポリスの発した言葉の意味が、よく分からなかった。
なんのことですか?弱いものいじめはよくないと思います。
コトリは落ち着いた抑揚で、しかし覚悟を持った眼差しでそう告げた。すると、カルマポリスは拳銃を取り出し、コトリに突きつけた。
仲間内の一人が言った。ムハサ。こいつは本当に危険だ、必ず今殺しておけ。なぜだか、コトリを見て怯えているようにも受け取れるかすかに震えた声色だった。
ムハサというのが、いま、自分の脳天に銃を突きつけている人物であると分かると、コトリはなんて可哀想な人なのだろうと、彼のことを哀れんだ。
お前は、罪の街の人間なのに、なぜ俺たちに挑む?そして怯えない?面白いやつだ。今、殺してやる。
コトリには何となく、分かった。目の前の男が今から何の躊躇いもなく自分を殺すことを。でもそれも、許してあげよう。
いいよ。
コトリは柔らかな笑顔で言った。ムハサは瞳孔を見開き、確固たる信念を持って血走った親指で撃鉄を起こした。彼の様子を見て、今から自分は死ぬのだということをコトリは確信した。
ムハサの中指が引き金に掛かった時、コトリは穏やかな表情で、誰かを慮るようにその瞳を閉じた。
ありもしない記憶が、シャッターを切るかのように瞬時に蘇り、最後にその誰かの笑顔だけが残った。しかし、その無償の愛の行方が、誰からのものだったのかだけ、コトリには思い出せなかった。
まあ、仕方ないかと少し自虐的な笑みを浮かべ、コトリは大好きな星や宇宙のことを思い浮かべ、儚く消えうるように自らの運命を受け入れた。『彼』と対面したのは、そのすぐ、後のことだった。
2.漏瑚
コトリが目を開けると、脳の動脈が破裂するほどの激しい鈍痛に見舞われた。生きているのか、死んでいるのかすら分からない。それほどの激しい痛みだった。痙攣した右手で出血した箇所を抑えなければと必死に頭蓋を押さえようとした。
混沌の暗闇の中で、生存本能とやらを恨んだ。これほど何かに憎しみを感じたのは、コトリにとって初めてのことだった。
たすけて、たすけてと喚きながら、撃たれた箇所を慰めるように触ると、あるはずの銃痕が、そこになかった。
ふと、目を配ると一人の若者がコトリに手を差し伸べていることに気づいた。視界がぐらついている、大きな地震のあとのような平衡感覚を失った身体を起こし、コトリは若者の顔を必死に確認した。
そして、そのあまりにも美しい出立に、コトリは息を呑んだ。細身の男だった。冷たい真っ白な表情が印象的な、女性とも男性ともとれる顔をした男だった。これほど、冷たい目は見たことがない。コトリは思わず、恐ろしさと尊さを感じた。あれほどの痛みが、少しずつ、和らいでいくのを感じた。
良かったなあお前。死ぬとこだったんだぞ。
表情の読み取れなかった瞳に、光が見えた。この世で、最も綺麗な心と、眼を持った人だと、コトリはすぐさま気付いた。何か言わないと。コトリは必死に言葉を探し、ありがとうございます。と泣きながら口にした。
-どういたしまして。
一体、何が起こったんですか?ぼく、死んだ筈じゃ?
-死んでない。俺が助けたんだよ。
どうやって自らが救われたのかももはや知る必要がないとさえ感じた。すみません、すみません。と呟くしかない自分に嫌気がさし心底自分が情けないとすら感じた。でも、この人のことだけは、忘れたくない。コトリはそう強く願った。目を見開いて、あなたの名前を教えていただけないでしょうか。と小さく呟いた。
-漏瑚。変わった名前だろう?
お礼を、させてください。枯れ果てたこの心を、満たしてください。あなたのために、祈りたいんです。だから、お茶を、お茶くらいでしか今はお返しできません。すみません。
-面白いやつだな、お前。飲みにいくか?
漏瑚は無邪気な笑みを浮かべた。胸ポケットから漆塗りに赤い半月の描かれたケースを取り出すと、清々しいほど真っ白なタバコに慣れた手つきでライターで火をつけた。
あの、僕お金を全く持ってないんですが。
-安心しろ、俺も持ってない。任せてくれ。心配はいらない。
思わずコトリは少し吹き出した。自分より変わった人がいるのだと何となくコトリは感じて少し安堵した。
なんて名前なんだ?
-コトリです。
コトリか、いい名前だ。あっちにいい店を知っているから一緒に行こう。
コトリは差し伸べられた手をようやく掴み、起き上がった。そして、鹿のように凛とした彼の背中を追った。
漏瑚は、翠色の蛍光灯に縁取られた筆記体が印象的な看板のぶら下がったバーへと入って行った。
鯨をかたどったどこか淡い印象を受ける蒼色のライトと、すべてを包み込むようなオレンジ色の豆電球が不可思議な世界を演出していた。
混在する闇と光が、混ざったような独特の光で照らされた空間に、コトリは洗練さと奇妙な居心地の良さを見出した。
バーに入ると、漏瑚はキョロキョロと辺りを見回し、俺が今から言うことに、何も言葉を返さなくていい。素直に従ってくれ。と優しく口にした。
言葉の意味がわからなかったのでコトリは静かに沈黙することにした。
まず座ってくれ、と漏瑚がコトリに囁いた。
店主だと思われる男性がぶっきらぼうにコトリに尋ねてきた。
あんた、入ってきて挨拶もなしかい。一体何を飲むんだい?と。漏瑚のことは無視だ。ぼくも悪いが、この人はいじわるな人だと少し憤慨した。
ぼくが黙っていると店主が言った。あんた、言葉もしゃべれないのかい。飲む気がないならさっさと帰ってくれ。
おそらく、漏瑚はこの店の常連なのだろう。だが、何かがおかしい。コトリは実に変だと思った。誰も漏瑚の方を見ようともしない。まるで漏瑚が自分以外の人々にとって、透明人間になってしまったのではないかとすら感じた。
すると漏瑚がカウンターに並べられたボトルウイスキーと少し大きめのショットグラスを取り、上機嫌そうにコトリの隣に座った。
突然、にこやかに食事を口に運び談笑していた客たちや先ほどまであれほど強気だった店主が口々に悲鳴を上げ、逃げ出すように店の外へと駆け出して行った。
一体、何が起こったのだろう?コトリは不思議でしょうがなかった。
よし、これでもうしばらくの間は誰も入ってこないだろう。と漏瑚はさらに上機嫌になった。
席についた漏瑚はまず、乱暴にウイスキーをショットグラスに流し込み、喉に通した。一見、凶暴にも見える出立ちと振る舞いだが、どこか品性や高貴さを感じざるをえないとコトリは思った。
見れば見るほど、不思議な男だ。枯れ木のように細身なのにどこか力強さも感じる。長髪に全身の服装をシックな色調で統一している。左耳にだけ付けたすこし小さめで落ち着いた銀色のイヤリングが、彼のアンバランスな美しさを整えているようにコトリは感じた。
しかしやはり、その独特の眼差しと、魔女のようにすこし曲がった鼻筋の通ったさまが結果的に彼を魅力的に見せているとコトリは感じた。
グラスの片割れをコトリに差し出すと、漏瑚は眉を上げ、少しだけ柔らかくなった印象で言った。
さぁ、何を知りたい?
-僕、字が読めなくて。このお店の名前は何というんですか?
レイジー・クラブだったはず。3年ぶりに来たな。前は勝手に夜中、店に押し入って飲んだ気がする。もっと面白いこと言えよ、お前、我慢してるだろ?
-あの世は、ありますか?
漏瑚は笑い転げた。しかし、なぜだろうか。全く自分をバカにしている様子が、ない。
あるよ。
漏瑚は断言した。
コトリは息の詰まる思いで、返答した。
-知りたいんです、すべてを。ぼく、バカだから。いろんなことが苦しくて。出来うる限りの全てを納得して人生を終えたいんです。
いいよ。教えてあげる、でもまだ今度な。その心を忘れるな。お前は強くなれる。誰よりも。たまに会いにくるから、何にももう流されるな。俺だけを信じろ。守ってやる。
-はい。
漏瑚は脚を組みながら、顎を触りにこやかに微笑んだ。
飲み明かそう、今日は。
-ぼく、お酒たぶん弱いんです。
なら、俺が飲む。俺の話を聞いてくれ。聞いてほしい。
-分かりました。
そこから漏瑚は延々と飲み明かし、コトリは気づいた。この人は本当に寂しい人なんだと。人への愛しか語らないのに、人への不満をずっと吐き続ける人物なのだと、コトリはなんとなく漏瑚の人柄を思って涙を堪え頷き続けた。この人物のことを強い人間だと勘違いした自分を心底恥ずかしいとすら思った。
漏瑚は穏やかに、諭すように彼の持つ、さまざまな知識をコトリに教えた。その知識は多岐に及び、音楽や芸術、歴史や宇宙について独自の持論を唱え続けた。頭で理解しなくてもこころで理解できる。そして納得することができる。そんな言葉遣いだった。
漏瑚は飲んだくれながら、時にどうしようもなく、悲しい眼をしてかつて愛した人々や自分の元から去った者たちへの悪口を吐き続けた。
コトリは飲み慣れていないお酒に少しだけ付き合うことにした。翠色のジントニックを飲みながら漏瑚の話を聞いていると、コトリはただただ、気が紛れた。ぼくは一人じゃないのかもしれないと昼間起きた出来事をその瞬間忘れることができた。
ありがとう、漏瑚さん。楽しかったです。
今まで、苦しかったね。ぼくが漏瑚さんの友達になるよ。
突然、漏瑚は沈黙した。コトリは何も言わず、頑張って微笑み続けることにした。
朝の四時を過ぎた頃だった。漏瑚は突然目から光を失ったかのように視線を落とし、声色を落として呟いた。
頑張れよ、コトリ。俺もこう見えて昔はひどいいじめられっ子だったんだぜ。でももう俺はそいつらよりも強い。俺は賢い。そんな俺が大好きだ。
コトリは嗚咽した。飲み慣れていない酒のせいではなかった。今まで、話した全てが彼にとってただの飾りでしかなく、この言葉こそ最大の強がりで誰かに聞いてほしかったことなのだと理解したとき、コトリは言い知れぬ絶望と不安に駆られた。
誰に放つわけでもなく、憂いを帯びた面持ちで漏瑚はポツリと言った。
俺は、お前らを遊び半分で殺すような、カルマポリスたちを全員殺す。お前たちを優しい世界に帰す。
-それは違う。
コトリは勇気を出して、涙ながらに小さく呟いた。
なぜ、カルマポリスという言葉の意味がわかった?
-分からないんです、記憶が、何もないんです。
漏瑚は目を見開いた。激しい怒りと、憎悪に満ちた眼差しだった。こんなに、この男のことを恐ろしい人間だと思ったのは、最初で最後のことだった。
お前、誰に何をされた?
-分かりません。なぜでしょうか?
漏瑚はウイスキーの残りをボトルごと一気に飲み干すと、流れるように店を立ち去った。しかし、それが自分に向けられた怒りではないことをコトリは理解していた。
3.サグラダゲート
漏瑚は足早に店を飛び出すと、街の最果てにあるある場所へと足早に向かった。サグラダゲートと名付けられた祭壇だ。ただただ、鼓動に身を任せるように。しかし溢れ出す涙を止めることができず漏瑚は嗚咽しながら言葉にならない怒号を叫んだ。
道中で、昼間コトリを助けるために自らが殺したカルマポリスたちの遺体があった場所ににふと目をやろうかと迷ったが、漏瑚は一瞥もくれずただ前を見つめ歩いた。
しかし、一瞬、電流が走ったかのように後悔の念がよぎり漏瑚は振り返った。
光の中に消えていったムハサたちを弔うように、しかし嘲笑うかのようにポツリとだけ悔やみの言葉を述べた。
自業自得だよ、でも、ごめんな。
漏瑚は覚悟を決めた。やるべきことをやってから優しい世界に帰ろう。無に帰ろう。それだけが自らの宿命であり、運命だと思うことにした。
漏瑚は足早に、荘厳なサグラダゲートの大理石の柱に触れた。すると、巨大な、白い扉が出現した。漏瑚はその中心に描かれたきらめく渦のような模様へと手のひらを押し付けた。すると、ギーッという少し耳障りで神秘的な扉の開閉音が鳴り響き、漏瑚の肉体はその渦の中へと完全に消えて行った。
サグラダゲートを抜けた先の真っ白な空間で漏瑚は、ちょうどすれ違ったカルマポリスの目を見て、彼女に突然発砲した。プラスチックのように崩れ落ち消えていくその亡骸を見て、漏瑚はごめん。でもお前も殺されて当然だよ。とだけ呟いた。そして、自らの呪いを、生まれ落ちたことを心底後悔しながらも、ようやくしたいことが見つかったのだと漏瑚は思うことにした。
止められるものなら、止めてみろ。これで消えられるなら俺は本望だ。と自らの存在すべてを皮肉るように、しかし哀しみと切なさに満ちた表情で小さく呟いた。もう、彼の視界に景色や物、あるいは人々の希望は何も映らなくなってしまった。
漏瑚が足早に歩を踏み出そうとすると、背後から彼の服を引っ張る感触に気づいた。振り向きざま、引き金を引こうとしたがその何者かを殺そうとしたその瞬間、あまりの衝撃に漏瑚は言葉を失った。
何故、お前がここに来れる。
-やめてください。
必死に懇願するような眼差しで、漏瑚を引き留め佇んでいたのはコトリだった。
何故、こんなことをするんですか?こんなことができるんですか?
怯えたような目つきでコトリが尋ねた。
-どうやって入った。帰れ。
あなたについてきました。あなたと同じように扉を開けました。
漏瑚は泣きそうになりながらサグラダゲートに向かってコトリを突き飛ばした。
しかし、コトリは打ち付けられたかのように扉の前で跳ね返った。
崩れ落ちたかのように眉をしかめ、涙を浮かべながら目を見張る漏瑚に、コトリが言った。
一体全体、何なんです。なんでこんなことするんですか?
漏瑚は、その場で泣き崩れた。何を叫んでるのかはわからないが、おそらく弱音と、なにかに対する怒りを大声で吐き続けた。そんな彼の様子を見て、彼の行動が本当はしたくない事なのではないかと謎めいた表情でコトリは漏瑚を見つめた。
ひどく苦しそうな表情で漏瑚は切羽詰まったように、しかしどこか核心に迫るような表情でこう告げた。
4.真実
お前は、お前は、と言葉の出てこない漏瑚に対してコトリはどうしたの?と背中をさすった。
俺の、分身なんだよ、コトリ。
何となく、分かっていた。コトリはこの男の眼差しに、無意識のうちに自己を投影したことを感じ取った。すると、あれほど満たされかけていた心が軋むように痛み始めた。しかし、コトリはまるで何事もなかったかのように落ち着き払うことにした。
漏瑚さん、いや漏瑚。ぼくが必ず君を助けるから。教えて、ここはどこなの?
漏瑚は悔やむように、自らのことを、この世界のことをゆっくりと語り始めた。
カルマポリスは、人間には見えない。ここはいわばあの世とこの世の狭間だ。人が死ぬとその魂が、カルマポリスに変わる。
-うん。
たまーにいるんだ。俺たちのことを見える奴が。だが、見えても近づいてこない。人智を超えた者だとそいつらは感じ取れるからな。恐ろしいんだろう。俺は、何となくお前のことを助けた。そして俺と話してくれた人間は、お前が初めてだった。俺が知りうる限り、こっちに生身で来られた人間は誰もいない。
-うん。
ここから先は影の街だ。俺たちはお前たちのいる世界のことを罪の街と呼んでいる。
-なぜ、罪の街なの?
俺たちの世界に、罪という概念がないからだ。どんな酷い人間でも死ぬと一度だけ許されてしまう。ただ唯一、許されないことがある。カルマポリス同士で殺し合うことだ。一度死んだ人間をもう一度殺す、こんな悲しい事はないからな。
-そうなんだね。
俺たちの多くは、殆どが自分はまだ生きていると思い込んでいるんだ。ただそこに記憶はもうない。魂だけが残ったからっぽな人形のように、愛だけを頼りに死ぬ前にやり残したことをやりに現世へ集まるんだ。
-愛?
俺はな、誰かを愛してしまった記憶だけがあってこの世界に来た。右も左もわからなかったよ。ずっと。
コトリは漏瑚の孤独に寄り添うことを決めた。言葉はいらないと、悟った。
悪いことをたくさんしてきたやつは、ろくでもないことをする奴が大半だ。たまに改心してる奴もいるんだけどな。さっき俺が殺した奴も恨みで誰かを殺そうとしていた。眼を見ればわかってしまうんだよ、俺は。そいつの魂が見えてしまうんだ。
俺は何度も自分と同種の者たちを殺めてきた。でも、それが使命だと思っている。お前たちほど、儚くて美しい生き物はいないんだよ。お前たちをできる限り救って長生きさせたいだけなんだ。
一度死んだ人間が、今世で生き返るはずがない。それほどの苦しみは、ないんだ。ただ生まれ落ちて土に帰る。そう思っていた方がよっぽど楽なんだよ。
そんな苦しみを、自分の分身に与えた奴のことを許すことなんて、俺にはできない。
-許せないことなんてないよ、許そうとしないだけなんじゃない?
漏瑚は、生まれて初めてこころを取り戻した気がした。理由もわからない涙が頬を伝った。そして、虚しそうに空を見上げた。そのことが美しいと心臓の鼓動が、優しく知らせてくれた気がした。
俺が間違っていた。許してくれ。許してくれ。ごめん、みんな。ごめん、コトリ。
-いいよ。一緒に戻ろうよ。なんだか、戻れる気がするんだ。
5.グッバイ
失った記憶を、一緒に取り戻そう。俺がお前の心に混ざる。この姿形は消えるが、もうそれだけで十分だ。俺は罪人だ。いずれ天罰が必ず下る。だから少しだけお前のために生きて罪を償うことにするよ。
-最高だよ、漏瑚。帰ろう。ぼくもそれだけでいい。
このイヤリングに俺の魂を移す。これを身につければ俺とお前は同じ人間に戻れるはずだ。
だが、お前が本当にもう大丈夫だとわかった時、おれはそっと消える。気持ち悪いだろ?ずっと人生をもう一人の人間に見られ続けるなんてさ。
なんて、優しいんだろうか。こんなに苦しい事はないとコトリは泣きながらありがとうと伝えた。そしてそれが彼の心の底からの願望であることを悟り、ただ小さく頷いた。
お前に今日出会えたことを俺は一生忘れない。コトリ、お前は少しドジで間抜けかもしれないが世界で一番いいやつだ。だから、これから帰っても、そのままのお前でいてくれ。
-うん。
ちゃんと飯は食えよ。仕事も無理をせずに自分のやりたいことを見つけてやればいい。お願いだから、楽に生きてくれ。
-うん。
俺も少しは優しいんだな。気づかせてくれてありがとう。お前が幸せに生きてくれれば、俺はもうそれだけでいい。頑張れよこれから。
-漏瑚ももう強くなくていい。ぼくが強くなるから。ぼくのこころの中でひっそりと泣けばいいよ。
漏瑚は涙を堪えた。
ありがとう。俺に気づいてくれて、またな、コトリ。いつかまた、違う人間として、出会えたらいいな。
コトリは微笑んだ。
終幕.ララバイ
サグラダゲートを通り抜けると、ふと大理石の横にこの街に来て初めて話しかけてくれた初老の女性が腕を組んでコトリに優しい表情で目配せをしてくれた。
コトリはすぐさま彼女の方へ駆けて行った。心拍が上昇し、全身の血液が生気にみなぎっていることを確信した。いつか、この人にまた会える気がしていたのだとコトリは理解した。何も間違いじゃなかった。そして、記憶を取り戻す必要なんてないのだと、これからありのまま生きて幸せに暮らそうという思いで言葉をかけた。
こんにちは。あなたのこと、本当に思い出せないのですが、どこかで会ったこと。ありますよね?
-おかえり。
意地悪そうな笑みで女性が微笑んだ。その眼が、ぼくの心を貫いた。
ぼく、今までジェットコースターに乗ってたみたいに人並みに飲まれていたと思うんです。でも今は、各駅停車に乗れた気分なんです。退屈だけど、すごく幸せなんです。
女性が涙を浮かべながら言った。
どれだけ、失ったかだよ。
コトリは心の底から、笑った。
fin.