『番町プレスマン屋敷』
江戸のころのお話です。
とあるお屋敷に、お菊という下女がおりました。多分、美人です。根拠なんかありません。そうじゃないと、この後起こる出来事に対して据わりが悪いので。
旗本であるお殿様は、速記が大好きでした。しかし、速記が好きだというのには、いろいろな方向性があります。お殿様は、プレスマンを集めるのが何よりも好きでした。
プレスマン、御存じですよね。まともな大人だったら、持っていますよね。平安時代の末期、平時忠という人が、プレスマン持たずんば人にあらずとか言ったそうです。あ、いや、ちょっと違ったかもしれません。でも、そんな感じです。
速記者は、プレスマンを複数持っています。いろんな色を全色持っています。その日の気分や天気なんかで、きょうは赤、きょうは緑と、使い分けるのです。おしゃれですね。
普通の速記者だってそんな感じですから、プレスマン収集が趣味のこのお殿様は、プレスマンの箱買いなんかをしてしまうわけです。十本入りです。箱を持つだけでうきうきします。少し振ってかちゃかちゃ音を聞くだけでわくわくします。
プレスマンが発売されたのは、何という元号のときだったか忘れましたが、その元号の五十三年に黒が、その次の元号の二十八年に白、赤、青、緑、黄が登場したのですが、その次の元号の四年だか五年だかに、赤、青、緑、黄は、発売中止となってしまったのです。
旗本であるお殿様は、もちろん、発売中止となる前に、全色箱買いしました。全色十本入りです。想像しただけで笑いがこみ上げてきます。え?何が楽しいのかわからない?じゃ、物語のこの後の展開は、御理解いただけないと思います。
もうお忘れかもしれませんが、お菊という下女がおりまして、美人でして、お殿様も目をかけていたのですが、あろうことか、箱買いしたプレスマンをぶちまけてしまいまして、一本折ってしまったのです。
プレスマンを折るなんて、それだけで地獄行きは確定ですが、あろうことかの二乗で、折ったプレスマンは、赤だったのです。もう買えないのです。ひど過ぎます。
うわさにすぎませんが、お菊がプレスマンを折ったのには事情がありまして、お殿様とお菊は、わりない仲で、お菊がお殿様の気持ちを確かめるために折ったというのです。私とプレスマンとどっちが大切なの、ということでしょうか。ろくでもないやつです。改めまして地獄行き確定です。
お殿様も、さすがにお怒りになりました。そりゃそうですよね、赤プレスマン折ったんですから。折檻しました。ぺちぺちのレベルではありません。レベル違いのぺちぺちなので、レぺちという言葉をつくってみました。お殿様がお菊をどのように折檻したのかを簡単に言いますと、右手中指を切り落として、縄で体をぐるぐる巻きにして、棒で殴りまくりました。すいません、レぺちという表現とは違った感じでした。プレスマンを折った娘の右手中指を切り落とすなんて、やり過ぎです。速記ができなくなるじゃないですか。
お菊は、このつらさから逃れたいと思ったのでしょうか、井戸に身を投げて死んでしまいます。もしかすると、井戸の中の秘密通路から抜け出ようとしたのかもしれませんが。
そんなこんなで、夜な夜な、井戸からお菊の幽霊が出るようになりました。草木も眠る丑三つ時になりますと、人魂がぽっとともりまして、髪をおどろに振り乱し、目も血走って白い着物…つまり死に装束、体のあちこちに、折檻のあざが残ったお菊が、プレスマンを数えるのです。
「いっぽぉん…、にほぉん…、さんぼぉん…」
物悲しい声でお菊がプレスマンを数えます。しかし、
「きゅうほぉん…」
と数えたところで、しばしの沈黙、その後、お菊はすすり泣きます。すすり泣くために幽霊になったと言わんばかりのすすり泣きです。
これが、毎夜毎晩続くのです。お殿様は気の病にかかってしまいました。大名でしたら、上屋敷、中屋敷、下屋敷とありますから、別の屋敷に逃げるということができますが、旗本は、それほど幕府から厚遇されていないので、それもできません。有名な神社の神職や、有名なお寺の住職に相談しましたが、本物の幽霊はちょっと…、とかいって、帰っていきました。イワシの頭を吊してみたり、何だかわからないお札を張ってみたり、井戸の周りで火をたいて明るくしてみたりしましたが、イワシの頭は床に落ちて踏まれていましたし、お札は破られていましたし、火はいつの間にか消えてしまって、お菊は毎夜毎晩、ちゃんと出てきました。
九本しか数えられないことはわかっているのだから数えなくてもいいはずなのに、毎夜毎晩数えるのが、何とも言えず不気味です。もとが美人なだけに、恨めしさがより強力になります。お殿様、どんどんやせていきます。食も細くなって、お殿様がプレスマンみたいです。
幽霊を退散させたら褒美を出すという張り紙をしてみました。もちろん、お殿様自身が、ではありません。お殿様を心配した家臣が、やむにやまれずそうしたのです。みっともないことは承知の上です。
張り紙をしてから三日目、噺家がやってきました。よりにもよって噺家です。お殿様に目通りが許されて、噺家は、
「You、礼は弾んでくれ」
などと口走る始末。幽霊とのだじゃれです。お殿様が元気だったら、お手討ちになっていたはずです。
噺家は、夕食をごちそうになって、調子よく酒を飲み、酉の刻には寝てしまいました。しかし、子の刻になると目覚め、お茶漬けを用意させ、丑三つ時までごろごろして過ごしました。
すると、いつものように、人魂がぽっとともり、お菊があらわれます。
「いっぽぉん…、にほぉん…、」
物悲しく、赤プレスマンの本数を数えます。
「はっぽぉん…、きゅうほぉん…」
よし、ここですすりなくぞという感じで、髪を振り、殿様が寝ているはずの奥座敷にお菊が目をやろうとしたそのとき、噺家が急に立ち上がり、お菊に向かって、
「十本ッ」
と声をかけました。歌舞伎みたいな感じで。
お菊は一瞬、驚いたような表情を見せましたが、すぐに満面の笑顔になり、
「あなうれしや…」
と見得を切るかのような所作で言うと、すぅっと消えていきました。
ああ、成仏してくれたか、と、お屋敷の一同は喜びました。
次の夜でした。丑三つ時の少し前になると、人魂がぽっとともり、お菊があらわれました。成仏したのではなかったようです。
しかし、きのうまでとは表情が違います。あ、いや、そもそも晴れ着を着ています。怖さはないです。
お菊は、手の中の何かを見ています。時計、でしょうか。
恐らく、丑の刻ちょうどになったのでしょう。お菊の声が響き渡りました。
「はい、読みます」
一刻の二十四分の一くらいの時間、朗々と問題文を読み上げたお菊は、
「反訳時間は十二倍です」と、屋敷の中に聞こえるように言いました。
左手の人差し指を十の位、右手の人差し指と中指を立てて一の位をあらわし、半刻の反訳時間であることを示しているのだろうとは思うのですが、屋敷の中で速記した何人かは、十一倍の反訳時間で反訳を終え、反訳用紙を提出したのでした。
※だって、右手中指は、ねぇ…。