93.いざ、竜の背に乗って
笑顔が顔を飾り、歓声が空を舞い上がった。
「竜だぁぁぁぁ空だぁぁぁぁ!!!」
まさに喜びを抑えきれんばかりの嬉々とした表情で溢れかえるニーカさんは、まるで子供のようだ。空を飛んでいる最中でも構わず両手を広げ、全身で風を受け止める姿は幸せの極地と言わんばかりである。
彼女のベルトをアヒムが掴み落下を阻止するも、その程度でニーカさんの興奮は冷めやらない。アヒムは重心の取りにくい竜の背の上で、目を見開きながらマルティナに振り返った。
「助けてくれないかねぇ!?」
「残念ながらわたくしでは力が足りませんし、ここは殿方で力のあるアヒムさんの出番です」
「力が足りないとか嘘つけ! ……シス!」
「僕、フォークより重いもの持ったことないんだー」
「てめえ、後で覚えておけよ!?」
堂々と嘘を吐くシスに手伝う気はない。その間もニーカさんはアヒムに支えられながら仁王立ちを試み、まさに達成した瞬間だ。危ないですよ、と忠告しようとしたけれど、あまりに嬉しそうだから止められない。
後ろで私を支えるように座るライナルトが冷たく言った。
「だからニーカは縄で繋いでおけと言ったろうに。それなら落ちてもぶら下げて行ける」
「あんなことになるなんて誰が想像できるんですか」
「私は想像していたから言った」
「もっと具体的に言っといてください! ……アヒム、ニーカさんを落とさないように頑張ってー!」
「もうやってらぁ!」
大笑いをはじめるニーカさんの喜びようは、これまで見たことのない類のものだ。
服装も完全に旅仕様だし、知らなかった側面に新鮮な驚きを覚えつつ、どうりで私たちのお願いに味方してくれたわけだ、と出立前の数日間を思い返した。
「会談に先がけ、私たちと少人数のみでラトリア入りする」
ライナルトが身近な人達にこの案を明かしたとき、宰相リヒャルトをはじめとしたほとんどの人が反対した。黙って勝手にラトリアへ行くと言うのだから、彼らの意見はもっともだ。
けれど移動手段に黎明を使うと言った途端に、ニーカさんは賛成派になった。護衛として自身の同行を約束させ、代わりに断固反対を掲げるモーリッツさんを説き伏せたのだ。
なぜラトリアの星の使いの迎えを待たないのか、と問うたリヒャルトにライナルトは堂々と「あれは信用できない」と返した。
これに反論できなかったのは、ご老体にも思うところがあったせいかもしれない。
けれど宰相としての心配は他にもあった。かねてから不安視されていたとおり、皇帝皇妃揃っての不在だ。けれど、これもライナルトはこともなげに言った。
「身代わりを立てればよかろう。私たちの不在中はヘリングとエレナに任せる」
「その二人が腹心であることは存じていますが、代わりにもなりませぬ」
「政に際してはお前とモーリッツがいれば問題ない。大事なのは私の意を汲めるかどうかで、見た目は魔法で誤魔化せる」
「魔法院にそれほどの芸当をこなせる方は……」
「オルレンドルには精霊がもう一体いる」
彼が精霊を頼るとは思わなかったようだ。この発言でリヒャルトのみならず、その場の全員が目を丸くし、同時に彼の本気を悟った。
白羽の矢が立てられたのはエレナさん夫妻で、彼女たちの見た目を誤魔化す細工はフィーネの役だ。この依頼をする際、ヘリングさんは引きつり笑いを零していたけれど、エレナさんはやる気に満ちていたし、フィーネは二つ返事で引き受けてくれた。彼女は国外旅行に興味を示せなかったらしく、それよりは家に残る選択を選んだのだ。
私たちの随伴はアヒム、ニーカさん、マルティナ。旅慣れた面々にマルティナが加わったのは、現地人に似た人がいた方がいい、とのシスの助言だ。彼は黎明を実体化させる私に魔力を分けるために加わっている。
本当は彼らだけで完結する予定だったのだけど、これになんと……。
「すごいすごい、なんだこれ、本当に飛んでる!」
「エミール! やめて、落ちる、本当に落ちるから! 僕たちはニーカさんじゃないんだからさぁ!」
「ワタシが補助してるから平気よ。エミールの好きにさせてあげなさいな、ヴェンデル」
「……それ、アヒムを助けてあげないの?」
「アヒムなら大丈夫よ」
「聞こえてるぞ小娘ェ! いいからこの無鉄砲をどうにかしろ!!」
「ヴェンデル、アレをご覧なさい。ワタシが大丈夫って言った通り元気でしょ」
吼えるアヒムを無視するのはルカ。他の随伴は弟エミールに、義息子ヴェンデルだ。
その、はじめはこんなに大所帯の予定ではなかったのだけど、途中であるところに寄って行くと話したら、ヴェンデルも絶対行くと言いだして、国外旅行ならとエミールも乗り気になってしまった。
オルレンドルとラトリアの領土境は緊張状態だし、遊びではないと説得したのだけど、二人はならば尚更、と言い募ったのだ。
「今後旅行できる可能性がないんだったら、僕は尚更、僕の故郷を滅ぼした国の実態を見ておく必要がある」
「ヴェンデルの無茶は俺が止めるから、姉さんと陛下は安心してください。それにラトリアにはかの有名な闘技場があると聞きますから、是が非でも見ておく必要があります」
ヴェンデルは固い決意を秘めて、エミールは……なんなのだろう。ヴェンデルを案じてるのは事実だけど、瞳の奥にそれ以外の欲望に燃えている気がする。
二人を連れて行くなら護衛としてルカも必要だ。ジェフも希望してくれたけれど、今回はお忍びなので、彼には私の代わりに活動するエレナさんを守ってもらう役目がある。見た目を魔法で誤魔化せるといっても言動は違和感が出てしまうものだし、マルティナが外れてしまうなら、彼女に助言をできる人が必要なので置いてきたのだった。
シスはどんな魔法を使っているのだろう。空を飛ぶ黎明の頭の上で、悠々自適に腰掛けながら足を組み直す。
「いやはや、長い間生きてる僕にしたって、まさか竜に乗って旅をするなんて経験は初めてだ。オルレンドルのせいでクソみたいな人生でも、何が起こるかわかったもんじゃない、長生きしてみるもんだね」
「嫌味のつもりか?」
「つもり、じゃないぜライナルト。嫌味を言ってるんだ」
「ならば先代達の肖像画にでも向かって話しておけ。絵画であればその減らず口も黙って聞いていよう」
嫌味の応酬が始まるかと思ったが、シスは気分が良いのか、ライナルトの相手を切り上げ眼下の景色を見渡す。
人目を避けるためにオルレンドルを発ったのは完全に陽が落ちてからだ。
私の目には月明かりに照らされた程度の景色しか見えないものの、シスには事細かにすべてが見えているらしく、感嘆のため息を漏らす彼に、そっと声のようなものが頭に響いた。
『嬰児、落ちては危ないですよ』
黎明が語りかけると、シスは自慢げに鼻を鳴らす。
「落ちちまったら、せっかくの絶景が台無しになるだろ。そんなヘマするもんか」
『わたくしが頭を動かしてしまうかもしれません』
「僕なら問題ないって。きみの好きに飛んでくれよ」
黎明はこれだけの人数を背に乗せるのは初めてらしいけど、問題なく飛行している。背中側が騒がしいのも微笑ましく感じているらしく、落ちてしまわないように案じているくらいだ。
『わたくしのあなた、体はどうですか』
「シスに助けてもらってるから平気。れいちゃんは?」
『やっと眠気が覚めてきました。でもこれほど長く飛ぶのは久方ぶりですから、うまく飛べているかどうか……』
「大丈夫、ずっと安定してるし、すごく楽しいから!」
黎明は長時間の飛行がかなり久しぶりらしい。くわえて魔力補給が私経由なので、様子見をしながら飛んでいるけれど、私の状態に詳しいルカとシスのおかげで、いまのところ支障はない。
長時間飛んでいると寒さで手足がかじかみそうだけど、そこはシス達の出番。『趣』が必要とかで風はガンガン当たってくるけれど、服の中の温度は保たれている。
初の飛空旅行、人間側も慣れてきたところで黎明が皆に告げた。
『慣れてきたので、すこし飛ばします。嬰児、よく守ってあげてくださいね』
私は彼女に騎乗したことがあるので最高速度は知っていたけど、他の皆はそうじゃない。
胸に押し付けられるような重力の圧迫を感じると、驚きと、一部からは喜びの声が上がり、体感的にも速度が増して行く。
『こちらの方角で良いのですね、嬰児』
「ああ、間違いないよ。このまま真っ直ぐ進めばコンラート領だ」
シスが口にした名前にヴェンデルの表情が強ばり、私もまた胸のあたりの服を掴んだ。
ラトリアに向かう前に、まずはコンラートに行く。
義息子が今回の同行を強く望んだ理由はこれだ。
もう、誰もいない場所への里帰り。
しばらく帰れないと思っていた故郷へ、いまから私たちは向かうのだ。