91.尊き方を前にしては
オルレンドルの謁見の間は、私にとっていまだ馴染みの薄い場所だ。
歴代の皇帝が使用していただけあって人々が列挙して詰めることのできる場の天井は高い。豪華なシャンデリアが優美な光を放って部屋全体を煌びやかに照らし、床は美しい大理石が敷かれ、その反射で光がさらに増している。
部屋の壁にはオルレンドルの歴代皇帝を称えた壁画がかけられ、間には騎士たちの鎧や剣が飾られ、厳かな雰囲気に一役買っていた。
広い間を横切る通路の奥に儀式的な椅子が配置され、中央にオルレンドル皇帝ライナルトが座していたる。隣の椅子には私が座り、どちらも正装に着替えている。
横から見る夫の顔は精悍、といっても差し支えない。思考に耽る横顔を眺めていたら、不意に目線が合い、彼の考えを肯定するように微笑んで頷いた。
ここには宰相リヒャルト・ヴァイデンフェラーをはじめとし、補佐官のモーリッツ・ラルフ・バッヘム、オルレンドル高官や外交官諸氏とそうそうたる面々が揃っているも、隣国の特使を前に彼らの表情は固い。
無理もない。ライナルトから話を聞いていたはずの、本来私たちと“対等”な話し合いをする予定だった精霊が、ファルクラム領で怪しい動きを見せている大国ラトリアの特使を名乗ったのだ。
彼らはフィーネや黎明のお陰で精霊の存在を認識しているも、この精霊は彼女たちとはひと味もふた味も違う。
政に興味を示さないフィーネや、人に好意的な黎明と違い、星の使いは人に対して明らかに侮蔑の類の眼差しがあった。
あからさまに戸惑いを表に出さない宰相といえども、彼の名乗りには口を閉ざしたし、モーリッツさんすら眉をひそめた。
彼の要件は単純だ。
「して、返事は如何か」
「今後大陸に移住するという精霊の分配を決めるための会談を、ラトリアにて行うという要件か」
「左様」
ライナルトが足を組むのは、取り繕う必要もなくなったからか。
冷笑と共に精霊へ告げた。
「ふざけているな」
星の使いの来訪は会談への参加を促すものなんだけれど……ライナルトが侮蔑を隠さないのは、当然、星の使いの立場が変わってしまったせいだ。もとより私たちは彼とラトリアが手を組んでいたことは気付いているし知っているけれども、多少なりとも見逃していたのは、彼がまだ『精霊郷の代表』としての立場を取っていたからだ。
明らかに何かを企んでいる相手の目論見に「参加します」なんて言えるはずがない。それに改めて会談の場を設けるのであれば、私たちは正式に外交官を立てて任せるつもりだった。ヨー連合国もそのはずで、このことについてリヒャルトが苦言を呈すれば、星の使いはこれを否という。
「此方はラトリアの特使ではあるが、変わらず精霊郷に生きるものたちの総意たる存在だ。ゆえに貴国への参加を願いたい」
「ラトリアに下った者が、この身を隣国に預けろと言うのが笑い話でなければなんと言う」
「不服と申されるのであれば、不参加でも此方は構わない」
「ほう」
「その場合は此度の参列者のみで精霊の分布を決めさせてもらう」
彼の言葉は交渉より脅し文句の方が正しい。私は外交に詳しくないけれど、彼もまた特使には向いていないことがよくわかるし、同時に危ぶんだ。きっとライナルトやリヒャルト、モーリッツさんもわかっている。
外交を気にせずこうも強気に出られるのは、相手を格下に見て、確実な勝算を見込んでいるためだ。
自らの国を舐められているライナルトはさぞ不快だろう。
「もし私が不参加を決めた場合、精霊とやらから得られる恩恵はどうなる」
「其方が他国を通じ技術を得るのは自由だが、我らから与える知識はない」
本来交渉事に赴くはずだった外交官が額に汗を流している。
星の使いは、ひいてはラトリアはオルレンドルと戦争となっても構わない。これはそういう態度なので、全員が冷や汗を流している。
彼らのやりとりを前に私が感じるのは、『向こう』と『こちら』の違いだ。
断るのは簡単だけれど、そうなった場合オルレンドルを待っているのは避けられない侵略戦争になるのに、ライナルトはあえて質問を続けている。『皇帝』だったら迷う間もなくはね除けていたに違いないから、これは大きな違いだった。
星の使いはちらりと私の方をみた。
「それと、我が王の要請だ。オルレンドルのカレン皇后にも我が国においでいただきたい」
すかさず割り込んむのはリヒャルトだ。
「オルレンドル宰相として承服いたしかねる。皇后陛下はライナルト陛下の伴侶にしてオルレンドルの母とあらせられる御方。特使殿は人の世における皇后の役割を存じぬか」
「無論、承知している。だがこれは我が王の要請でもある」
「ならば……」
「心配せずとも、命を奪う気はない」
誰もが危惧していることをあっさり言っちゃう星の使い。ここまでくるといっそ清々しいかもしれない、と私も口を開いた。
本来私と特使が直接口を利くには段階を経る必要があるけど、相手は精霊だし……。
「特使殿は、ヤロスラフ王がわたくしもラトリアにお招きくださるとおっしゃていると伝えてくださっていますが、いったいなぜわたくしが必要なのでしょう」
「我が王は其方と話がしたいそうだ」
「その内容は?」
「此方にはわかりかねる。して、返事は」
「わたくしには答えかねます。すべては陛下の御心次第でございますから」
嘘なのはわかっているけれど、にっこり笑って完了。
星の使いの態度は一国の王を王とも思わない不遜さだけれど、それでも首根っこを引っつかまれて追い出されないのは、ラトリアの特使として以外にも、彼自身の立ち居振る舞いに優美さがあるからだろう。近寄りがたい神秘の一端が雰囲気として表れている。
私の返答に星の使いは静かに息を吐き、ライナルトに向き直る。
「送迎については此方が手配しよう。無論、安全で確実な移動手段を用意するが、信頼できないというのであれば、もうしばらく考えていただいても……」
「いや、行こう」
あら、即決。
即断即決のライナルトにしては迷った方でも、神秘案件となればもっと時間がかかるはず。王がまた不在となれば国は不安だろうし……と思っていたらこれだ。
リヒャルトなんかはありありと驚いているけれど、特使と皇帝の会話は続く。
「では、皇后殿はいかがなされる」
「連れて行こう。私の目の届かぬところで勝手をされても困るのでな」
言外に、勝手に接触するなと釘を刺すも、星の使いも素知らぬ顔。会談や移動手段などを伝えると早々に引き上げようとしたのだけれど、最後に彼はこんなことを尋ねた。
「オルレンドル王よ。もし貴国が望むのであれば、我が王は其方にヨー連合国の土地を渡しても良いと考えているが……」
こんな案件、ヨー連合国の人が聞いたら憤死するんじゃないかろうか。手を組まないかという意が含まれた発言に場内の空気がいっそう冷ややかになるのを感じたが、夫はこういうときの判断は間違えない。
「断る」とすげなく断られた相手は引き下がろうとしたら、今度はライナルトが引き止めた。
「一つ確認しておきたい。我が皇后をラトリアの領土に招くならば、その身を守っている、人ではないものを連れて行っても良いと考えて良いな」
「――と、おっしゃるには?」
「黎明」
ライナルトが滅多に呼ぶことのない彼女の名前に呼応して、私の横の空気が変わった。
春風に似た、草原で佇んでいると遠くから風に乗って漂う花の香りが鼻腔をつくと、艶やかな藤色の髪の女性が隣に佇んでいる。
彼女が公式の場に姿を現したのはこれが二度目になるけれど、その姿を見たのが初めての人も多く、彼女がライナルトに頭を垂れたのもまた、人々のどよめきを誘った。
星の使いは黎明をまっすぐに見つめている。
ライナルトは彼女をこれだ、と言った。
「すでに離れようとも離れられぬ存在だ。連れて行かぬ選択はないぞ」
黎明は口を開かない。何かを待っている様子で皆が不思議がったものの、ライナルトが許可を出して初めて口を開いた。
「こんにちは、新しい星の子。わたくしはあなたを知りませんが、わたくしの知らぬ存在であっても、あなたの前の星は存じています」
「其方が明けの森の守護竜殿か」
「いまはもう精霊から外れていますから、ただの黎明です」
「だとしても、其方は尊き方だ」
彼の発言で判明したのは、彼の知る黎明も明けの森の守護竜殿だった点。星の使いはこれまでの慇懃無礼な態度を捨て、恭しく腰を折った。
「……お初にお目にかかる。天空を捨て、地に留まるもなお輝きを失わぬ希望の光。いにしえより命を守り続けてきた誇り高き明けの森の守護竜。此方は空に瞬く星の輝きを追うもの、あるいは星穹と名付けられたもの。まだ何者でもないものだ」
黎明、宵闇、白夜と来て彼だけ名前の雰囲気が違うと思っていたら、やっぱり本名ではなかったらしい。黎明の前では素直に名前を明かした。
「星穹……それがあなたのお名前?」
「先代が身罷る前に残した名であるが、此方はその名には相応しくない」
「それゆえに星の使い、ですか。前の星が、そうであれ、と祈りを込めた名であれば、それはすでにあなたの名前でしょうに」
「ありがたい。だが、そのお心だけいただいておこう」
彼女を前にした星の使いはただの好青年だ。
同じ精霊相手だとこうも態度が違うとはびっくりなのだけれど……それともこちらの黎明は、よほど偉大な存在だったのかな?