9.新しい名前
「吐いてしまってごめんなさい!」
「まったくよ。こいつの衣装、馬鹿みたいに高いのに洗濯代取られたらどうするの」
「本当に、本当にごめんなさい……!」
吐いたときに、差し伸べてくれていた服の袖を汚してしまったのだ。エルネスタの言うとおり、見るからに既製品ではない代物は高値であり、いまは上着を脱いでもらっている。
人様の洋服を吐瀉物で汚してしまった申し訳なさが、情けない声を上げさせていた。
袖は石鹸水に漬けたけど、果たして染みついた汚れがこの程度で落ちてくれるのか。ひととおりの家事はできても、細々とした生活の知恵には縁がない。
相手は柔和な笑みを崩さず、エルネスタを咎めた。
「エルネスタ、服を気にするより、具合の悪い娘さんを介抱せず放っておいた方が問題ではありませんか。それと私は守銭奴ではない。わざとでもないのに金など要求しません」
「わざとなら請求するんじゃないの。で、貴女も面白いくらい狼狽えるけど、近衛にゲロ吐いたからってしょっぴかれたりしないから、いい加減落ち着きなさいよ」
「まだ具合が悪いのでしょう。それなのに洗い物を押しつけるのはどうかと思いますね」
「吐いたらちょっとはスッキリするでしょ。二日酔いがそんな感じよ」
「エルネスタ、やはり貴女は男にもてない」
「あ?」
二人が砕けた態度でいるのも気になるが、困惑が解けないのはリューベックさんの性格が違いすぎるからだ。髪型と色が違うから視覚的には別人だと認識できるけど、顔が一緒なので脳が混同している。
あと吐いたからって具合は良くなっていない。相変わらず胃の不快感は続いている。
リューベックさんは優しく私を落ち着けようとしてくれていた。
「どうか服の汚れは気にしないで欲しい。貴女も具合が悪かったし、私も不注意だった」
「本当に……」
「これ以上謝るのはやめませんか。それよりも席について、温かい飲み物で口を潤すといい」
「いえ、エルネスタさんに用事だったんでしょうし、私は席を外して……」
「急ぎではないから気にしないで、まずは温まってからにしましょう。ここで飲んでおかなければエルネスタが貴女を放置するのは目に見えている。弟子部屋に暖炉はなかったはずだ」
「人を雑に扱うのはやめてもらえる」
「貴女は身内になると途端に厳しくなる人間だ。濡れ鼠の弟子に買い物に行かせ、数日寝込ませたのを私は忘れていない。その癖は直すべきではないだろうか」
身内認定してもらえてる?
「誰がその温かい飲み物を淹れるのかしら」
「エルネスタ。私は客人ですよ」
リューベックさんもとい、話しぶり的に別人だからヴァルターとしよう。
ヴァルターがエルネスタに負けじと返せば、驚くべきことに折れたのはエルネスタだ。気まずそうに湯沸かし釜からお湯を汲んで渡してくれる。
「薬飲んで大人しくしてなさい」
そう言って玉葱型の髪の一房を解くのだが、紐の一部がなにかの骨で作られた細工物だった。人差し指程度の小さな小さな筒になっていて、開けば油紙に包まれた丸薬が入っている。渡された二粒はとても苦いが、諭されて大人しく呑み込む。世話を焼く彼女にヴァルターが感心していた。
「新しく弟子が入ったと小耳に挟んでいたが、その様子では弟子といった感じがしないな」
「そりゃ弟子の名目で雇った家政婦だもの」
それを話してしまって良いのか。しかしエルネスタは構わず続ける。
「なんで“色つき”かもわかんないくらいしょぼい魔力量だから、たいした魔法は期待できないの。ほんとは弟子にするにも値しないけど、ちょっとした縁よ」
「だとしても新しい人を入れるとは。貴女も、よくエルネスタの元で働こうと思いましたね。破天荒な彼女の元では、大抵が三月も保たずに辞めていくというのに」
「そ、そんな早いんですか」
「有名な話だが、ご存じないのかな?」
「ヴァルター。その子かなりのワケありだから、深く考えない方が良いわ」
おや、と器用に片眉を持ち上げるヴァルターには、人懐っこい愛嬌がある。
表情の変化が多彩すぎて、本当に別人に思えてきた。
「機会があったらあんたの兄貴に紹介する。どうせ余計な噂を聞いて様子見に来たんだろうけど、そういう案件ってことで納得して」
「……ふむ? だが、それでも名前くらいは聞いておきたいな」
「名前を言ってなかったわよね。自己紹介を……どうしたの?」
驚きすぎて声が出なかった。
いくらか歴史が違っているのは承知していたが、私の見立てでは大きな振り幅があるのは転生か転移に纏わる部分だけだった。かなり変わってしまったのは近年のオルレンドルなんだけど、その中でも、これは特に違う。そんな話は聞いたことがない。
私だって向こうで『ヴァルター・クルト・リューベック』に調査を入れていたのだ。それでも彼に兄が居たなどとは初耳だった。
「ヴァルターさん。お、お兄さん、いるんです、か?」
これにヴァルターは喜色を浮かべた。
大の大人が、自慢に満ちた表情で胸を張ったのだ。
「もちろん。レクス・ローラント・リューベック。我が家の家長です」
「リューベックのレクスっていったら有名よ、知らないの?」
「なんと。兄を知らないとは……それは、意外だ」
知らない。
「なら、その御髪はお兄様と一緒の……?」
「……まあ、そんなものです」
金髪との違いが気になったから尋ねていたのだが、これにヴァルターはうっすら微笑むだけで、答えを濁した。うっすらと言っても『あの』リューベックさんと違って背筋が凍る恐ろしさはない。毒が抜けたと言っては失礼だが、まさにその表現がぴったりだった。
「次の宰相と名高いレクスも、存外知れたものなのねぇ」
「かもしれません。ですがレクスは変わり者なので、もしかしたら己を知らない人を喜ぶかもしれない」
「ああ、そりゃわかるかも」
「エルネスタさん。つぎの宰相というと、ヴァイデンフェラー、様の後継でしょうか」
「そうそう。ご老体も無理をされてるから……って、なんでそこは知ってるのに――」
「モ……バッヘムのモーリッツ様は?」
ここで二人は顔を見合わせた。エルネスタは明らかな困惑顔、ヴァルターは言って良いものか考えあぐねている様子だ。
「……エルネスタ、これはどういうことかな」
「うーん。その辺はちょっと説明し辛いわ。一応答えてあげてもらえる? 悪い子じゃないのは保証するし、責任は私が持つから」
「貴女がそこまで言うなら構わないが……」
そうして教えてもらった。
バッヘム家のモーリッツ・ラルフ・バッヘムは現在ある理由で官位を解かれてしまっている。皇帝陛下の不興を買った結果、彼も謹慎処分を受け入れたのだが、もはや宰相の地位は絶望的らしい。皇帝の強い怒りを買い、また彼も皇帝に言って譲らないためだ。そのあたりは二人の意見も変わらなかった。
「仲直りの芽は見えないわね」
「絶望的でしょう。噂をするだけでも恐ろしいから、誰も語りたがらない」
そのきっかけは……聞いてから後悔した。
かの地、トゥーナ領だ。
トゥーナ公が亡くなったと言われる地が滅ぶ直前、援軍を請われた際、真っ先に自ら兵を率いた者がいた。様々な理由から派兵を遅らせざるを得なかった皇帝だが、この命に黙っていられず、出兵したのがニーカ・サガノフになる。
そして支援したのが、モーリッツ・ラルフ・バッヘムだ。
ニーカ・サガノフの身柄はトゥーナ公同様にいまだ確認されていない。
ただ彼女が乗っていた馬は帰ってきたというから、つまり、そういうことだ。
「なんで、皇帝陛下の命を押し切って……」
「彼女のことは彼女にしかわかりません」
ニーカさんはもうこの世界にいない。
モーリッツさんはライナルトと仲違いしている。この事実が強く胸にのし掛かる。
あれ? だとすると、ここのライナルトって、ひとりぼっ――。
「フィーニス」
名前を呼ばれた。
元の名前が思い出せないから、新しく付けた自分の名前だ。
エルネスタは顎でヴァルターを指し、私も失礼にはっと顔を上げた。
「フィーニスです。名乗りが遅れて失礼しました」
「改めて、ヴァルターです。よろしくフィーニス、みたところ純粋なオルレンドル人ではないようだが、貴女も転化した“色つき”かな」
「似たようなものだと思います。たぶん」
「たぶん?」
「記憶があやふやなので」
記憶障害と意識の混濁で名前もまともに思い出せないのだと説明した。症状を鑑み、一般にはそう説明した方がいいと判断したのだ。これにヴァルターは驚いたが、なぜか咎めるようにエルネスタを見る。
「それなら様子見などしなくとも、レクスに相談してくれたらよかったものを。彼女ほど特徴的な人だったら、リューベックならすぐに家を見つけ出せたろうに、何故すぐに来なかったのですか」
「色々あるのよ、色々と」
「その考えは尊重するが……。フィーニス、何か困ったことがあったら、リューベックを訪ねてください。レクスは色つきを見捨てる人ではないし、こうして出会ったからには私も見捨てはしません。きっと力になれるはずです」
真剣に案じてくれるヴァルターに、エルネスタが揶揄いを向けた。
「なに、やたらその子には親切じゃないの」
「貴女と同じにしないでもらいたい。困っている人を見つけたら助けるのは当然だ」
「ああはいはい、この兄馬鹿」
お兄さんに懐いている……のかな?
兄弟関係が発生すると、こうも別人になるのか。あれよあれよと新事実が発生するから、その差について行けていない。
「ところでフィーニスって名前、前々から思ってたけど、呼びにくいからフィーネに変えていい?」
「好きにしてください」
「じゃフィーネね。フィーネ」
「はい。ならフィーネにします」
猫のシャルロッテの名前が呼びにくいから、いつの間にかシャロが定着していた記憶がよぎる。
これで私はフィーネだ。
リューベックの兄:書籍特典では存在自体は記載されています。名前は初出し。