89.あえて空気を読まない勇気
フィーネがこう断言すると、「やって」ではなく「やれ」の意だ。
彼女は椅子の上で体育座りをするように両膝を立て、チョコレートミルクのカップを口元に運ぶ何気ない動作の間に、私の爪先から全身にわたって熱い湯が流れるような感覚が襲いかかる。
「カレン!?」
いち早く変化に気づき声を上げたアヒムと、腰を浮かせたジェフをルカが制した。彼女は頭痛を堪えるように片手で頭を抑え、机の上で黒鳥が目を回しひっくり返っていた。
「マスターなら、急に魔力を流されたから身体がびっくりしただけ――なんだけど、手加減しなさいよ、アナタの力ってとんでもないんだから」
「気をつけたんだけど……」
「まだまだ配慮が足りないわ、おばか」
フィーネはルカに注意されたのが悔しかったらしい。ふてくされてチョコレートミルクを口に含むと、そのやり取りを聞いていたサミュエルが興味を示した。
「……そんなにすごい魔力なのかねぇ」
その途端、彼は上体を揺らして頭から机に昏倒しかけた。食器にぶつかる前に寸前で持ちこたえたけれど、顔色は蒼白だ。
そんなサミュエルにフィーネが小首を傾げて尋ねた。
「どう?」
「…………俺に魔力分けるなら、事前にひとこともらえるとうれしいですねぇ、お嬢ちゃん」
「感想は?」
「感服っす」
「よろしい」
褒めてほしかったらしい。
サミュエルは頭を叩きながら身を起こすけど、元々魔法使いとしても優秀な人だ。精霊の魔力でもすぐに慣れたようで、指を鳴らすとカップの紅茶で渦を作る。はしゃいでいるのは、彼もやはり魔法院の一員……私の友人の弟子だっただけあるのかもしれない。なお、お茶の渦はルカにすぐ元に戻され、ついでにデコピンを食らっている。ルカへは反撃や言い訳もしていなかった。
私は調子が落ち着くのを待って、ゆっくり意識を研ぎ澄ませた。呼び出すのは、いまなお私の奥深くで眠っている黎明だ。
黎明の名を呼び続ける間に、強制的に足された魔力が真綿で水を吸うようになくなり、気が付くと、フィーネの席に藤色の髪の女性が座っている。たおやかで優しげな風貌に、なめらかな布地で作られた衣。裾やスカートが重力に逆らい微かに浮いていた。
かつて受けた仕打ちの影響で、彼女の瞼は閉じられたままだ。それでも周りを視ることはできるのだが、まだ眠たいのか中々話さない。フィーネが痺れを切らし、顔をのぞき込んだ。
「ちょっと、起きなさいよ」
「宵闇……いえ、フィーネですね。これはどういうことでしょう」
状況も把握できておらず、周りに人がいるのに気が付いて深々と頭を下げた。
「みなさま、おはようございます。黎明、ただいま目覚めました」
「おはよう、れいちゃん」
「おはようございます、わたくしのあなた。その後の生活はいかがですか、わたくしのあなたの番と仲良くやっているでしょうか」
彼女と会うのは結婚式以来だ。黎明はみんなとひととおり挨拶を交わすけれど、フィーネには物申した。
「この強制的な目覚めはどういうことでしょうか。彼女に無理をさせてはなりませんよと教えたはずですね」
「そこはわたしが話すことじゃないの」
フィーネは指の一振りで使っていたカップ類を移動させ、もう出番はないと言わんばかりにお菓子に集中し始めた。
「わたくしのあなた、一体なにが起きたのです?」
かいつまんで説明させてもらうと、黎明の表情はどんどん曇り出す。
それはそう、流石の黎明だって精霊郷の精霊の全移住を提案されたなんて想像できるわけがない。
「これからは平和な時が過ぎるだろうと思っていたのですが……その、わたくしのあなた? こちらは随分と騒がしいのですね」
私もなんでこんなことになっているか聞きたい。
話の中で黎明が強く反応を示したのは青髪の精霊だ。特徴を説明すると、黎明は眉根をキュッと寄せてうつむく。
「その人物についてはわかりません。ですが、人の世に介入して、わたくしを探していたとなれば……」
彼女の心が揺らぐのは、悲しみ、破壊、果てない絶望の類を思いだしたからかもしれない。かつて味わった喪失へが伝わり、私の胸にも痛みを覚えさせる。
彼女は青い精霊の名前を口にした。
「蒼茫、でしょうね。彼の竜も、やはりわたくしの番だったのやもしれません」
だった、と悲しげに目を伏せるのは理由は以前"神々の海"で知ったとおりだ。
同じ世界に同一の者は存在できない。黎明が消失していない以上、こちらの黎明が既に亡き存在なのは明らかだ。蒼茫の反応を見ても疑いようがない。
私も『向こう』で皇帝にまみえたときは複雑だったから、彼女の気持ちはいくらかわかるつもりだけど、立ち直りは彼女の方が早かった。
「なぜいまになって姿を現したのか……その理由も気になるのですが、それよりも、あの子は本当に人と並び、人の姿を象っていたのですか」
「ええ、むしろ竜の姿の方がわからない」
「おかあさんが嘘を言ってどうするの。星の使いはおかあさんに関わりたくなさそうだったし、あなたに会いに来たのは独断なんじゃない?」
「蒼茫が……」
黎明はそれこそが信じられないと言いたそうで、私も気になる発言を拾っている。
「その感じだと、れいちゃんの旦那さまって人の形をとったことがないの?」
「一度たりともありません。蒼茫は竜の例に漏れず、矜持がとても高かった。わたくしのように守護者として任されるには長い時間が必要で……人と理解し合えるとは、とても……」
「つまり人間を見下してるのね」
わかりやすいけど反応に困る補足を行うフィーネ。
黎明は竜についての生態を話し出すのだが、ここで真剣に耳を傾けたのはサミュエルだ。
「竜は精霊でも本能が強い生き物です。足並みを揃えるには相手に相応の力を求めるでしょう。こう申し上げるのは失礼ですが、爪を持たぬ人と協力するなどあり得ません」
「……ちょいとそのあたりの話、もうちょい詳しく頼めますか。顧問……皇妃殿下からはいくらか聞いてますが、竜本人からの発言ってのはまた別だ。魔法院に伝えたい」
「むしろ、わたくしからお願いしたほうがよさそうです」
「ってえと?」
「蒼茫はこの国と相対する者に並び立っている。ならば、あなた方はもう少々、わたくし共について知っておくべきですから」
彼女が落ち込む必要などないのに、申し訳なさそうに胸の前で手を組み合わせる。
「蒼茫は若くあれど、その気位の高さに見合うだけの力を有していた。あなた方の言葉に直すなら、同盟の契りを交わしていた眷属も多くいます」
「喧嘩すると力を貸すぞーって大軍が押し寄せてくる可能性があるってコト」
「……ええ、そう。フィーネの言うとおりです。わたくし達と敵対する可能性が生まれた以上、あなた方はすぐさま対策を練るべきです」
黎明の番だけあって、思ったより面倒な相手らしい。
彼女が私たち以上に警戒するのは、自身が人間に害をもたらした経験からだ。でもそれを口にすることはできないので、もどかしい思いを抱いているのは間違いない。
竜対策についてはサミュエルと魔法院に任せるとしよう。
ただ、こうして彼の正体がはっきりした以上、いよいよ次の疑問に悩まされる。
……あの蒼茫の番である、こちらの黎明が亡くなった理由は何だろう。
『こちら』の『宵闇』は精霊郷に反乱していない。従って黎明が死ぬ要因は別にあるはずだけど『明けの森の守護竜』が簡単に負けるとは思えない。
この答えが白夜拘束の問題にも繋がっているのではないだろうか。
疑問が疑問を呼ぶだけで精霊郷についての話題は進展しようがないのだけど、落ち着いた頃合いを見計らいでマリーが顔を上げる。
ここまでの話題、彼女にはついていけない話があったはずでも、まるで気にしていない。興味を示したのはまったく別の話だ。
「ねえ、黎さんの旦那様って年下なの?」
一気に空気が変わってしまった気配がする。
どこか心が浮き立った軽やかな問いかけに身を乗り出したのはルカだ。爛爛に輝く目にアヒムが止めようとした。
「おい、いまはそういう話はあとにしろ。仮にも国事に絡む話なんだから、もうちょい真剣に聞いとけ」
「でも敵を知るには相手を知れっていうじゃない」
「知るにも意味が違うだろうが」
アヒムはジェフやマルティナに救いを求めるも、ルカは止まらない。
「嫌なら嫌っていえばワタシは引き下がるし。大体アナタたちだって、黎明が蒼茫をあの子って言ってたとき、ちょっと反応してたじゃない。ね、マリー」
「全員だったわよね、私も見てた」
否定はしないけど口にしなくていいの。
それに黎明の「番」の話は繊細な問題だ。亡くした番の話題は彼女の子供達にも繋がってしまうのだけど、彼女は答えてしまった。
「……蒼茫がかなり若いのは事実です」
居住まいが悪そうに身を捩らせたので、マリーとルカがきらりと瞳を光らせた。
私事ですが、筆者書き下ろしの涙龍復古伝 暁と泉の寵妃(角川文庫)発売まで1週間切りました。
ちょっと落ち着きなくそわそわしています。
涙龍の霊薬「涙石」を巡り、涙龍に近しいため部族を滅ぼされた少女と、龍を求める不老不死の男が出会い、宮廷の陰謀等を乗り越える物語。よろしくお願いします。