85.精霊郷の異常
ここが水底か、と聞かれたら実は私も理由はわかっていない。
なぜならあれからしばらく後に、私はライナルトに見守られながら眠りにつき、たったいま目覚めたばかりだからだ。だから感覚としては、深い眠りから唐突に目覚めた感じ。寝起きで頭の動きは鈍いけれど、水底の砂に足を付け立っている自身に驚いた。
薄暗い、けれど澄み通った水の中にいる不思議な視界。目の前ではゆらゆらと尾ひれを動かす魚が泳いでいて、気分は水族館だ。頭上からは太陽の光と緑が差し込んでいたけれど、この湖の深さは相当あるらしく、水底まで光は届かない。なのに私の目は周囲の状況を把握しているから、不思議の一言に尽きる。
「水の中なのに息ができてる」
よくよく考えたら肉体は現実側で眠っているのだから、かなり間抜けな発言だ。
寝ぼける頭でかぶりを振って、思わず周囲を見渡した。
「ここが精霊郷なの?」
「うん。向こうでは僕の半身は後処理があるって消えてしまったから、その隙を突いて、僕はお妃さまを隠しながら精霊郷へ続く門を潜ったの」
「ばれる心配はなかった?」
「……半身は、僕のことは気にしてないの。勝手に帰らないで大人しくしてろって言われてたけど、僕の動向までは気にしてないから」
寂しそうに呟くも、すぐに笑顔で隠して私の手を引いた。
「行こう。白夜さまはこの先にいるわ」
もしかしたら一筋縄では行かないと思っていたから、簡単に事が運んでいて驚いた。悪いことじゃないのだけど、なんとなく、これまでの運の悪さから、もう一段階何かあると思っていたし……。
しかし私の懸念を吹き飛ばすように、スタァは胸を反らし自慢げに鼻を鳴らす。
「スタァは、よく白夜の居場所が見つけられたわね」
「僕も水中とは思わなかったけど、白夜さまが住まいを変えず、ずっと生まれ故郷にいるのは有名な話なの。運も良かったし、すぐにたどり着けたわ」
微笑むスタァの発言はやや不可解だ。
一歩踏み出すと、砂が水中に浮き上がった。
「運が良いってどういうこと?」
「精霊郷じゃ空や水の中にも仲間がいるから、お妃さまが見つからないためにも、できるだけ精霊に見つからないようにしてたけど、ほかの精霊がいなかったの」
けれども、どうして水底にいるはずの精霊がいないのか、スタァはずっと不思議そうだ。それに周囲が何故か静かだと気になっているけれど、私がいるから自由には動けない。彼はしきりに周りを気にして、時折不安がるように眉を顰めている。
「私には精霊郷の違いがよくわからないのだけど、そんなにおかしいの?」
「なんか、静かすぎる気がするの。普通ならどこにいたって声が聞こえてくるはずなのに……」
「誰か喋ってるとか?」
「ううん……声と言うよりは、命のきらめきみたいな……ひとには感じ取りにくいかもしれない」
精霊には同胞の気配が感じ取れるらしく、感覚的な話を教えてくれるけど、いつかのフィーネと同じく人の言葉にたとえるのは難しいのか言葉はたどたどしい。それでも一生懸命説明する姿はどこか楽しそうで、だからこそ少し不思議だ。
「スタァは話すのが好きなのね」
自分でも気付いていなかったらしく、ひどく驚かれた。
この子は半身に頼まれたからといった理由以外でも、怖がってでも自分なりに必死に話しかけてきている。応えれば嬉しそうに寄ってくるし、つたないなりに歩み寄ろうと努力していた。怖がるなりに、あのライナルト相手にああまで頑張っていたのも、半身への献身意外に、交流を楽しんでいた節があるのではないかと思っていたのだ。
こんなことを話せるのも、いまはライナルトがいないためだろう。そんなことをつらつらと喋っていると、スタァも思うところがあったのか、恥ずかしそうに俯いた。
「僕、仲間ともあんまりお喋りしたことなかったから、お話しできたのが嬉しかったの」
「……ここにいた間は、仲間とは会わなかったの?」
「会えないの。僕はここよりも小さい……もっと深い深い森の奥にある、泉の底で眠ってたから」
それはスタァの生い立ちだ。スタァは黎明や白夜には敵わないけれど、私が思うよりも長生きしている。『大撤収』の頃には生まれていたらしいけれど、精霊郷では若い部類だし、スタァは幼すぎてその頃の話を知らないとも言われた。
「僕、活動はほとんど半身に任せて寝ているのが大半なの」
「それはまた、どうして?」
「半身の邪魔になりたくなかったから」
スタァと星の使いは、生まれつき強い精霊じゃなかったらしい。それどころ力すら弱い部類で、下から数えた方が早かった。スタァはそのことを悔いたことはないけれど、星の使いはそうじゃない。彼は上昇志向が強く、とにかく弱い己が嫌いだったらしい。スタァはそんな彼について、こう漏らしている。
「僕にはわからないのだけれど、半身は、ただ生まれた姿で過ごすだけでは許せなかったの。精霊をよくするために、もっとよくあるために、導く必要があるんだって言ってた」
「だからってスタァが眠らなきゃならない理由がよくわからないのだけど……」
「僕はのろまだし、弱いわ。隠れるくらいしか取り得もないし、どこに連れて行ってもらっても、いつも笑いものになっちゃう。半身にも、僕が隣にいたら恥ずかしいから眠った方がいいって言われちゃった」
「……彼に言われたから決めたの?」
「うん。彼は僕のことが大事って言ってくれたから、そうしたの」
きらきらとした眼差しで頷き、すかさず「眠るのは嫌いじゃないし」と付け足す。
「半身は僕に心を閉ざすけど、寝ていると、時々起こしに来てくれるの。話はしないけど外の景色を見せてくれるし、起きたときは森の動物が傍にいてくれる。寂しくはないわ」
他にもスタァは、あの疑似空間に連れ出されるまで殆どを眠って過ごしていたこと、そのため活動時間は、実年齢の半分もないと教えてくれる。
……もしかして、それが二人の成長に差がある理由だろうか。
さらにスタァはぐっと手の平を握り込み熱弁した。
「僕の半身はね、小さな小さな欠片から議会にのぼりつめたすごい精霊よ。そうじゃなかったら、人界と精霊郷の狭間に人の心を集めるなんてできるはずないの。今回のお役目だって、みんなのためにこなせるはずなんだから」
スタァがこうまで言っているので、『星屑』なんて呼び方を放置しているのがいただけないけど、悪い精霊ではない……と思いたい。とはいえ私はあの精霊に喧嘩を売るような形になってしまったし、向こうも良い気はしていないだろうから、次に会うときに、友好的に接することができるのかは考え物だ。
スタァにとっての身内は星の使いだけで、接触していた仲間も多くない。そんな生い立ちだったから「必要だ」と言われて連れ出されたのなら、確かに必要以上に意気込むし、失態を見せたくないとも思うだろう。
ありもしない頭痛を覚えたのは、かつてのフィーネ――というより宵闇を想起したせいだ。
「……ねえ、気を悪くしないでね。半身を持つ精霊って、大体片方が分かれている印象なのだけど、皆そんな感じなの?」
「ううん。ふつうは一緒にいるのが当たり前」
「なら精霊は半身……人で言う双子の存在が当たり前?」
「そんなことないわ。対を成す場合は、だいたいがそれぞれに役割があるの。僕たちもそうよ」
「あら、だとしたらスタァにも役目があるのよね。ふたりのもつ役割はなんなの?」
尋ねてみたけれど、スタァは恥ずかしそうに顔を赤らめて足をはやめてしまう。私も引っ張られて歩を進めると、少年はある場所を指差し叫んだ。
「白夜さまはあそこよ、力の流れを感じるわ」
目をこらせば、遠くに蔦に格子状で覆われた球体を見つけた。蔦の中に光を内包した水と小さな影があるのだけど、中では長い髪やドレスの裙がうねっている。蔦の隙間は大きめで、段々と白夜の姿が見て取れるのだけど、私も、そしてスタァも距離を詰めるたびに足の動きが鈍る。
その姿が露わになると疑問が戸惑いに変わり、スタァの小さな唇から呟きが漏れた。
「どうして?」
私も戸惑いが隠せなかった。思わず走り寄り、蔦の隙間を広げて内部に目を凝らす。
「白夜……白夜!?」
思わず叫んだのは彼女の姿が異常だったせいだ。なぜならその姿は眠っているというより、囚われていると表現する方が近い。手足は蔦に拘束されているけれど、蔦自体も地面に直接繋がって強固に彼女を捕まえている。白夜の存在は弱々しく、明らかに衰弱した様子でうっすら瞼を持ち上げた。
彼女ははじめ、私たちをうまく認識できなかった。
まるで童女のように、唯一自由な首を少しだけ傾け、口からごぼりと気泡を吐き出す。
「星の……か?」
はじめにスタァを認識し、次になぜか私を知っている様子で言った。
「汝は……」
……私を知っている。
彼女は続きを喋ろうとしたけれど、唐突に俯き、苦しそうに咳を繰り返す。まるで重い病に侵された病人が、唐突に動かされてしまって苦しむ姿のようだ。痛々しい姿に力を込めて蔦を剥がそうとするも、意外に強度があって上手く行かない。
絶対に眠りについているなんて姿じゃない。
スタァも手を貸してくれようとしたら、制したのは白夜自身であり、慌てて止められた。
「やめよ、それに触れてはならぬ」