84.朱に交われば赤くなる
私はいま、とても悪い大人になろうとしている。
夫は不快そうに探るような視線を寄越すも、私はスタァの髪を撫でて涙を拭う。
少年は必死に指を数えて計算していた。
「ええと、時間、時間は……」
「焦らないで」
「でも、上手く計算できなくて、えっと」
打算があっての行動だけど、泣き止んで欲しいのも本当だ。
ライナルトはこの子を毛嫌いしているけど、私はこの子が好き。滅多に姿を現してくれないけど、それはライナルトに斬られるのを恐れているんじゃなくて、私たちの時間を邪魔しないために気を遣っているだけだ。星の使いの頼みもあるけれど、ここで快適に過ごせるよう計らってくれているのはスタァだった。
「ね、私はこちらに呼んでくれたことを嫌だったとは思わないの。だから怒ってるわけじゃない。だから慌てなくていいし、ちょっとくらい計算が間違ってても構わないの」
ライナルトの眉間の皺が深くなったけど、でも、実際そんな感じだ。現実側で誰よりも皆に必要とされているのは皇帝陛下の方。皇妃がいらないとは言わないけれど、少し遅れて目覚めるくらいだったら彼は上手に私の不在を繕ってくれる。
――だから、探りたいのは別のこと。
私が怒ってないと知ると、スタァは目に見えて安心し、ライナルトからは隠れるようにそっと教えてくれる。
「さんじゅうにち、くらい」
「あら、思ったより早いのね」
「そうなの?」
「だって私がこちらにくるには、もっと時間がかかったから」
「それは僕もこんなことするの初めてで、手探りでやってたからなの。いまはちょっとだけコツが掴めたし、集中してがんばるから、そのくらい……」
スタァは初めて会った頃のヴェンデルよりも幼い見目だ。ふわふわのくせっ毛をつまみ、毛先で頬を掻きながら尋ねた。
「待ってる間、私はどんな感じになる?」
「僕が隠すわ。ここにいてもいいけど退屈だろうし、眠っててもらう方が良いと思うの。そうしたら次に起きたときには、現実でちゃんと目覚めてる」
この世界の仕組みが気になるところだけど、そこは大した問題じゃない。内緒話を続けた。
「私はあなたがやったことを隠すことについて協力してもいいと思ってるけど……」
「……いいの?」
「ええ、向こう側で頑張りすぎてしまったから、少し休んでもいいかしらって気分」
ちらりと見た夫は機嫌が悪いけれど、一緒に目覚めたところで、溜まった仕事に追われるのはわかっている。それこそ個人的な時間がなくなってしまうくらいには忙しいはずで……。それだったら、私は落ち着くまでサボらせてもらおうかしら、と、頭を過ってしまったのは否めない。そのくらい皇帝陛下不在の代行は大変だった。わずかとはいえど、誰もいない二人きりの時間はここで幾ばくか取り戻せたのだから、少しは気分も持ち直している。
なにより、調べなければならないことがある。
「だけどその前に、ちょっとだけお願いというか、確かめたいことがあるの」
「……どんなお願い?」
「私っていまは心だけの状態なのでしょう? 本当の精霊郷に連れて行ってもらうことはできないかしら」
我ながらトンデモな提案をしたとは思っている。その証拠にびっくり、と言わんばかりにスタァは目を見開き、何度も口を開閉させている。
私は表向きだけ、申し訳ないと言わんばかりに目を伏せた。
「星の使い殿やあなたを疑いたいわけではないのだけど、これまで隠されてしまった秘密を考えると、私たちはどうしても星の使い殿を信じきれないところがある」
「そんな。僕たちは信じてもらえてないの?」
「信じたいとは思ってる。だけど、どうして私たちに接触してきたのが星の使い殿だけで、他の精霊がいないのか。そもそも精霊郷に呼ぶわけにはいかなかったのか、私たちはなにもかも隠された状態で話を進められている。そう思わない?」
「それは……」
「スタァ、私はね、あなたの半身を信じたい。争いたくないから、ちょっとだけ精霊郷を見せてほしいの。それとも人を連れて行ってはいけない法でも精霊郷にはあるの?」
そう言うと、スタァは明らかに揺らいだ。
端的に言って、すごく騙されやすい子だ。もしかしてスタァは人と話したことが滅多になかったのかもしれず、純朴な子供を騙している気分になる。
いえ、実際詭弁を弄しているのだけれど……。
「僕たちは勝手に外に行っては行けないとは言われてたけど、人が来てはダメかは知らない……というより、そんなのはやったことがないし、聞いたこともない」
「難しいのね。なら、無理は言わないけど、スタァは星の使い殿とヤロスラフ王がどんな話をしていたのかを知らない?」
うかつな質問だったかしらと思ったけれど、心配は杞憂だった。
「ラトリアの王様は半身と半身の使役精霊がお世話しているから、僕は教えてもらえないの」
「……三国の扱いは平等のはずだが、やはりラトリアだけ別格か」
「へーか、違うの。きっと何かワケが……」
思わず口を挟んだライナルトに言い繕うとするスタァ。
ひとまず補足するために私が口を開いた。
「スタァ。この人は怒っているのではなくて、何か企んでいるのかしらと疑っているだけだから」
スタァような精霊もいるけど、そちらは星の使いの指示のもと、別大陸の人間の監督が主だ。彼らは星の使いの指示は聞くけれども、スタァとは仲が良くないし喋らない、と寂しそうに言われてしまった。ほぼ蚊帳の外状態と聞いて、私はつい疑問を口にした。
「精霊同士、もっと協調性を持っても良いのではない?」
「仕方ないの。僕は弱っちくて……なんで僕が半身の半分なのかも、みんな疑問に思ってるくらいだから」
ひょっとして、スタァは私たちが考える以上に半身や周囲から邪険に扱われていたのかもしれない。
星の使いに黙って行った行動も、半ば暴走が引き起こしていたようなものだし、努力が空回りしているのも頷ける。
けれど星の使いは、何故半身を無下に扱うのだろう。私は純精霊を白夜と宵闇しか知らないし、精霊の半身同士はもっと仲睦まじいものと考えていた。
「星の使い殿の半身であるあなたなら知ってるかしら。どうして星の使い殿は私達を精霊郷に集めなかったの?」
「わ、わからないけど、きっと事情があったのよ」
「人界と精霊郷を繋ぐ『門』はあるのよね」
「もちろんよ。世間に疎い僕みたいなちっぽけな精霊でも『門』の存在は知ってるわ」
「その門を使って私を連れて行けない?」
「こ、『心』だけだから、生身より簡単だと思う」
でも流石に精霊郷に連れて行って! なんてお願いは簡単に受け入れられないのか、良い返事は得られない。しかしスタァにとって、星の使いが信用されないのは認めがたい葛藤もある。
「お妃さま、半身を信じてはもらえない?」
「残念だけど、できないの。ごめんなさいね」
「僕はへーかやお妃さま達が好き。それでもだめ?」
「私もあなたが好ましいと思ってる。だから個人的には信用したいけど、それを国を率いる人の答えとしてはならないの」
「人の世界は難しいのね。そういえば、僕の半身も個人と率いる者としての考えは分けなきゃって言ってた気がする」
困り果てるスタァは、かなりの時間を思考に費やした。
安易にできると言わないだけ誠実なのだろうか。次第に頭を抱えるようにしゃがみ込むようになってから、私に尋ねる。
「あなたは精霊郷にいって何が見たいの?」
「見たいというより、会いたい精霊がいるという方が正しいかしら」
「……だれ?」
「白夜」
その答えに、ぱちりとスタァは目を開く。
唇は「ああ」と小さく呟きを漏らして言った。
「……お外を見て回りたい、だったら同胞や半身を誤魔化すのは難しいけど、白夜さまだったらできるかしら」
「本当?」
「たぶん、だけど……僕がお妃さまの心を隠すのは変わらないから、そのまま心を連れて、ちょっと『門』を潜って精霊郷に行けば良いだけだし……」
「私が帰れなくなる事態には陥らない?」
「それはない、と思う。それに白夜さまは人が好きだし、どんな精霊にも耳を傾けてくれる御方だもの。それはいまも変わってないって聞くの」
「うんうん、なら決定かしら。私たちがあなたの今回の行動を見逃す代わりに、私を精霊郷へ……」
「カレン」
朗報に顔を綻ばせる私に口を挟んだライナルト。彼は私が何をやろうしているのか探るために黙っていてくれたけど、実行を容認してくれるかは別なのだろう。
ライナルトの右頬を押しに行くと、にっこり笑顔で言い切った。
「いやだ、ちょっと帰りが遅くなるだけじゃないですか。ちょっと寝坊しますから、あなたはお仕事を済ませて、私が休める環境を作って待っててくださいな」