80.信頼には程遠く
それは宵闇の対になる、かつて大撤収を率いた精霊の王の名だ。
ここで初めて「星の使い」の表情に変化が生まれ、干ながらも動揺を示した。
つぶさまで観察の目を離さず、見つめ続けていると、相手は落ち着いた呼吸で見返してくる。
「……どこでその名前を知った、とは言わぬ。貴女様は我々の見立てが間違いないなら、神々の海より帰還された方だ。稀なる御方ゆえ、我らすら与り知れぬ事情を抱えておられる」
「それをご存知なら話は早い。では答えていただけますか」
「何故」
「わたくしはあなた方が、なぜこのような回りくどい手段を用いているか、いまだ満足する答えを得ておりません」
「回りくどい、とは」
「白夜ならいちいち呼び出しせずとも、人界を訪ねるでしょう?」
疑問の眼差しを向けてくるライナルト含め、軽く説明する。
彼女は昔起こった「大撤収」の際、精霊側を率いた最初で最後の精霊の王様役だった、と。
だんまりを決め込んでいた星の使いは、嘆息をついた。
「すでに白夜は役目を降りている。いまは此方が人と精霊の繋ぎ役だ」
「彼女とは個人的に話してみたいことがあります。呼べますか?」
「……生憎と」
「理由は?」
「話す必要はない」
「語らぬならば結構。次へ行きましょう」
もちろん納得してない。
けれど良くも悪くも月日の流れに鈍感な精霊側の体制が容易に変わるはずないだろうし、白夜が代表を降りた理由が気に掛かっていたけど、この話題を引っ張り続けるつもりはない。
あまり話したくなさそうな星の使いに首を傾げた。
「あなたはラトリアやヨー連合国の質問には出向いてまで答えてくれているようですが、オルレンドルにはあまり応えてくれないと聞いています。わたくし共とは話したくありませんか?」
「そのような事実はない」
「ならよかった。オルレンドルだけ扱いに差があるなんて、あって良いはずがありませんからね」
「無論、差などつけていない」
「そうでしょうか」
星の使いは、これまで会った精霊の中でも特に人間臭さを感じる。
「あなたがたの事情は考慮します。大陸どころか、世界規模で起こる精霊の帰還とあらば国の混乱は必須。不必要に国を乱すような真似はしないと信じたいのですが、であるならば、わたくしは何故、と問わねばならない」
夫を見れば、そっと頷き了解をくれる。
「なぜ時間の経過を誤魔化し、各国の要人を長時間拘束しているのですか」
ライナルトも腕と足を組み尋ねていた。
「現実においてラトリアが我が国に不必要に干渉を成そうとしていることは、我が后が確認している。少なからずヨー連合国において、混乱が生じていることもだ」
「これはあなた方の集合によって被った被害も同然、知らなかったとは言わせません」
腰を浮かそうとしたヤロスラフ王を制したのはキエムで、強めの口調で言った。
「ご老体、これはオルレンドルのみならず、我々の疑問でもあるのだ。黙って拝聴してもらいたい」
「若造、お主は――」
「ここで止めたとならば、ラトリアに意図あったものとみなす。次第によっては、我が国もオルレンドルの支援もやむなしと考えていると知ってもらいたい」
この問いにおいては、ヨー連合国はこちらの味方だ。
なにせ私の証言で、現実世界で相当の混乱が生じていると判明してしまった。全員同時に倒れている点だけが救いではあるけど、彼らの敵は五大部族だけではないのだ。いくら精霊の協力を得られても、自分たちの地位を狙う者に裏切られては元も子もない。まして近年はサゥ氏族をはじめとして体制が入れ替わり、下剋上を目の当たりにしたばかりで、族長達の危機感を煽っている。ドゥンナ族のイル族長など、ことさら不機嫌にヤロスラフ王を睨めつけていた。
ヤロスラフ王もヨーを敵に回すのは得策ではないと考えたらしく、鼻息荒く口をへの字に曲げるけれど、このお爺さんは、果たして気付いているのだろうか。
場が落ち着くと、私は黙して答えない精霊に再度尋ねた。
「星の使い殿、わたくしはなにも責めているのではありませんよ。理由をお伺いしているのです」
「時間の経過については謝罪しよう。たしかに、こちらとあちらでは多少差異が発生する」
意外とあっさり認めた。
ただ、と表情を崩さず言い切る。
「無用の混乱を避けるために黙っていたのは認めよう。だが、本来であれば差異はもっと小さいはずであった」
「それを黙っていた理由はなんでしょう」
「此方は其方の考え方を甘く見積もっていた。人がかように、我らの住まう地の配分で揉められるとは、此方には理解し難い思考を持っていた」
人間が欲深いせいだと言いたいらしい。
それに時間の経過については、こともなげにこう言った。
「其方には謝罪する。此方には霞ほどの時の経過が、人にとっては重要であったと失念していた」
「失礼ながら、時間の価値観を種族の違いと称されるのは問題がございませんか。わたくし共と共存するに当たっては、もっとも考えなければならない部分でしょう」
「その通りだ。この通り謝罪する」
呼び出された人達は全員が国の方針を定めるのに必要な人々だった。もっと言いたい人もいただろうに、私が質が悪いと感じたのは、相手が潔く頭を下げて謝ってしまったことか。
私が言葉に悩む間に、不愉快そうに口を開いたのはライナルトだ。
「種族の差と言い張るつもりか」
「言い張るも何も、此方はそうとしか申し上げられぬ」
「それで共存などと声にするには無理があろう」
「信じていただきたい、としか言い様がない。そのための見返りは充分に用意するつもりだ」
星の使いの言葉を鵜呑みにしている人はいないけれど、彼はこの言い分を通すらしい。
それでいいのか、と言いたいところだけど、ラトリアは黙りこくっている。ヨー連合国の一面も口を挟まずオルレンドル任せにしているし、困っているのが現状だろう。
なにせ彼らも万が一精霊の機嫌を損ねたくない。不信感はあってもやっぱり新しい魔法の概念や力は欲しいので様子を見てから……といった思惑がある。
私もライナルトに投げてしまいたい思いすらありつつ、星の使いに向けて口を開いた。
「星の使い殿のお言葉は信じましょう。あなたがたとわたくし共では考え方、まして流れる風ひとつすら、すべてのものにおいて感じ方が違う。違う生き物なのだから感性の違いは仕方ありません」
「ご理解痛み入る」
「ですがそれを聞いても、まだ解せぬ事があります」
「それは?」
「ここはどこですか」
この質問には今度こそ、ライナルト以外の全員が眉を顰めた。
「どう、とは如何様な問いだろう」
「もちろん、わたくし共がいるこの場所のことです」
「質問の意図を掴みかねている。其方はここを精霊郷と呼んでいたか。我らの世界ではないと申されるか」
「その通りです。ここは精霊郷ではないでしょう」
ここは精霊郷じゃないし、まったく違う場所のはずだと断言できる。
「ここはあまりに人の知る景色に近すぎます。言うなら、わたくし共が考えるような絵物語、理想郷にあまりにも近すぎる。都合が良すぎではありませんか」
私はかつて黎明を通して精霊郷がどんな場所かを視ている。間違っても私たちがよく見知った景色ではなかった。
「空を覆うあらゆる色彩。浮かぶ岩群に、空から流れ落ちる滝をわたくしは知っている。ですがここに、かつて人界から持ってきた空中城はどこにありますか。この場所のどこに精霊郷の欠片があるのか、わたくしにはまるでわからないのです」
実はここがどこなのか……については見当がついている。
既に経験があると述べようか、悲しいかな、私はもう何度も経験しているためだ。
精霊の目を見据えて言った。
「もしかしなくとも、わたくし共の『心』に見せているのは、あなたが作り上げた幻なのではありませんか」