75.お怒り皇帝陛下
十歳には満たないくらいの男の子だ。ただ、格好としては肌の露出が多めのひらっとした装いだから精霊なのは間違いない。深緑の髪色と瞳なんて、まず見かけはしないもの。
くせっ毛の長髪で片目が隠れた精霊は、もじもじと気まずそうに身体を揺らして視線を落としている。
「ど、どちらさま?」
気配は感じなかった。おそるおそる尋ねると、涙目になって逃げようとして、それをすかさずライナルトの一言が止める。
「待て」
「ひいっ」
青ざめて一歩下がる。ただ引き留めただけでこの恐れよう。少年は両腕で頭を庇うような姿勢を取った。
「ごめんなさいごめんなさい! だってへーかはお妃さまは無害な人だっておっしゃったのに、その人は全身から竜や怖い精霊の気配を漂わせてるのだもの!」
「事情も説明せずに放置したわけか」
「ゆ、誘導はちゃんとしたの。だからほら、間違わずに道を作って、へーかのところへお連れして……」
胸の前で両手を組んでいたものの、ライナルトの怒気が納まらないとみるや入り口まで下がってしまった。
「だから許してほしいの。いくら僕が精霊だからって、真っ二つにされたらくっつけるのは大変だって、へーかは知ってるじゃない!」
「知らん」
「嘘つきい!」
可愛らしく両手を振り回し主張する姿は愛らしいけれど、ライナルトには逆効果だ。精霊の男の子もわざとではなさそうなので、なおさら相性が悪い。
「へーかが知ってるような精霊は、僕たちのなかでも特別なの。一緒にしないでー!」
この台詞を加味すると、ライナルトは一度この子を真っ二つにしちゃったらしい。
……本当に手が早くてしょうがない。
彼の腕に手を置いて、手を出させないと証明するように男の子へ話しかける。
「ねえ、あなた。この人にはなにもさせないから、よかったらお名前を教えてくれないかしら?」
「……僕ですか?」
「ええ。私はカレン、あなたは?」
「…………ほ」
「ほ?」
「星屑、です」
耳まで真っ赤にして俯いた。
これは己の名を恥じているのか、名乗りが恥ずかしいのか……判断がつきかねていたら、つまらなさそうなライナルトが教えてくれた。
「他の精霊には屑と呼ばれているそうだ」
「よしっ。スターちゃんと呼びましょう!」
冷や汗が流れる寸前、咄嗟に転生前の知識が閃くと手を叩いて提案していた。転生前の人々の顔はもう思い出せなくなっていたけれど、このくらいなら思い出せたことに自分でも驚いている。
星屑もといスターはパチパチと何度も瞬きを行った。
「ス? スタァ……ですか。それが僕の名前かしら?」
「はいっ、私はあなたをそう呼ぶことにします。異論は受け付けないし、これで決定……ライナルト、だめです。あなたであろうと絶対にだめ」
不満一杯に見つめてきても、人でも精霊でも、誰かを屑呼ばわりはできない。
私の前でこの子を斬り捨てる真似はしないだろうが、彼の腕を押さえて話を続ける。
「この人のところまで誘導してくれたのよね。危険もなかったから助かりました、ありがとう」
「あ、ううん。それが僕のお仕事だったから。挨拶が遅れてごめんなさい」
「こうしてお話しすることができたのだから、謝るのはなしにしましょう。それより、ここがどういうところか教えてもらえない?」
「それはもちろん……ぼ……ス、スタァの役目なので。あ……か、会議が終わったのだし、移動しながらにしましょう」
ぽっと顔を赤らめる。スターがスタァになってしまったみたいだが、納得してくれたのなら良かった。スタァはよく観察すると、頭部の上部から触覚みたいに飛び出た髪が動いている。
彼の誘導に従おうとしたら、止めたのはライナルトだ。
「仮にもオルレンドルの皇妃がこちらに来たのだ。お前ではなく議会の連中が説明すべきではないのか。少なくとも、私の時はそうだっただろう」
「あっ……そ、そうね。ちょっと待ってね」
ライナルトの一挙一動を伺っている模様。スタァはきゅっと眉を寄せて目を閉じるも、数秒後には頬をひくつかせながら瞼を持ち上げる。
「じゅ、じゅうような議論に入ってしまったそうで、僕が説明するようにと……ひいっ」
「ライナルト、止まって。私は気にしませんから」
「私は歩こうとしただけだ」
「でも、お怒りです」
「気にするな。そこの精霊にではない」
不快そうではあるけれど、異を唱えるつもりはないらしい。スタァに向けてはゴミを見るような目つきで……これでも平常なのが頭が痛いけど……一瞥すると歩きはじめる。
スタァは歩く必要がないらしく、浮かびながら一定の距離を保ちついてくる。
「僕はどこから説明したらいいのかしら」
「全部だ」
「ライナルト、もうちょっと優しく。怯えさせては何も聞けません」
深いため息の後に、彼は「任せる」とだけ言って黙ってしまった。
腕を組んでいるから、歩調は私にあわせてゆっくりめ。つまりいつもの……私にとっては少し懐かしい歩き方。歩きにくいのは承知で頭を傾けたら、少し止まって額に口付けが落とされた。
数々の女性達が集う庭園では、ラトリアのウツィアだけ姿がない。他の女性から向けられる敵意は相変わらずだけれど、ライナルトがいるので、もう虚勢を張る必要はなかった。
スタァがううん、と唸る。少し高い声音と美貌の双眸が相まって言うこと無しの美少年だけど、感嘆している暇はなかった。
「まずは、ここがどこかを教えてもらえないかしら」
「あ、えと、そうね。ここは人の世界から離れた精霊達が住まう世界よ」
人の世ではないと思っていたけど、改めて言葉にされると驚きだ。
「ここが?」
「うん。とっても素敵な場所でしょう……どうしたの?」
浮世離れしているって意味では確かにそう。だけどここが精霊郷と言われると少し疑問だ。
「精霊郷に人が住むための建物があるの?」
「精霊郷……良い呼び方ね。僕もこれからそう呼ぶわ」
私は黎明に精霊郷を見せてもらったことがある。たしかに町や集落といった概念は存在していたけど、こんな建物を作るほど文明は発達していなかったはずだ。
この疑問に、スタァはこう答える。
「僕たちの住処そのままだと、人が過ごしにくいとは聞いたことがあるの。だから議会が精霊郷の中に別の空間を作って、人が過ごしやすいようにしてあるって言ってたわ」
「な……るほど……? それで、私たちはここに呼び寄せられた?」
「うん。肉体は元の世界のまま、心だけを引き寄せたの」
そんなことを行った理由はずばり……精霊たちが人界に再び戻ってくるため。
私は頭痛を堪える面持ちを隠しきれずにいた。
「もしかして人界に渡るというのは、『大撤収』とは逆の、大陸への帰還で合ってる?」
おそるおそる尋ねた質問に、スタァは「わあ」と驚きに目を見開く。
「王様たちはみぃんな忘れてしまったと聞いていたけど、お妃さまはそこまで知ってるのね……あ、なら、『大撤収』の詳細は話さなくても大丈夫かしら?」
「……いえ、一応確認はしたいから、聞かせてもらえませんか」
大撤収については、私の知っている内容で間違いないので割愛する。
話を聞き、自分の中で話を纏める間に、仮住まいだという建物に到着した。
オルレンドルに与えられている館は、緑に囲まれた三階建ての立派な屋敷だ。作りはやはりファルクラムに似ているけれど、似て非なる建築模様だ。鉄の柵門も、ひときわ大きい二枚扉も近づくなりひとりでに開いたけれど、中は閑散としていて人っ子一人気配がしない。中は贅沢にも一面絨毯が敷き詰められており、ところせましと風景画が飾られている。絵画はどれも実際に動いて揺らめき、手をかざせば実際風が吹いた。春の風景画からは花の香りが、冬からは冷たい冷風が……まるで実際の風景を切り取ってしまい込んだかのようだ。
ライナルトは慣れた調子で奥に向かい、くつろげる椅子がある部屋に私を連れて行く。
茶器も、菓子類も、一瞬目を離した隙に勝手に机の上に置かれている。
席に座ると、この間にまとめていた事項をざっくりまとめて声に出す。
「いきなり大陸に姿を現すと帰ると大騒ぎになってしまうから、共存のために、まずは人の王様に認めてもらいたいという話で良いのよね?」
「はい。でも、こちらからそれぞれ伺うのは時間が掛かるとのことで……とっても偉い精霊たち…『議会』は人に招くこと決めました。はじめにヤロスラフ王を呼んで、次にヨー、最後にオルレンドルです」
私とて『向こうの世界』に渡ったのだから、精霊のあれこれについて考えてなかったわけではない。でも、向こう側での精霊の帰還は、ライナルトの即位から六年後だった。もしかすれば同じだけの時間が経てば……とは考えていたけれど、いくらなんでもこれは早すぎる。