71.戦火の足音
変な夢をみている。
頭がふわふわして、現実味はほとんどない。
場所はどこかの庭園。赤、白、黄色と色とりどりの花が咲いていて、中央には小さな噴水があり、水しぶきが太陽の光をキラキラと反射させていて、さながら隠れた楽園のようだ。
石畳の小道が、花々や木々の間に織りなされ、庭園全体が生命と色彩で溢れている。
木陰のベンチに座る私は、ぼうっと噴水を眺めていた。
身体に力は入らないものの、動こうとは思わない。視界ははっきりしているようで、どこか輪郭を伴わずにぼやけている。
手に力が入らないから、眺めているだけになるも、不快感はない。
夢の中を揺蕩う心地は悪くないけど、こんな夢は初めてかもしれない。
ぼけっと座って眺めていたら、ふと眠気を感じて目を閉じ――――。
「起きてください!」
ジェフの呼び声で目を覚ました。
「……あら?」
目前にジェフの顔があった。焦りと安堵をまぜこぜにした彼の手は、私の肩に置かれている。ニーカさん、モーリッツさんにサミュエルが険しい表情で、それぞれが私を見つめている。
ジェフが固い声で問いかけた。
「気をしっかりお持ちください。私のことはわかりますか」
「ジェフ、よね。それがどうかした」
「いま、この場がどこかはおわかりですか」
大真面目に変なことを尋ねる。私も周囲を見渡し、答える。
「執務室よね。ええと、議題はそう、国境付近のラトリア兵が……」
自分の頭がいかに鈍っていたかに、遅まきながら気が付いた。
そうだ、数日の休息を経て執務に復帰した。しっかり休息がとれたので、良い感じで仕事に取りかかり、ライナルトの代役も形になりはじめていた……はずだ。
思わずジェフに尋ねた。
「私、さっきまで起きていたはずよね。居眠りをしてしまったの?」
呆けてしまったけれど、私はついさっきまで会議の席についていた。議題はファルクラム側に多数目撃されはじめているラトリア兵について。
ただの偵察にしては数が多く不審な動きをしているために、ファルクラム領総督代理から対応を求められ、私が呼び出された形だ。そんな大事な会議の最中で居眠りした自分が信じられないけれど、事実は事実だった。
「居眠り、と申し上げるよりは……」
ジェフは言葉を濁し、言い淀んだ。
心身の不調は回復していたはずなのにこの体たらく。普通ならば叱咤が飛んでもおかしくないはずなのに、皆にあるのは戸惑いだ。
唯一、渋々ながらサミュエルが動きをみせる。
「失礼、ちょいとご無礼失礼しますよ」
手袋を外して私の目元に手を伸ばし、右目を大きく開かせると、そのまま顔をのぞき込んで、じっと観察を行う。
いたく真剣な眼差しだ。コンラート家での相談以来、騎士団所属で魔法使いだから、という理由で私の身辺警護に回されたことを、この世の終わりみたいな顔で絶望していた人間とは思えない。
瞳の奥を覗き込むサミュエルは、モーリッツさんに振り返る。
「もしかしてですが、陛下と同じ状況とかじゃありませんか」
「……我が君が倒れたときの様子を私は知らぬが、執務中に一瞬……意識を落とされた状況に限れば、ご様子は似ておられる」
「なーるほど」
サミュエルは腰に手を当て、天井を仰いだ。
今の話を耳にして、私もようやく状況を悟る。
「私は突然気を失ったのね?」
時間をおいて、誰からともなく肯定が帰ってきた。
沈黙が苦しい中で、苦々しい表情のモーリッツさんがサミュエルに確認を取った。
「貴殿はどのような見解だ」
「まだはっきりと断言はできません。また、こういった説明はシャハナ長老の方が得意なんですが、構いませんか」
「いまは貴殿の見解を聞いている。情報を精査した結果は改めて受け取ろう」
「そんじゃ、あくまでも一個人の意見ってことを念頭に置いてください。皇妃殿下の瞳の色が、一瞬だけ変わったのを認めました」
「それが意味するところは?」
「別物の魔力が皇妃殿下の体内に侵入し、その残滓を自分が認めた、というのが現在の見解です」
つまり誰かに接触された痕跡がある。
これを聞くと、さしものモーリッツさんも黙り込んでしまう。他の人に念のため問診を行うか尋ねられたけれど、断った。
いまは優先すべきものがある。モーリッツさんの目を見て続けた。
「この会議が終わらないと、皆さん次に移れないでしょう」
「問題はないとおっしゃるか」
「どのみち対応できないのは陛下の件でわかっています。対策は後で講じましょう」
ライナルトがいない弊害は、時間を追うごとに顕著になりはじめている。宰相リヒャルトがこの場にいないのは対応に追われているからで、他国の兵の目撃証言を後回しには出来ない。ただ意識が落ちただけだったら優先するのはラトリアだ。
「サミュエル。会議が終わるまでに、私を診た感想をシャハナ老と共有しておいてもらえますか。ルカにも状況は伝わっているはずだから、彼女の意見も聞いておいて」
「へい、かしこまりました」
返事が不真面目なのでモーリッツさんが眉を顰めるも、サミュエルはこれで仕事はする人なので任せられる。
私の意を察したジェフも一歩下がり定位置に戻り、落ち着いたところで、改めてファルクラム領から送られた書面を確認する。
ラトリア兵が確認されたのは旧コンラート領付近。
しかしただ旧コンラート領を復旧させるにしては、近年に比べ数が異常だ……と周辺の地方領主が敏感になって救援を求めている。
意見役として呼ばれたニーカさんが呟いた。彼女はライナルトの信頼が厚く、またファルクラム領をよく知っているためだ。
「数年前、かつての領主達であれば気のせいだと無視していたか、権力争いのために伏せていたでしょうね」
「一度コンラートと王国が落ちていますから、気が気ではないのでしょう。ラトリアの侵略を許したら、今度こそ我が身です」
彼らも、ファルクラム領も、コンラートの陥落から始まった王国の滅亡への記憶は新しい。改革後は貴族の大半が明日も行かぬ身となって相当の痛手を受け、明日は我が身と焦りを隠せない。おかげで報告が届くのも早かったらしいけど、コンラートの動乱を思い返すと、あまり良い気分ではなかった。
背もたれに上体を預け、何度目を通したかもしれない書面を読み直す。内容が変わるわけでもない、意味のない行動だ。
本来はマイゼンブーク卿等、もっと大人数に意見を集うべきだ。もっと大々的に会議を開くべきかもしれないけど、ファルクラム領有事となれば、本来出てくるべきはライナルトだ。
彼は病気療養という形を取ったとはいえ、ここは私が出る場面じゃない。というか現時点で出ていったら、周りを騒がせる事態に陥る微妙な線だ。
少人数で意見交換を行うだけに留めたけど、それが気絶の目撃者を減らせたのなら幸いした。
「モーリッツさん。ラトリアが戦を行うには、まだ準備が整っていませんよね」
「鉄、食料含め、すべて不足しているというのが陛下の見解ですな。先の内乱で、ラトリアは資源の大半を消費していたと新たに聞き及んでいる」
「たとえばファルクラム領に進行するなら、どのくらい準備期間が必要だったと思いますか?」
「大規模な戦を仕掛けるのであれば、少なく見積もってもあと数年」
「……物証的には難しいのよね。ラトリアは内乱明けで他国に進軍する理由もほとんどない」
ライナルトの趣味が高じてか、ラトリアの状況は随時確認がとれている。
まだ戦には遠いと思っていたけど、ファルクラム領の訴えを無視できない。皇妃の故郷を見捨てたと思われてはたまらないし、なにより総督からは、姉さんからの嘆願書も届いている。
妹としては兵を動かしてあげたい。姉さんを安心させたいけれど、頭を悩ませるのは理由がある。
もし兵を動かすにしても、オルレンドルの最高権力者であるライナルトが決断するのであれば構わないのだ。問題はそれを発令するのが私になるってこと。
ラトリアへの示威行動を起こすにしたって、行き先はファルクラム領。人員を動かすのはタダじゃない。
…………少数の目撃証言だけで軍を動かすには相当のお金がかかる。
また、大変言い方が悪いのだけど、こんなこと思うのは、姉さんに大変申し訳ないのだけど……。
「モーリッツさん、どう思われます?」
「ラトリアはファルクラム領に進軍できる状況ではない。目撃者がファルクラム領の者だけでは如何ともし難く、軍の派遣は不当と考える」
…………こういう考え方も、政には必要になる。
たとえばラトリアとファルクラム領が手を組んで、偵察に来たオルレンドル軍を挟撃する可能性も想定せねばならないのだ。
皇帝代理も慣れてきたつもりだったけど、これは流石に想定外すぎる。
沈黙が長かったためか、同じ悩みを抱えていたニーカさんが力なく笑った。
「竜に乗って確認でもされてきますか」
「……できたら楽だったんでしょうねぇ」
「本当に、飛んでいけたら楽でしたね。私も黎明殿に乗ってみたいが、乗るならもっと平和な時がいい」
彼女、いつか黎明で空を飛ぶのを夢見ていたりする。
ぼやくようなニーカさんに、モーリッツさんが双眸を尖らせた。
「……サガノフ殿におかれては、場を乱す発言はお控えいただきたい」
「公式の場でもないのだから大目にみてもらいたい」
黎明を起こして飛んで確認しに行く……本気で悩んでしまったけど、一瞬で打ち消した。
ファルクラム、ひいてはラトリアに目撃されてはやっかいだし、オルレンドルにも精霊をあてにする考えを持たれては困る。
頭が痛くなってきて、こめかみを揉み解した。
「この場の私共の答えとしては、軍の派遣は妥当ではない……で一致していますが、ニーカさんは相談……という形で内々に軍部の意見もとってみてください」
「相談、ですね。誰になさいますか」
「マイゼンブーク卿とバーレで」
信頼できる人と、実父であれば口は硬いはずだ。
「コンラート領付近の目撃証言も、こちらの人間に裏を取らせてくださいな。モーリッツさんは、ファルクラム領への代替案を考えてもらえますか。一応向こうを宥めておかないといけません」
事態が悪化するばかりなのは、気のせいではないはずだ。
いますぐ駆け出し逃げてしまいたい衝動を堪え、もう一つ付け加える。
「もう一つありました。サゥのキエム殿にも早馬を飛ばしてもらえますか」
出てくるはずのない人物の名前に、ニーカさんの瞳が鋭く煌めいた。