68.統治する者の重み
ヘトヘトだった。
ライナルトが倒れたのは少し前の話。それほど時間は経っていないためか、皇帝ライナルトの病気療養はさほど取り上げられていない。
発表時、政務に取り組む彼の姿を知っている人々は驚いた。方々から贈られる見舞い品はそろそろ部屋を埋め尽くさんとする勢いで、モーリッツさんが断りを入れても止まらない状況だ。
私たちの住居区画は、新設された近衛及びマイゼンブーク卿率いる帝国騎士団第一隊の厳選された面々で密かに見張られている。何事もないよう見せかけてはもらっているけれど、緊張感漂う雰囲気が、聡い宮廷侍女達には伝わってしまっている、と休暇を切り上げ戻ってきたニーカさんが肩をすくめていた。
彼女は気分を変えたのか、お団子頭を止めて肩より下くらいまでに切っていた。新しい髪型はさらなる魅力に気付かせてくれたけれど、振り返り声をかける人々より、不穏漂う宮廷に彼女の気は逸れている。
彼女を連れ戻してきてくれたのはシスとルカ。
前者は眠るライナルトにも危機感は抱かず、顔に落書きや髪で遊びたくり、近衛の若手をからかいたおしている。ルカもゆったりかまえており、それがいっそう人間側の不安を掻き立てるのだけど、私はどちらかといえばほっとした側だ。フィーネから身の安全は保証されているとはいえ、焦る必要はないと態度で語ってもらえるのは安心できる。
政は動いているから騒ぎ立てられはしていないが、裏側では奔走している人間がいる。
私もその一人であり、おぼつかない足取りで衣類を脱ぎ散らかすと、ライナルトの眠る寝台の横に頭から突っ込んだ。夫は規則的な寝息を立てるばかりで、手の平を重ねても握り返してくれない。
いまの私は二階で眠るようにしているから、これは帰ってきてからの日課だ。
ライナルトはヨルンが清拭してくれているおかげで清潔さを保っている。胸の上によりかかって心臓に耳を当てると、脈打つ鼓動が生きている証拠を教えてくれた。
毎日繰り返す確認作業に、何度目かもわからない弱音を零す。
「おはようはまだですかー……」
新婚である点を差し引いても、寂しいし辛いのが本音だ。
辛いは主に、彼の代わりにこなす業務に対して。皇帝陛下の業務を知っていたつもりでも、いざ手を付けてみると忙しいどころじゃない。手続き一つ通すのに煩雑な行程を考慮せねばならず、君主制といえど政の難しさを思い知らされてしまう。
国の発展を目的とした政策や方針は定まっていたから苦労は少ない。
しかし旧体制からの変更に伴い、法の執行基準が変わった。不正や犯罪に対する適切な制裁と司法制度の管理を監督する必要があり、新しく制定した制度がうまく運んでいるかを確認している。
宗教関連も頭を抱える事由のひとつと知った。前帝カールが廃された影響で規則は以前よりゆるやかになったものの、これ幸いにと潜り込む宗教家が増えた。国益を損なう集会の監視は必然となり、定期的に憲兵隊からの報告書が上がっている。
体が重いから動くのも面倒。顔を触りながらぼやいた。
「早く起きないと私の好きにされてしまいますよー。いいんですか、グノーディアに動物園を作って、博物館を増やしますよー……」
声が段々としぼむ。
…………覚えることが多すぎて頭が爆発寸前だ。
なお、宰相リヒャルトから軍事問題に触れるかも聞かれている。
これは私的にライナルトの野望と『趣味』の範疇だと思っているので、絶対触らないと断言し、現状維持と監督をマイゼンブーク卿やバーレ家のベルトランドにお願いした。……あとはマイゼンブーク卿の進言で、除け者にすると面倒だからと推挙されたエーラースも加えている。
遺跡消失に伴う湿気対策、治水工事はすでに見通しが立ててあるし、こちらは総監督に任じられた父さんに任せてあるから少しは楽。
財政管理も想像以上にややこしかった。貨幣などの経済はバッヘム家の総括だけど、地方への税は陳情によって見直しているらしく、上がってきた書状まとめに目を通す必要がある。貿易政策はさらに重要で、交易品を統制・管理しオルレンドルの益を損なわないようにするのが皇帝の役目だ。上ってくるのは最終書類だけでも、内容を理解するため説明を受けながら目を通している。
後回しにされたのは民衆との触れ合い。
君主制でも伝達や意思疎通は支持のひとつとして大事だ。まぁ、ライナルトはその役目をほとんど私に任せようとしていたのだけど……こうして業務に手を付けるようになって実感するのは、あのつたない外回りや慰問でも相当役に立っていたということ。
私に回される確認業務や決定はかなり免除してもらえているけど、真面目に皇帝をやると、仕事の量がとんでもない。
コンラート家を運営していた頃とは規模が違う。
ひとつの失敗がオルレンドル、ひいては遠いファルクラム領の民を飢えさせるかもしれない。胃が冷たくなる感覚を味わい、毎日毎日頭を使って、眼精疲労を蓄積しながらここに突っ伏すのが、ライナルトが倒れてからの日常になろうとしている。
彼の端正な顔をなぞりつつ、やはり今日も起きないと諦め部屋を出ると、ルカが優雅にサンドイッチを摘まんでいた。
ヨー連合国の旅では人形の体で質素だったぶん、元通りになったいまは惜しみなくフリルのドレスを楽しんでいる。
出会い頭から「親しみを覚えて好き」と言って憚らない黒犬にサンドイッチの半分を分け、お手をさせようとしている。ちょうだい、と態度で主張している黒鳥は無視していた。
「マスター。アナタ酷い顔色だから、先にお風呂をお勧めするわ」
「……そうする。ベティーナを呼んでもらえる?」
「もうお風呂場で待ってる。脱ぎ散らかしたお洋服、全部片付いてるでしょ」
「本当だ……」
「ライナルトはワタシが見ているから、ゆっくり湯船に浸かってらっしゃいな。その頃にはこんな冷たいサンドイッチじゃなくて、あたたかいスープが置かれているから。アナタは適当でいいって言ったけど、ワタシが主張しておいたから」
しっかり食べないと保たないと言いたいらしい。
室内を見渡すと、普段なら必ず姿を見せるはずの愛猫たちがいないのが気になった。
「ヴェンデルは? クロ達がいないのなら、こっちにいるのよね」
「マスターったら帰ってきた時間を忘れちゃったのね。もうご飯の時間は過ぎちゃったし、お勉強があるから部屋で休んでるわ。行くなら止めないけど、そのふらふらの足で行くのはお勧めしないわね。お隣っていっても距離があるんだから」
以前なら兼任で行えたコンラートの当主代理も、いまは遅れて目を通すくらいになってしまった。
ルカに無造作に投げられても戻ってくる黒鳥。無心でサンドイッチを貪る黒い子犬。どう考えても二匹で遊んでいるルカ。
きょうだいみたいと言ったらルカは怒るけど、仲良しは相変わらずだ。どこか安堵を覚えながら浴室に向かうと、侍女のベティーナ達が待機していたので、もうなにもかもが面倒くさくなって、無言で下着を外し湯船に浸かる。
侍女に体を晒すのも、髪を洗ってもらう行為も慣れたのが皇妃っぽいだろうか。思考力がほぼお亡くなりになっているので、とにかく楽ができるならいい、の一心でお任せしている。
寝衣に着替えると食事を喉に通すも、疲労のためか味がぼやけていた。少し前までなら美味しさが身に染みていたのに、これはもう寝るべきだ。歯を磨くと早々に二階に戻り、黒犬を抱くと目を閉じる。すると十を数える間に全身は睡魔に乗っ取られ、目を覚ましたら、もう朝になっていた。
睡眠をとれた感覚はあっても「もったいない」と感じるのは何故なのか。半分絶望的な気分で公務へ出仕すれば、挨拶に来てくれたニーカさんがぎょっと目を剥く。
きっと気晴らしのために雑談へ赴いてくれたのに、おそるおそる話しかけてくる。
「……休めてますか?」
「夢も見ないくらい寝てきたので、すっきりしてます」
力こぶをつくってみせたのに、いまいち納得してくれない。
リヒャルトとモーリッツさん補佐の仕事、勉強、謁見。とにかく言われるがまま予定をこなしたけれど、この皇帝業代行期間は、私室で過ごした記憶がほとんどない。
一月ほど経った頃だろうか。侍医長とルブタン侍女頭が肩を怒らせながら、宰相とモーリッツさんの執務室に殴り込みをかけたと聞いた翌朝、モーリッツさんは不承不承ながら私に休みを申しつけた。
「大変遺憾ながら、皇妃殿下にはしばしお休みいただき、心身共に回復していただく。ただし完全にとはいかないので、簡易的な報告のみ上がるのはご容赦願いたい」
ライナルトはまだ目を覚まさない。姿を現さない皇帝に民からも不安の声が上がりはじめ、やはり彼も前帝と同じで享楽に耽っている……などと不名誉な噂が囁かれはじめたせいで、私は慰問を再開していた。それを侍医長達が心配したらしい。
侍医長達が苦言を呈した原因は、限界を迎え始めた私の体だ。
身体の変調と熱が続いて痩せてしまっていた。モーリッツさん達が了承したのは、公務に身心を潰されては元も子もないからとの判断だけど、なにもしなくて良い時間をもらったとき、やりたいことを思い出すのに丸一日時間をかけた。
ベティーナに甘いケーキを所望すれば大急ぎで持ってくると出ていってしまう。
ライナルトを看ておこうかと思ったけれど、ふいに見た窓の外がうつくしい。雪が去り、青々とした芝生は陽の光を浴びて生気に満ち溢れ、木々が揺れ、生命力あふれる光景は自然の祭りだ。ご無沙汰になった庭の調理場が寂しそうにぽつんと佇んでおり、そういえばお気に入りの鉄鍋はどんな感じだったかしらと外に出る。
陽気はあたたかい。外には出ても、ゆっくり眺める時間はなかったと思いだし佇んでいると、侍女達が柔らかい椅子やクッションを持ってきてくれた。あっというまに支度が調って、ゆっくり身を沈めると長い息がもれる。
かなり長い間休んでいた。
空の青は深く、澄み渡り、どこまでも続いている。鳥のさえずりが遠くから響くと、自然の交響曲を奏でて、疲れという言葉を忘れた心身を癒やしてくれる。
「…………あ、れいちゃん」
雄大な空を見上げ、やっと彼女に気を向けられた。黎明には助言を得たくて幾度も声をかけていたけど、一向に目を覚ます気配がない。死んでしまったのかと疑うくらい音沙汰がないのだけど、フィーネ曰く、ちゃんと居るそうだ。ただ私の生成できる魔力量、大気に満ちる魔力が足りないのもあって、竜種たる彼女の回復にはまったく足りないそう。
ルカ曰く絶対に死なないけど集中治療室で安静状態くらいだそうで、気軽に説明していたけど簡単に述べていいものではない。
彼女が起きていられる環境が整うのはいつになるだろうか。
ケーキを期待して後ろへ振り返ったら、侍女がひとりもいない。最近の私には誰かしら付き添っているはずが、誰もいないのだ。
腰を浮かして立ち上がると、なにかに肩がぶつかって再び椅子に沈んだ。
私の体に影が差しており、椅子の前、それもかなり近くに人が立っているらしく、反射的に顔を上げている。
誰もないはずの空間に、その人達はいた。
二人の男性だ。
ひとりは青い髪の鍛え抜かれた、彫刻じみた肉体の持ち主。異国情緒じみた衣装を纏っているが、鍛え上げられた胸板が隠せない。
もうひとりは深い深紅の髪色をした人で、青髪の人より一歩下がっている。静かな雰囲気を持つ人だが、その姿勢は優雅で、しなやかな体つきながらも鉄の強度を感じさせる。腰には使い込まれた斧を下げて武具も纏っていた。薄着の青髪の人とはまた違い、いかにも武人といった装いだった。
誰? との問いも、悲鳴も、ルカを呼ぶ暇もない。
そもそもこの人達には敵意が無かった。特に青髪の男性など感極まった様子でこちらを見下ろしている。
青髪の人が口を開く。
「我が妻よ」
びっくりして長椅子の端に逃げたのだった。