66.停滞は許されない人々だから
ライナルトはいくら周囲が騒ぎ立てても目覚めない、世界が彼の周りを通り過ぎていく。
少し冷たくなった頬を撫でながらエーラースに尋ねた。
「陛下がどういった状況で倒れたか教えてもらえますか」
「は、報告させていただきます」
曰く、今日のライナルトは昼休憩が犠牲になったものの、夕方には切り上げるべく予定を繰り上げていたらしい。遠出はしないため郊外は避けたが、帝都の街並みを見ようとして外へ出た。
……ちょっとした外出自体は思考をまとめるための日々の習慣だ。エーラースも準備していたから出発までは順調だった。
ライナルトは馬上で突如意識を喪失した。
しかも馬を走らせる最中にだ。
彼が手の力を緩めた瞬間にヨルン青年が叫びながら外套を掴み、それでも間に合わず落下しかけたところでエーラースが落馬を阻止した。
馬が停止したあとはライナルトが目覚めないとわかり、急ぎ宮廷へ転進し、私へはヨルンが知らせに来たのだ。
「そう、二人が助けてくれたの」
二人の連携がなかったらいまごろ後続の馬に蹴られたか、地面に体を強く打ち付け死んでいたはずだ。主の動向をよく注意してくれていた臣下には感謝の念しかない。
気を落ち着けるために深く息を吸った。
ほとんど縋るようにライナルトに手を重ね、俯いて息を吐き出す。
……ああ、いやだ、怖い。
顔を上げて寝台から離れる。
立ち上がれば背筋を伸ばして真っ直ぐヨルン青年とエーラースを見やる。
「二人のおかげで陛下がお身体だけでも無事にお帰りくださいました。私の深い感謝の意を伝えると共に、その献身には陛下も報いられることでしょう」
まずはじめにエーラースが、次にヨルン青年が腰を折った。
「ありがたきお言葉にございます。しかしながら、主のご不調に気付けなかったのは我が身の不徳と致すところ。いかような罰でもお受けいたしましょうぞ」
エーラースの言動は意図的なものだ。ここで本当に彼を罰するような、もしくはライナルトの不調に取り乱す真似をすれば、皇帝の名を貶める。
「不思議なことをいいますね。もしあなたを罰すれば私が陛下からお叱りを受けるでしょう。オルレンドルの忠実な臣下の心を離す真似はいたしませんよ」
わかっています、ちゃんと恩賞はお出ししますよ。
この場で主張されるのは心情的にきつくはあるが、エーラースの主張もある意味では間違ってはいない。
このあたりにはお国柄と言おうか、極端な話だけど顔を売れば活躍できた前帝から、いきなり実力主義になってしまったライナルトの治世への変化もある。彼も含め、みな手探り状態で、エーラースは私と話したことがほとんどなかったから不安を覚えたのだろう。
こんなときに、とは思ったけれど、対応は間違えたくない。
もう一声かけるか悩んだ時、エーラースを呼んだのはマイゼンブーク卿だ。宮廷へ戻りしな、真っ先に昏睡したライナルトを見つけたひとだったから、各所への連絡や口止めを行ってくれたのがこの人だった。
「いま誰よりもお心を痛められているのは皇妃殿下である。陛下の御身を前に不躾な言葉を並べるでない」
そう言って同僚の肩を掴むと後ろへ下がらせた。
マイゼンブーク卿には内心で頭をさげ、ひとまず彼らには退室してもらう。
入れ替わりで入室したのは魔法院長老のシャハナ老と弟子のバネッサさんだ。走ってきたためか息が乱れている。
侍医長がそっと話しかけてくる。
「陛下のご様子はわたくしの知るどの病気の症状とも違います。わたくしの独断でございますが、お越しいただきました」
「ありがとう、賢明な判断です」
シャハナ老がライナルトを診る間、私は再びライナルトの傍らで手を握っている。シャハナ老は医者を真似るように脈を測り顔色を見ているが、実際彼女が探るのはもっと内面的なものになる。
彼女の診断はこうだ。
「わたくしの見立てでは、魔法の干渉はなさそうです」
「では……」
「宮廷周りの結界も確認してございますが、少なくともヨー連合国の呪いやラトリアの魔法干渉があったとも思えません」
だったら原因はなに?
疑問が口をついて出かけるも、シャハナ老は首を振る。
「わたくしの見た限りでは、にございます。恥をさらしますが、我らは陛下の守りを『箱』に頼ってきましたから、宮廷に結界を張り巡らせるのは最近始めたばかり。こればかりは何が起こるかわかりません」
「たしかに前帝陛下の時代は『箱』頼みでしたが、あなたの観察や経験に基づく判断が間違っているとは思いません。……あなたが気付けないとなれば、それ以上の術者の可能性があるのですね?」
「もしくは、わたくしたちよりも上位の存在の干渉です」
否定できなかったのは、私が精霊を義娘にしたからだろう。
少し考えて、再度問うた。
「シスはどうですか」
「探させておりますが、まだ見つかったとは聞いておりません。おそらくわたくし共が探しているのは察しているのでしょうが、あえて隠れているのかも」
……ひねくれ者だからなぁ。
シスが捕まらないとなれば、できる手段は限られている。
心の内側で黎明を呼んでいるけど応答はない。現実との繋がりが薄い彼女は私が起こすしか手段がないのだけど、反応がないならもうひとつの方法をとるしかなかった。
あの子に限っては人智を逸れた呼び出しは好きになれないけど、今回は仕方ない。
――返事はすぐだった。
「なぁに? わたし、よばれた?」
空中から現れ、可愛らしい赤リボンをあしらったつま先から、床を叩いて着地するのはフィーネだ。
私の影から姿を出した黒犬を抱き上げ、彼女は周囲を見渡す。視線が止まった先はライナルトだった。
「あら、すこしおかしな感じがする」
「わかるの?」
「わかる……というのがどういうものかは掴みかねるけど、こころがここにあるのに、ない状態ね? わたしたちならとにかく、人がこんな風になるのは珍しいかも」
浮かびながら横や上から観察し状態を告げてゆく。彼女が精霊らしい側面を見せることは滅多にないから、バネッサさんなんかは特に固唾を呑んで見守っている。
指でライナルトの頬をつつきながら、小さな唇が開かれた。
「おかあさん。おとうさんはどうしちゃったのかしら。わたしに話を聞かせてもらえない?」
殊勝な言葉に聞こえるけど、さりげなくライナルトの嫌がるおとうさん呼びをするあたり、この状態の彼を皮肉っているのは間違いない。
……もしかして会うたびに嫌がられてるの、こっそり根にもっていたのかも。
いま指でつついている行為も、触れているのも絶対わざとだ。
人の営みをひたむきに覚えようとする一方で、無邪気に嫌がらせもこなすのだから困った子だけど、こういった側面は黎明やシスからあらかじめ忠告されていたし、私も『向こう側』での出来事は覚えているので不思議ではない。
私が知っている範囲は少ないが、今日突然倒れたことや、少し前から起こっていた変化を説明すると、彼女はある推測を導き出した。
「ふぅん……それ、もしかしたら連れて行かれかけてたのかも」
「連れて行かれる? 誰に?」
わからない、と首を振った。
ライナルトをつつくのは飽きたようで、今度は寝台に座って足を動かす。
「でもオルレンドルに侵入してたら、坊やはとにかくわたしが気付かないはずがないから、かなり遠くからの呼びかけね」
いまは精霊としての貌だ。シスを坊やと呼ぶのが証明だった。
やたらのんびりしているので侍医長等は焦っている様子が窺えるけど、私も同様だ。皆が落ち着かないのはフィーネも気付いている。それでものんびりしているのは、ライナルトを連れていった相手に悪意がないからだとも言った。
「それは確かだって保証はある?」
「おとうさんは一番おかあさんに近い人でしょう? 意図があって害されたら傷つくのはおかあさんだから、わたしは見逃さないわ。それにどの精霊よりも悪意には馴染みがあるし、気付けなかった、なんて間違いはしない」
だいたい、と両手を叩く。
「人であれ、精霊であれ、私が司るのは死の概念だもの。魔法による不当な死が近づいていたのだとしたら、わたしは警告したはずよ」
「皇妃殿下……」
「大丈夫です、侍医長。フィーネがこうまで言うなら陛下の命には関わりません」
見掛けは子供でも大変な大物なので、こうまで言うなら間違いない。
つまりここまで言ってくれるのなら、少なくともライナルトは死なない。それがわかったら心が落ち着いた。
「フィーネ、あなたはこれをどうにかできる?」
「むり」
あっけないほど素っ気ない。
理由は難しくなかった。
「おとうさんね、こころがここにあるのにない状態っていったでしょう?」
「こころは人間で言うところの魂ね」
「うん。ここにいるのに、他のところに行っている状態を変動しながら常に繰り返してる。干渉を止めさせるのは簡単だけど、遠隔からとても繊細に、気を遣いながらおとうさんを連れて行った相手だもの。きっと、とっても厄介な相手だとおもうの」
人か、それ以外の存在か、あるいは両方か。
誰の意図が絡んでいるとも不明だ。
遠回りにフィーネが「喧嘩をするつもりはない」と言ったのは、相手の思惑が判明しない限りは人の政に干渉する恐れがあるからではないだろうか。
フィーネは続ける。
「それにちょっと怖い話をしちゃうと、わたしと干渉し合ったら、おとうさんのこころが相手側に引っ張られたままになってしまう。そうなったら二度と起きられないし、もし目覚めてもお人形さんになっちゃうかも。それか、足りないまま違う人間になるかもしれない」
「……ライナルトを連れていった誰かが彼を帰してくれるまで、放っておくしかない?」
「そうなるわね」
「用済みになったら殺される可能性はないかしら」
「消滅させるつもりなら、こんな親切丁寧に連れて行かないわ。体に返すのを前提にしているのでしょうから、命は心配ないと思う」
命の心配が無いのはわかった。
でも気になることはまだある。
「なら、いつ目覚めるの?」
誰かが意図をもってライナルトを連れ去ったのはわかったけど、それはいつ終わる?
いくら命の保証はされても、誘拐と同等の手段でライナルトを連れていったのなら倫理観は期待できないのではないか。
私の不安を感じ取ったフィーネは、まるで初めて空を仰いだ花の如くにっこり笑う。
「わかんない」
宰相リヒャルトとモーリッツさんを呼び出すよう侍女に申し伝えた。
既に連絡が入っていたのか、まもなく二人とは机を挟んで対面したけれど、彼らに相談するのは現実的な問題だ。
モーリッツさんとて動揺はしているはずなのに、表面上はおくびにも出さず言った。
「当面の間、陛下はご病気ということで進めたいが如何か」
そこに異論はないけど、考える素振りを見せたのはリヒャルトだ。
「ご病気にしても種類によろう。昨日まで特別異常もなくお過ごしになっていたのだ。はじめは風邪ということにして、お目覚めにならぬようなら熱とし、くれぐれも民の不安を煽らぬよう慎重に進めてもらいたい」
「配慮いたしましょう。政務は皇妃殿下に代行いただきたいが、よろしいか」
「目覚めないと聞いた時点で覚悟はしておりました。ですが重大な決裁はできませんよ」
「心配せずとも貴女に高等な政治的駆け引きは期待していない」
さすがモーリッツさん。率直すぎて刺さるけど、この言葉が頼もしい。
リヒャルトも私を補佐すると一言添えた上で付け足した。
「もとより陛下は常に先を見越して政をこなされていたので、当面を凌ぐだけなら皇妃殿下でも問題なく進められるでしょう」
「では、それを私が……」
どんな難関が待ち構えているか緊張していたが、これならなんとかなりそう?
だが安堵はつかの間だった。
否、とモーリッツさんが遮ったのだ。
「代行をこなしていただくのは当然として、この先を考えれば、御身には陛下の進められていた公務を正しく理解していただく必要があると考える」
とても嫌な予感がした。
私の予想が間違いないなら、それって……。
声が震える。
「もしかして、それって」
「左様。わたくしもモーリッツ同様、皇妃殿下には陛下と同等とは行かずとも、幅広い情報を間違えることなく受け止める深遠な洞察力を養っていただきたいと考えます」
「つきましては、皇妃殿下の今後の予定はすべて白紙とさせていただく。明日までは通常通り陛下を見舞っていただき構わないが、予定が決まり次第代行をお願いしたい」
「我らも陛下の状態には心を痛めております。皇妃殿下の心労も察して有り余るくらいではございますが、オルレンドルのためですゆえ、どうぞご理解を」
リヒャルトが恭しく頭を垂れ、モーリッツさんと今後の計画を練るべく退室していく。
残された私は、明日から訪れるであろう想像もつかないような日々に思いを馳せつつ――夫を見舞うべく、席を立ったのだった。