65.あなたは深い眠りへ沈む
異変には兆候があった。
数日おきに寝所を分けていたのは以前語った通りでも、問題の日の前からライナルトの眠りは徐々に深くなっていた。私が把握しているのは主に朝で、例えば私が身じろぎして体を起こすときにはまだ眠っている。声をかければすぐに目覚めるけれど、その前から少しずつ、例えば居眠りをしていたとか、疲れているのではないかとか徐々に相談が入り始め、やはり仕事に熱心に取り組みすぎなのではないかと思い始めていた。
その日の別室から起こしに行った朝だ。
事前に予定は遅らせてもらい、朝食は料理人に元気が出るものをお願いしていた。動物たちにご飯をあげて、支度はなにもかも準備済み。
起こしに行くとライナルトはぐっすり寝入っており、声をかけながらゆすればやっと目を覚ましてくれる。
起き上がるときはひどく億劫そうで、眉は中央へ寄っていた。髪を掻き上げれば一筋の汗が滑り落ち、いままでになく不愉快そうだ。
「ライナルト? ひどくおつかれですけど、大丈夫ですか」
「……夢が」
「え?」
「なにか、重要な夢を見ていた気がするはずだが思い出せない」
彼が夢で悩むなんて初めてであり、私はかける言葉を失ってしまう。
顔色を窺いながら額に浮かんだ汗を拭っていると、うつろだった瞳は徐々に本来の色を取り戻した。
「いや、なんでもないはずだ。心配をかけた」
「お疲れでしたら半日でも休んでください。普段から先へ先へと進みすぎなのですから、少しくらい遅れても支障はありません」
「問題ない」
「問題なくない。調子が良くないのなら侍医長に話しましょう。最近お疲れ気味だって、ご自身でもわかってるでしょう」
「不調では……ないはずだ」
「意地っ張り!」
肩に顔を埋めてきて、離す気配がない。
怒ってはみるも心配で突き放すこともできず、結局彼が落ち着くまでそのままだ。
朝食を始めるころにはけろっと元通りで、侍医長に診てもらった結果は意外にも異常なし。
こんな調子だから、私の制止も聞かず仕事へ行くと言われてしまった。
ニーカさんがいてくれたら寝台に縛り付けたかもしれないけど、彼女は長期休暇をの最中なのであてにできない。
「拗ねた顔をするな。代わりに早めに切り上げるから、それで納得してほしい」
「……そういって口付けすれば大体許されると思ってません?」
「そろそろ物でもねだってみるか?」
「虚しくなるからいらない」
「では昼は一度戻れるようにしよう。私が普段通りとわかれば無用な心配もなくなる」
無欲だと思われるのも癪だし、そのうち簡単に頷けないくらいの高いものでも強請ろうかな。別荘……はもう着工してるし、乗馬場……も、もうコンラートが所有してる。衣装系はこれ以上はおなかいっぱいだし……。
クーインのお婿さんでもお願いしてみる?
そんなことを考えながら外国語の勉強に移るけど、お昼ご飯はライナルト側の都合で反故である。夜は実家に帰ってやろうかしらとを腕を組んでいたところで、来客の報せを受けた。
ヨー連合国の五大部族のひとつになった、サゥ氏族首長の末妹シュアンだ。彼女はヨーの風習に馴染めず、自立を求めてオルレンドルにやってきて、いまは薬学院に勤めている。
そのシュアンが供も連れず、薬学院のローブを羽織った姿で訪ねた。
「皇妃殿下。わたくしの訪問などご予定になかったでしょうに、無作法をお許しくださいませ」
「あなたが来てくださるのならいつだって大歓迎です。お迎えしない理由を探すのが難しいくらいです」
「まあ嬉しい。こういうときはサゥ首長の妹であることを誇ってしまいます」
とっておきのお茶を振る舞い、お互いの緊張を解すために、少しだけ他愛のない雑談に興じた。
お互いの話題の共通点は、意外にも私の弟エミールだ。彼女はいつの間にかエミールと交友関係にあり、良い友人関係を築いている。
もっともそれが判明したのは婚姻後に催された祝賀会だったから、私たちは大いに混乱した。なにせエミールが突然シュアンを連れて出席したから、父さんの動揺が激しかったのだ。エミールが友人関係だと強調するまで大変だったのだけど、父さんの気持ちは痛いほどわかる。
本当にただの友人関係らしいから嬉しいような寂しいような複雑な気分にさせられたけれど、事前に説明していなかったエミールを、私はヴェンデルと一緒になって叱った経緯がある。
「調子はいかがですか?」
「相変わらず学ぶことがおおくて目まぐるしいです。失敗も多くて大変ですが、日々新しい発見があり驚かされてばかりです」
婚姻までにも何度か話しているけど、出会った頃と違い屈託のない笑みを浮かべることが多くなった。それを思えばオルレンドルの気風は彼女に合っていたのだろう。
「シュアンは良い薬師だと聞いています。皆とも仲が良く、民にも笑顔で接する人気者だとか。あなたならいずれ院を出て自立もできるかもしれません」
「恐縮です。カレン様はご存知でしょうが、ヨーを出て独り立ちを目指したのが始まりですから、叶うならばどれほど嬉しいか……。まずは御国に見合うだけの働きが必要ですね」
魔法使いと薬師は国に属しており、軍人と同じでいわば公務員だ。院から離れ店を構えるには成績や評判、オルレンドルに住む年数が重要になってくる。
彼女は一人前になることを望んでいるけれど、サゥ氏族首長の末妹だし一筋縄ではいかないけれど、夢に向かって努力しているようだ。
ここまで聞くと兄の援助ははね除けているようだけど、彼女はある程度のしたたかさも持っている。
シュアンは潜めて喋り始めた。
「私のもとに兄の手の者が送られているのはご存知の通りだと思います」
「あなた自ら知らせにきてくださり感謝しております。ですが私たちに与することで、あなたの実家での立場が危うくならないかが心配です」
「心配ありがとうございます。ですが兄も、いま私の家に住まう者達も、私がこうしてオルレンドル側にお話しに行くのは承知の上ですから、どうぞお気になさらないでくださいまし」
「……シュアンとキエム殿や、配下の方々との関係が拗れなければ良いのですが」
「ふふ、案外さっぱりした者が多いので、互いに割り切っておりますよ。私も言われて黙っているだけの女ではありません」
キエムは妹の望みを知っているし、お互いわかっていながら利用し合っている。私たちも彼女の話を鵜呑みにはできなくとも、貴重な人材として重用していた。
「こちらに来てからというもの、彼らは密にヨーと連絡を取り合っていました。ですが最近少し様子がおかしいのです」
「たとえばどのように?」
「はっきりとは言えないのですが、まず感じるとしたら戸惑い、でしょうか。侍女に調べさせたのですが、どうも大分前から兄からの連絡が絶えているようなのです」
これには驚いた。シュアンも彼女の兄が対オルレンドルに手を抜く人ではないと知っているから深刻な様子だ。
「彼らも兄に任を託されたくらいですから、指令がなければ何もできない人達ではありません。少し連絡が途絶えているくらいなら私に悟らせる真似もしなかったのでしょう」
「その様子では、かなり前から……?」
「ほぼ間違いないと思っています。盗み聞きした限りでは指令の内容が長らく変わっていないらしく、直下の者が対応しているから変化がないのだとか……推測の域は出ませんけれど」
これにシュアンは考え込んだ。
「実は兄が私を通しオルレンドルを謀るのではないかとも考えたのです。ですが祖国は五大部族のうちの二つが入れ替わり、まだ落ち着きを迎えません。母の手紙には内部の混乱は冷めやらぬばかりとありましたから、彼らを放って外に出る政策を取るとも思えないのです」
まして軍事力をオルレンドルに投入する余裕もないはずだ。
ラトリアもそうだけど、内乱を放置して国外に打って出ることはまずない。戦争は基本国力が安定している状態で、入念な準備を整えて仕掛けるものだ。少なくともキエムのような人なら安全策をとる。下剋上が華とされているお国柄だから、身の安全を図るならなおさらだった。
「野心にはひたむきな兄ですから、ドゥクサスの刃の前に斃れたとは考えません。ですがサゥ……ひいてはヨーの動向にはお気を付けくださいませ」
「ありがとう。充分に気を配らせてもらいます。あなたのお心に感謝を、シュアン」
「とんでもない。私がお役に立てることと言ったらこのくらいです」
シュアンのちゃっかりしているところは、現時点ではオルレンドル側もヨーには打ってでられないとわかっていての忠告な点だ。祖国には親や兄姉が残っているから滅ぼされても困るし、情報を厳選して話をしに来ている。
ひととおり雑談を楽しむと彼女は帰っていったが、私はお稽古事の続きとは行かない。ジェフを呼び出すと話の真偽を確かめるべく、使いを出すよう頼んだ。
「話によれば大分前から起こっていたみたいだし、いまサゥ氏族がどうなってるかだけなら、ヨーから来た人に探りを入れればすぐでしょう?」
「たしかに数日かかりませんが……モーリッツ殿と宰相閣下にだけですか。陛下には知らせませんので?」
「シュアンの話ではサゥが動く気配はないし、まずはモーリッツさんやリヒャルトと情報共有を図ってからね。彼らにはこちらでいくらか調べるから、気にかけておくように伝えておいてください」
付け足して言った。
「情報収集だけど、サミュエルにあたらせてもらえますか?」
「……構いませんので?」
「確実な人にあたらせたいの。彼、そういうの得意でしょう」
ジェフの疑問は、サミュエルと私の間には確執があると知ってのものだ。以前はあまり顔を合わせなかったけれど、いまはマリーの力添えがあって、ある程度感情の置きどころが見つかっている。
サミュエルの所属はオルレンドル帝国騎士団第一隊。上官のマイゼンブーク卿にこき使われてるけど、私の傘下に加わると言ったのだから働いてもらおう。
ジェフが退室し終えると、私は椅子にもたれ掛かる。
ライナルトの不調に、サゥの不審な動きと、心配事で心がせわしない。こんなときは友人達と話せたら気を落ち着けられたろうに、話したいときに限って近くにいない。
……これだけで参ってしまいがちな私は打たれ弱いのだろうか。
モーリッツさんの鉄面皮やリヒャルトの狐っぷりに羨ましくなっていると、外が騒がしい。
音を立てて飛び込んできたのは、ライナルトの従士であるヨルンであり、普段礼儀正しいはずの青年は息咳切らし膝をつく。
「申し訳ありません! 火急の報せがあり参じました!」
「いったいどうしたの? もう少し落ち着いて……」
彼が慌てることなんて滅多にない。
嫌な予感が膨れ上がってくるのだけど、心の準備ができる前に彼は叫んだ。
「陛下がお倒れになり、目を覚ます気配がございません。皇妃殿下には陛下の御許まで参じていただきたく、お迎えにあがった次第です」
「……案内して!」
「こちらに」
我を忘れ動き出すも、ドレスがこんなに邪魔だと感じた瞬間もない。裾を持ち上げた駆け足は行儀に反するも、作法など気にする余裕はない。上階まで駆け上がり、奥まった部屋に到着したときには息も絶え絶えだ。
寝台に寝かしつけられた彼の手を取る。
「ライナルト」
名前を呼んでも彼は微動だにせず、侍医長に説明を求めるも外傷は一切ないと説明される有様だ。
「陛下にいったい何があったのです。誰か、知っている者はいないのですか」
「説明させていただきます」
進み出たのはオルレンドル帝国騎士団第二隊長のエーラース。
彼が語り始めた内容に私は耳を疑った。