57.閑話Ⅰ 恋人の時間
目覚めたときには上着だけが残されていた。
椅子から上体を起こすと、食べかけの軽食類がそのままにしてある。
場所は宮廷にある一室で、私の滞在のために用意された部屋。新居予定の部屋じゃなかったのは、あちらの内装が仕上がってないためだった。
「……ライナルト?」
見渡しても誰もいない。
眠りに落ちる前はクッションを上手に使って彼の膝を枕にしていた。
静謐で満たされた部屋に耐えられない。
上着を取って扉を開けば、そこには見知った顔と知らない人が立っている。前者はジェフで、後者は彼が選抜した新しい護衛だ。他にもちらほらと警備の姿が見える。
「ジェフ、ライナルトは?」
「少しの間だけ出てくると」
「起こしてくれたら良かったのに」
「お休みを邪魔したくなかったのでしょう。……熱は下がったのですか」
「そこまで支障はないから平気。……出て行ったってことは仕事よね」
「お会いになりたいのであれば、好きになさってよろしいかと」
「……そう思う?」
しばらく見ない間に、彼も立派な装いに身を包むようになった。シャハナ老好みの美形のおじさまになってしまったせいで、ちょっと笑うだけでも不思議な魅力がある。
……表に出るようになって大分経つし、追っかけが増えてたりして。
「貴女のお好きにして良いと既に言われているではありませんか。それに下手に遠慮など、陛下が機嫌を損ねるのではないですか」
「……じゃあ、行こうかしら」
歩き出したら侍女のベティーナが加わり、他にも近衛の幾人かが付いてきた。彼らは私の新しい近衛であり、私の不在時に設立の最終決定の判が押されている。ちょっと移動するのにぞろぞろ付いてくるのは大袈裟すぎて眉を顰めたくなるが、当面はこの扱いも受け入れないとならない。
なぜなら「この世界」ではちょっと目を離した隙に私が消えてしまった。その期間はおよそ数ヶ月で、多くの人に苦労を負わせてしまったせいだ。
再会時、ジェフには手を取られてしみじみと長いため息を吐かれた。心労が祟っていた姿と、ゾフィーさん曰く、いまの職務を全うし活き活きした姿を比べたら、大仰だからやめてとは言いにくい。まだ戻ってきて七日だし、当分はこのままだ。
ライナルトの行方を追うのは難しくなかった。
もとより行き先はそんなに離れておらず、皇帝の近衛兵も私の姿を認めると目礼してくれる。
部屋には悠々と腰掛けたライナルトの親友方がおり、特に皺を深くした男性に私は喜んだ。
「あ、モーリッツさんだ」
眉間に皺を寄せて目元をピクッとする姿、相変わらずで嬉しくなってしまう。ニーカさんとは頻繁に会っているが、モーリッツさんは元々そんなに会ってくれる人じゃない。せっかくだからお話できるかと思ったら、話す間もなく引き上げてしまう。
残念がっていたら、ニーカさんが笑いを零す。「大丈夫ですよ」と微笑む姿は凜々しさに磨きがかかって惚れてしまいそう。惚れ惚れしていると、ライナルトに隣に座るよう指示された。
彼が見ていたものを渡され、ニーカさんが説明を始める。
「本来ならあいつが説明するべきなんですが……モーリッツが持ってきたのはこれです」
「この計画書って、挙式の市街地お披露目行進?」
「はい。当日まで経路は秘密になりますが、およそこの経路で良いのではないかと、最終確認に」
「けっこう回るんですね。でもなんか……当初の予定より行くところが増えてませんか」
「そう……ですね。実際増やしました」
「ええ?」
挙式。もちろん私とライナルトの結婚式だ。
帰還に際しては残念な点がひとつあった。向こうの世界から戻ってくるにあたって、結婚式の予定日を過ぎてしまっていた点だ。普通なら相当な期間の延期となるはずが、早い段階で四十日後に式を執り行うと決定された。
これはライナルトは私が戻ると断じて準備を整えていてくれたおかげだ。既にグノーディア内ではできるだけの準備が終わり、残りは私と地方領主といった招待客だけ。かなり急だけど、地方に挙式はおよそ一年後と触れを出してあったので、その範囲には漏れないとの判断らしい。
「心配でもおありですか?」
「心配だらけです。だって、行方不明になってたの隠せなかったんでしょう」
耳の痛い話、不在期間が長すぎてやはり私の不在は隠せなかったと聞く。その間なんて噂をされていたのか……まさに”神々の海”で考えていた予想が的中してしまった。あんな戻り方をした手前、私は返ってきてからの時間を戦々恐々と過ごしている。
ライナルトに式を行うと言われたときだって、正気なのか聞き返したくらいだ。民の白い目を想像して怖じ気付いていたら、なぜかニーカさんは笑った。
「問題ありません。むしろもっと早く貴女を妃に迎え、国民にお披露目した方がよろしいのです。それが民意でもありますし、日取りを早めたのも彼らの希望に応えたに過ぎない。ですよね、陛下」
「まだ話すには早い」
「案じるからと黙りを決め込むのは悪い癖ですよ。それで最初逃げられたんでしょうに」
ニーカさんは白い歯を見せる。
「予想通りでしたが、その様子では聞いていらっしゃいませんね」
「聞いてない? なにをですか」
「いま現在の貴女が民になんと噂されているかです」
耳を疑うことを言う。笑っているからには悪い噂ではなさそうだけど……。
「二十日にわたり天まで走っていた光と、そこに出現した不思議な扉。その内側から、もはや幻想と疑われていた精霊と共に帰還された貴女を悪く言うものはいません」
エルネスタ宅で出現させたあの光の柱と扉だ。”神々の海”内の旅はもっとずっと長かったのだけど、そのあたりは時間の流れが違うせいか、出口となるオルレンドルでは、私の帰還二十日前から出現していたらしい。
不可解な神秘の出現は当然グノーディアを騒がせた。そのため当初は厳戒態勢を引いて警戒していたが結局なにも起こらなかったのと、広場が市民の生活に切って離せない場所だったために、最終的には警邏を置いて解放した。
「街はいまや精霊の話で持ちきりで、魔法院への問い合わせのために、魔法使い達が走り回っています」
「それはあの、大変申し訳ないとシャハナ老に……」
「喜んでいたので問題ないでしょう。彼らがあそこまで活き活きとした姿を見せるのは初めてです」
もしかしてそれで黎明とフィーネを紹介したとき、やたら目を輝かせていたのかもしれない。
「それにほら、皆に帰還の挨拶したときも誰も貴女を疎んじてはいなかったでしょう」
そっちはつい昨日だ。私の捜索のために力を尽くしてくれた方々へ、礼を言うための場を設けてもらった。マイゼンブーク氏をはじめとした面々、公の場への緊張と申し訳なさが先立って、どんな顔をしていたかはあまり記憶にない。
これからも続々戻ってくる人達にも順次お礼を言うつもりだ。
民は大丈夫。ニーカさんに言われてもいまいちぴんとこないのは”神々の海”で鬱々と考えすぎたせいか、どちらにせよいまの私は宮廷に籠もりっきりで、外の世界を知らない。
唯一、黎明とフィーネが敵視されていないことに、ほっと胸をなで下ろした。
ニーカさんは晴れ晴れとした笑みのまま続けた。
「ご心配の雪についても、精霊の協力を取り付けています。延期にはならないでしょうから、衣装合わせと練習に専念なさってください」
「そうそれ、それです。どんな天候でも支障はないって言われたんですけどどういう意味ですか」
「では私はこれで。陛下、これ以上は戻ってこなくていいですよ。むしろ私もひと眠りしたいので、仕事を持ち込まれては邪魔です」
「ニーカさーん!」
彼女の貫禄に磨きが掛かったのは気のせいではないはず。
ニーカさんがいなくなって二人きりになると、自然と隣の人を見上げていた。多少恨みがましくなっていたのは否めない。
「どうしてなにも教えてくれなかったんですか。私が不安がってたのは知っていますよね」
「日取りを気にしていたから挙式だけは伝えたが、民の話まですれば関連して他のことも話さねばならなくなる」
「式を決めたからにはそこも聞きたかったんですけど!」
悪びれてない。しかも彼も譲る気がないのか、ご丁寧に顔を寄せ目を合わせる。
「いまの状態ならまだいい。だが帰ったばかりのあの時は、魔力不足と安堵で熱を出したばかりだ。義務感で無理をするとわかっているのに話すつもりはない」
「不安も身体に悪いってご存知ではないのですか」
「だから尚更だ」
「なにがですか」
「どれほど離れていたかわかっているか?」
そんなのはもちろんわかってる。
自分の待遇。服や爪先を見下ろすと違和感が生じてしまうくらいには私は『向こう』に馴染んだ。エルネスタの家では麻や綿の服に身を包み、包丁を握り、腰を折っては雑巾がけをしていた。それがいまや絹やレース仕立ての装いに、爪に肌や髪も丹念に香油を練り込まれてふっくらしている。「なんでこんなにかさかさに」と泣いたベティーナ達の努力の結晶が、私を貴族の女性に戻している最中だ。
いいか、と至極真面目な表情で念を押される。
「まともに動けるようになって三日だ。たった数日の間さえ身を休め、私だけを見ることもできないか」
「そんなことは……」
「このところは周りを気にしてばかりだ。宮廷の環境が焦らせたのはわかるが、もうしばらくは身を休めてもいいはずだ。この通り、まだ微熱が続いているのだから」
引き寄せられ、膝の上に横抱きで座らされると、身体にもしっかり腕が回っている。
まるで逃がさないと言わんばかりの接近は、疑心暗鬼になってる証拠だ。
……つい首に触れちゃうあたりが私も相当なんだけど。
「どうして式を急がれたんですか。こうなった以上は春を待っても良かったでしょうに」
婚約から一年後になったのは私の希望でもあったけど、本格的な雪が到来する前であり、楽しみの少ない冬を賑やかすためだった。
ニーカさんは民意といったけど、最終的な決定を下すのはライナルトだし、今回はとにかく式を強行する意思を感じていた。だって雪は大丈夫と言っても、真冬に式を決行するとなると諸費用も馬鹿にならない。滞在客をもてなす炭代なんかがいい例だ。
私の質問にライナルトは予想外の答えを返した。
「一年待った」
「え?」
「一年だ」
念押しされた。
「貴女を妻に迎えること、これ以上は待ちかねる。カレンの苦労も察しているつもりだが、不在中の私がどれほど退屈だったかも知ってもらいたい」
見つめ合うこと数秒。
屈したのは私であり、首に手を回して抱きついている。
「退屈だったよりも寂しかったの方が嬉しい」
「では寂しかった」
「では、が余計だけどいいです。……いまはもう退屈じゃない?」
「ああ」
なんていうか、私は余計なことを考えすぎたみたいだ。
はじめっから彼やみんなに会いたくて帰ってきたのだから、責務に囚われすぎずこうしていればよかった。
長い抱擁を交わして離れた時には、心がいくらかすっきりしていた。
帰ってから散々抱きしめてもらったはずなんだけど……と感じながら思いだす。
「家の様子が気になるから帰っていいですか」
やだ怖いお顔。