56.“竜調べの皇妃”の帰還
「わたくしのあなたは嬰児と白夜に何をお願いしたのでしょう」
「れいちゃん、シスから聞いてないの?」
「とても悪い顔で、新しい玩具を手に入れた顔をしていましたが、なにも教えてくれなかったのです」
「じゃあフィーネは?」
「聞いてるけど、たぶん、やってくれるんじゃないかしら。わたしの半分は真面目だから、できない約束はしないもの」
「もしかして白夜がどんな魔法を使うか知ってる?」
「わたしの半分だから察しはつくけど、あの子が言わなかったのなら断言はしないでおく」
私の置き土産は、言い訳できないくらいに完璧な八つ当たりだ。
確実に、それはもう、間違いないくらい良くないことなのだけど、一度別人で実行しているから、思い立ってしまうのも早かった。病床のレクスに心中を吐露された瞬間からこの案を考え、白夜とシスを認めると欲求に従った。
私は白夜にレクスの延命を頼んだ。
なんでそんなことをしたかって、腹が立ったから。皇帝に目の前で首を斬られたこととか、ヴァルターを置いていこうとしている点とか、奪ったくせにあとは知らないぞってすっきりした顔が許せなかった。
あちらの世界には深く干渉しないぞと決めた誓いを、最後の最後で撤回したのだ。
理由はもちろん、生きてオルレンドルを率いる立場を押しつけるため。
病人であることを盾にして籠もっているのだから、健康にしてしまえば嫌でも立たねばならなくなる。せめてオルレンドルが立ち直る数年だけでもいい、彼を健常な成人男性にできないかと相談したところ、はじめは難色を示された。
ヴィルヘルミナ皇女のときと違い、彼は死にかけの病人。治癒魔法は細胞の活性化を促すものだから、悪性の腫瘍など細胞が原因の病気の場合、細胞を元気にする行為は寿命を縮めかねない。むしろぽっくり逝ってしまう可能性が高い。
そちらの知識と技術はまだまだ不足しているが、精霊ならばと思って相談したら白夜が言った。
「不可能ではない」と。
ただし条件があった。レクスの延命は永遠ではなく、できて三年から五年。その期間だけでいいなら彼を健常な成人男性にできると言った。
「たった数年だけだ。これから激動の時代になると思えば人の身でもあっという間だろう。それでも良いなら実行しても良い」
「……本当に? お願いしておいてなんだけど、危険な目に遭うなら約束しなくていいのよ」
「別に汝の頼みがすべてではない。我……私からみても、あれは生かしておいた方が今後有利に働く。いまあの国に沈まれては、内乱や領土侵略で大地が穢れよう」
「あら、人の世界に大分詳しい」
「これでも長生きしているのでな」
苦労人らしいため息を吐いて了承してくれたけど、最後までどんな手段を用いるのかは教えてくれなかった。
白夜が私の願いを叶えてくれているのなら、レクスには、私の八つ当たりを存分に感じてもらいたい。あと勝手に説得を任せ、期待をかけて最終判断の材料にした怒りも同様だ。
他には養子にしたスウェンの柱に、心の置きどころに迷っているヴァルターの心の整理に役立ってもらう必要もあるが、片思いに決着をつけるのは自由だから何も言う気はない。でもエルネスタを不幸にしたら最後まで恨むつもりでいる。
そんな話をしたら黎明はぽつりと「そうですか」と呟く。病人の寿命を延ばす行為、二人の様子に初めてある考えが過ったけれど、確信は持てず終いでこの話は終わった。
それからも歩いた。
ずっと、ずっと、気の遠くなるくらい、ただひたすら歩いた。
道は一直線ではない。時折くねっているし、崩れ、ただぼうっと歩くだけは許されなかった。時間の流れを感じる心は曖昧だったけど、楽しい時間ばかりでもない。無言で足を動かし続けていると、いつからか退屈のあまり欠伸を漏らす時間が増えてきた。
どのくらい歩いたっけ、と大丈夫だったはずの心がうっすら不安を感じる時間も増えて、なんとなしに心が警鐘を鳴らし始める。
帰りたいなぁ……そればっかりが心を占め始めたころ、目視できる距離に『扉』を見つけたとき、私は立ち尽くした。
「あった」と宵闇が呟き、黎明は駆け出した私が転ばぬよう注意を払った。両手が『扉』に触れた瞬間は、言葉に言い表せない感情が溢れて声にならない。
「内側に繋がってるのを感じる、開けていいわ」
宵闇に保証してもらい、ゆっくり力を込めれば、扉の隙間から柔らかな光を伴って、私の世界が露わになる。
ぼんやりとした暗闇になれた目には太陽の光は眩しすぎた。
木の軋む音が終わると、目前には青い空と白い雲が広がっている。もっと美しい言葉で表現しようにも、浮かぶのは綺麗、の一言ばかりだ。
ぼうっと空を眺めていたら、足元のざわめきに気が付いた。
眼下には数十もの人々がいた。
そこは見覚えがある。グノーディアの中央噴水広場で、私たちはその噴水の上に『扉』ごと出現していたのだ。広場にしては軍人の数が多いけど、大半は市民で溢れかえっている。ちょうど人が多い時間帯だったのか、ざわめきや動揺が伝染してさらに人を呼んでいた。
「なにしてるの、閉じる前に早く入らなきゃ」
足元に不可視の階段が出来上がり、宵闇に手を引かれ『中』に入る。そうして扉を見上げれば、エルネスタ家と同様、噴水広場から空に向かって光の柱が伸びていた。
宵闇が二枚扉を閉じれば『扉』と光の柱は消滅した。
帰ってきた実感と、久々に太陽の光を浴びた感覚。青い空がこんなに愛おしいと感じるのは初めてで、ひたすら空を見上げていたが、身を切るような寒さに驚いた。
……冬が到来し始めている。
本来だったらとっくに式が行われている時期ではないかしら。
「消えてないわね」
「……そのようです。いえ、もしかしたらもうすぐ消えるかもしれませんが」
「だったらもう消失が始まっててもおかしくないわ。多分だけど、こちらの精霊郷にもうあなたはいないのね。あら……だったら”明けの森”はどうなってるのかしら」
季節に気を取られ失念していたけど、黎明は存在を保っている。困ったように彼女は笑っていた。
「わたくしのことは良いのです。ですからわたくしのあなた、あなたはいま、ここであるべきことを成さねばなりません」
「だったらちょうど軍人さんもいるし、保護を求めましょう」
「いいえ。戻ったばかりで負担を強いて申し訳ないのですが、わたくしを本来の姿に戻してください」
トンデモなお願いだ。街中でそんなの了解できるわけないのに、渋るより早く黎明に魔力を奪われ始める。本来私に遠慮しているだけで、彼女の方が上位存在だ。
人ならざる美貌を持った美女は消え、ばちばちと細い雷を伴って竜が顕現する。重みに耐えきれず噴水が壊れるも、市民がぽかんと口を開くか、物見遊山で“薄明を飛ぶもの”を見上げるだけ。こちらの人達も、竜という生き物を知らなかった。
小遣いの範囲で被害額は賄えるのかしら。
竜の咆哮はグノーディア中に轟いたのではないかと思うほどに轟いた。
「……わたし、呼ぶまで消えてるわね」
「あ、ちょ、フィーネ!」
なんか面倒事を避けてちゃっかり消えた感じがする!
私の身体は竜の上にあった。翼が動くと一帯に強い風が吹き抜ける。人々にとってまるで見たことのない巨大生物は力強く、決して忘れられない印象を植え付けるだろう。なによりこの白銀の鱗を併せ持つ生き物は、殺戮ではなく飛翔するためだけにここにいる。輝かしい姿は人々の目に焼き付いたはずで――。
「ちょっとまってこれどういうことー!?」
私の予定では人気の無い山に舞い戻り、ひっそり宮廷に戻って、皆と静かに再会するはずだったのに、なんでまた竜の背に乗る羽目になってるのだろう。
止める間もなく黎明は飛翔し、帝都の周辺を旋回する。ゆっくりと二周ほど廻ると今度は長い咆哮を轟かせるのだが、まるで謳っているかのような趣を感じ取れるのが不思議だ。三周目の旋回がおわったところで高度が下がり始めた。
「れいちゃんれいちゃん、お願いだからわけを説明して!」
”神々の海”で彼女は相当量の力を消費している。私の魔力だって十全ではないし、ましてここはあちらの世界ほど大気に魔力が充実していない。したがって消耗は激しく、彼女だってつらいはずなのに、飛ぶのを止めないから、こちらは疑問を呈するしかなかった。
説明を求めてみたが、疑問は数秒後には解決した。迷わず一直線に降りる先は、グノーディアの中心地であり、一番広い前庭を有している建物だ。まばらに点在する人々が空を見上げ、竜の姿を認める。高度が下がり続ける中で、見覚えのある人物に視線が飛んだ。
前庭は宮廷の入り口だから、馬車の出入りを兼ねている。普段だったら彼が生身で前庭に出てくるなんて滅多にないのだが、この時ばかりは配下を引き連れ、大股で先陣切って出てきていた。誰に言われたわけでもないだろうに、空を見上げまっすぐに竜の姿を確認する。
まるで誰かに呼ばれたかのように――。
「ライナルト!」
黎明はうまく地面に接地してくれたけど、私は着地に失敗した。思った以上に高さがあったせいで足に走る衝撃が強く、べしゃっと前のめりに転んでしまうが、帰ってきた喜びに痛みはあんまり気にならない。
起き上がり、もうすぐそこまで迫っていたライナルトに向かって駆け出す。
「カレン!」
何度も何度も会いたいと、触れたいと願っていた人は、手を伸ばしたら届いた。今度こそちゃんと指で存在を確かめられた。
胸に頭を擦りつけて本物だと認める前に、すでに涙腺はぐしゃぐしゃで、鼻の奥は痛い。ごつごつした手の平が頬を包み込むと視線が交差する。親指が涙を拭ってくれるも、涙の量が多すぎて間に合わない。
しばらくお互い声がなかった。細まった瞳の奥にある暗い懊悩は、私が本物かを検めているのだろうか。
「探した」
違った。単に心配してただけだ。
飾らない不器用な一言で、彼の中に在る万感の想いを感じて何度も頷いた。
ただいま、や、ごめんなさい、は発音に失敗したが、なにか行動を起こさなきゃいけないと思ったら、首に手が伸びていた。
「く……」
「く?」
「くびぃ……」
そしてまたびいびい泣くから始末に負えない。首を気にしてしまうのは……いえ、繋がってるから生きているし喋っているのだけど、強制的に頭の端へ追いやっていたあの人の最後の笑みが想起されて確認せずにはいられなかった。
あなたじゃないけど、あなたの首が落ちたのを見てしまった。
あの人の死まで背負い込むとつらくなるから目をそらしていたけど、もう我慢しなくて良いし、する必要はない。
抱え続けていた不安をひっくるめて強く強く抱きしめてもらう。
一生経験できないであろう平行世界の旅は、しょっぱい塩味と共に終わりを迎えた。
今章及び次章も終わりまで書籍化を決めていただいております、どうぞよろしくお願いいたします。