52.敬愛と親愛の果て
皇帝がいなくなってからのグノーディアは以前のような活気を取り戻したと聞く。
皇帝派だった人々も、ライナルト帝の死には動揺を隠せない。レクス達の勢いに呑まれ、騒ぎになることもなく事態は収拾した。
よく言えば圧政からの解放。けれどいささか意地悪な目で見てしまえば、盛り上がらなければ彼らには後がないせいだと考えてしまう。
皇帝は死んだ。民を想う心優しき英雄の決断によって滅びた。事実、あの人の政は民を想うものではなく、自らの道を突き進んだ結果だといえばそれまで。もういない人と話すことはできないし、現実を受け入れるほかないが、それはそれとして、オルレンドルの政を知る人間として気になる点はある。
懸念があるのだ。
そのことを問いにリューベック家へ赴いたのは、元の世界への帰還を数日後に控えたある日。エルネスタの家で充分な休息をとってから出かけた。
普段使う門に人気が少なかったが、どうやらグノーディア正門に見せしめにされた王の首をひと目見ようと、人々はあえて遠回りしているらしい。
出迎えてくれたヴァルターは帝都の状況を教えてくれるのも兼ね、何度も見舞いに来てくれていた。皇帝が自死した後は出仕を控え休んでいる。
「レクスは気力だけで立っていました。陛下が斃れた後は伏して、すっかり立てない体に。ですが貴女とは会うと言っています」
救国の英雄に会いたがる人は多くいるも、訪問客は一部を除き断っているらしい。家の業務はすべてスウェンが代行して、ヴァルターが手を貸している状況だ。
レクスは大分やつれていた。もう服で痩せ衰えた体を誤魔化す必要もなくなったらしく、寝衣姿で再会し、私は寝台の傍に置かれた椅子に腰を下ろした。
「思ったよりも元気そうでよかった。フィーネ……いまはカレン殿と言うべきかな」
「こちらで慣れ親しんだ名前はフィーネです。そのままで結構ですよ」
平然と対応するか、こともなげに皮肉を言うかを悩んでいたが、そのどちらも止めた。
「長くないんですか」
何が、とはあえて問わない。レクスも「そうだね」と平然と肯定した。
「あと三月持てば良い方だといわれているけど、実際はもっと短いのではないかな」
「すっきりしたお顔をされてます」
「やることを終えてしまったからね。未練がないと言ったら嘘だけど、まあ、生涯をかけた大仕事は終えたつもりだ」
傍にはヴァルターが控えている。
彼は兄の未来を静かに受け入れていた。
「刺しても良いよ……と言おうと思ったけど、そのつもりはないみたいだね」
「そこまでする義理はありません。同時に、刺したいと思えるまでは憎めません。……あなたのこと、嫌いじゃないですから」
たったこれだけの会話でも彼の肉体は疲れを訴えるらしい。緩く息を吐くと枕に背を預けて一息つく。
「正直、私は君が妬ましいよ」
思ってもみない告白だった。
私の反応が意外だったのか、彼はくすりと微笑む。
「そんなに意外かな」
「……かなり」
「だとしたら可笑しいな。君の正体がわかった後など、エルネスタには嫉妬が丸見えだと怒られていたのに」
自身の手を見つめ、拳を握る。
「色々な人を裏切ってきたけれど、私はライナルト様だけは敬愛していたよ。……これも意外かな?」
「そうですね。レクスは、オルレンドル民の側だと思っていました」
これには愉快そうに喉を鳴らした。そういう仕草はヴァルターにそっくりだったけど、よく観察すれば、こちらの方が、いささか毒も強い。
「民も大事だけれど、私が彼らを思うはひとえに陛下のため、陛下の国を安定させたかったからだ。私個人はどうでもよかった。主として仰ぐと決めてからは誠心誠意……あの方の御代が続くよう支えていたよ」
皮肉にも、その皇帝を想ったすべてがレクスに返ってきて己の評判を高めてしまったが、と呟いた。
「……だからヴィルヘルミナ皇女殿下も?」
「あの方は周囲を盛大に巻き込んで死のうとしていたからね」
エルネスタに聞き出した。彼は皇位簒奪時、密かにヴィルヘルミナ皇女陣営に属していたが、実際はライナルト皇太子寄りの人だった。どっちつかずのコウモリとして立ち回っていたら、この事実を掴んだ人がいた。
それがキルステンの当主アルノー。
公式記録では降伏したヴィルヘルミナ皇女の死を調べると不審な点がいくつか出てくるのだけど、いまの発言を察するに、彼は土壇場でヴィルヘルミナ皇女を裏切ったのではないかと思う。
キルステン当主が心を病んだのは、皇女より遅れてしばらくして。時期を察するに、もしかしたらすぐに証拠は出なかったか、あるいは告発の準備でもしていたのかもしれない。ともあれレクスにとって都合の悪いキルステン当主は薬で心を壊され、二度と目覚めることのない夢を揺蕩っている。
殺さなかったのは二人は仲が良かったからとも聞くけど、真実はレクスにしかわからない。少なくとも療養院にリューベック家が援助を続ける限りは二度と生活は脅かされない……と思うしかなかった。
私の場合は皇女の側近を惨殺することでひとりの命を取ったけど、こちらの世界の場合はレクスがひとりを殺し、大勢を救ったわけだ。
「陛下に私の声が届かなかったのは己の力不足ではある。だがね、私の声はこれまで一度たりともあの方に響かなかったのに、余所から突如やってきた子がいきなり存在を認めてもらえたのは……かなり堪えた」
「……それなのに私に説得させようと?」
「妬みで目を曇らせはしない。それに陛下の御代を続けるため、精霊を認めて欲しかったのも本当だ。彼らと手を取り合えさえすれば、オルレンドルはより強固になった。エレナ・ココシュカの例をみればそれは間違いなかったというのに……」
エレナさんの名に密かに拳を握った。
「これは単なる興味本位で、あなたを裁こうだとか、そういうつもりはないのですが……」
「どうぞ。君が去り行く方であるならば、回答できる範囲で答えよう」
「ニーカさんを送ったときには、決意は固められていた?」
答えは期待してなかったけど教えてもらえた。
「そうだね。彼女は私に理解を示してくれていたが、陛下を裏切らないのも知っていた。竜に襲われずとも、どのみち帰らぬ人になっていたはずだ」
トゥーナの状況を利用し、危ない橋を渡ってまで兵を貸し出し、ニーカさんを戦場に送り出した。
ヨー連合国がこの一件に噛んでいなかったのかが気になるけど、そこまで尋ねる気にはなれない。
……なんとも言い難い感情が胸を占めるも、伝わるのは単純な感情だ。
あのとき、ライナルトを説得してほしいと言ったときのレクスの言葉に嘘はなかった。おかしな話だけど、裏切った臣下はいまだ主君を敬愛している。そして彼を殺したいま、死んでも構わないと命を諦めている。
「民は大事であり、この心に嘘はない。けれどそれ以上に、陛下には恐ろしくも偉大な王のままでいてほしかった」
この人は民の安寧を願いながら、同時にライナルトもとても好きで、複雑な心境を抱えていたらしい。
「あれから色々考えたんです。スウェンを養子に取ったのはあなたが王になり、空になったリューベック家を任せたいからだと思っていました」
「スウェンを養子に迎えられたのは本当に幸運だった。孫の顔が見られないことだけが心残りだよ」
でも違った。彼はもとより玉座に興味がない。
この調子ではリューベック家自体にも執着がない。
けれど彼自身が定めた条件を満たしたスウェンを養子に迎えたのは……きっと、これから生きる指針を失う弟のためだ。
「陛下のおっしゃった通り、小心者の私に玉座をかすめ取る勇気はない。オルレンドルの完全崩壊を防ぐだけで、死にゆく身では面倒は見きれない」
「それでは誰も納得しないでしょうに」
「いやいや、私が王になるとは一言も言わなかった。彼らが勝手に誤解しただけさ」
詭弁を弄して皆の希望を煽ったあたりは、実に皇帝の配下らしい。
国を憂いてはいるが、その後まではもう考えきれない。捨て身だからこその最期の命を賭した反乱だった。
私の懸念は当たった。
いくらライナルトが滅びをもたらす皇帝だったとしても、精霊を認めないとは言っても、オルレンドル皇帝は国を導く先導力が備わっていた。
レクスは皇帝はもとより指導者にすらなる気がないとすれば、次は誰が王となればいい。ヴィルヘルミナ皇女は亡き人であり、ヴァイデンフェラーではその格が足りず、またその人柄ではない。
「周りは何と言っているのです」
「皆は私を王に据えるつもりだったが、断ってからは来客が絶えない。……最期くらいは、家族の時間を持たせて欲しいのだけどね」
「無理ですよ。私もあなた以外に浮かびませんもの」
一応、私もライナルトから前皇帝の他の隠し子の存在は聞いている。その人達を含め他の皇族を持ち上げる可能性もあったが、皇帝に及ぶ人気は得られない。やはり玉座に就くとしたらレクスしかいないのに、彼は一切やる気がない。
宰相には他に王を立てるなら好きにしろと言っているだけで、本当に、皇帝を斃すことだけしか目的になかったらしい。
これからオルレンドルは混乱を迎える。
いまは皇帝が死んだ熱に浮かれて誤魔化せている。きっとレクスが新しい王として立つのだと疑っていないのに、国はいつまで真実を隠しきれるのだろう。
「エルネスタさんも置いていくんですね」
「……なんのことかな?」
「なんでも。彼女を幸せにできない人なんてお呼びじゃありませんもの」
レクスを見ていると、彼女にだけ向ける視線が違うのは丸わかりなのだけどね。
「最後までぎすぎすした空気で帰るつもりはありません。お客様は受け付けてないとのことでしたが、私のお願いなら明日の予定は開けてくださいますよね」
「ふむ、明日かね」
「最後に皆さんでお食事をして帰るくらいは許されるでしょう?」
「用意させよう」
「お願いします。もちろんレクスも、参加してくださいね」
「善処する」
部屋を出る直前に教えられた。
「モーリッツ殿だが、軍を辞された。今後は政に関わるおつもりがないそうで、バッヘムにのみ力を注ぐそうだ」
「あの方だけが最後まで逆らったのでしょうに、寛大なご処置をありがとうございます」
「決めたのはご本人だし、無駄死には出したくないだけだよ。それとニコに会っていってくれるかな、君に会いたがっていた」
「そうします。……それじゃ、また明日」
リューベック邸を後にすれば、お祭り騒ぎの帝都内は、変わった色の髪の子達が歩いている。通りだけじゃなくて市場もそう。どの子も明るい表情なのは、もはや魔法院の制服を強要される必要がないためだ。
新しいオルレンドルでは“色つき”を“眷属”と改めた。
道ばたでちょっとした魔法を披露して人々を驚かせても、差別されることのない当たり前の世界は、彼らに希望を与えている。
いまや帰るべき場所となったエルネスタ家も、残り数日となれば寂しくなる。
玄関を潜れば当たり前のようにシスと白夜が滞在していた。前者はここをねぐらとしているから当たり前として、後者は宵闇を隠している関係もあり、私を送り出すまでは精霊郷に戻りたくないらしい。ならばということでここを紹介したらすっかり居着いてしまった。
精霊集会所になりつつあるエルネスタ家。私の部屋は整理をはじめているけど、空き部屋になった後はどうなってしまうのだろう。黎明とシスが活用してくれると思うけど……。肝心の黎明は、魔力の回復が追いつかないのかほとんど外に出てこない。シスとはよく話しているみたいだけど、なにを話しているのかは教えてもらえなかった。
「エルネスタさんは?」
「風呂行って部屋にもどった」
「この間から自室に籠もりっきりだけど、なにやってるかわかる?」
「さーてね。それよりパンケーキ食べようぜ、パンケーキ。果物をたっぷり乗せてカスタードと、溶かしたチョコレートをかけたやつ」
ニコに材料や調理法を残した冊子を託していくつもりだけど、ずっとこの調子でせがむとしたら心配だ。
「あなたたくさん食べるし、たくさん焼くから時間がかかるんだけど……」
「でもこっちの彼女も食いたいって言ってるしさ」
「白夜が?」
彼女、これまで人の食事を口にしたことがなかった。興味も示してなかったから驚きに目を見張ると、恥ずかしそうに視線を落として俯く。
「汝らはあまりに幸せそうに食べる。嬰児が『美味い』は『幸せ』と言うから……」
「純精霊ほど加工食は必要としないから興味ないもんな。あと嬰児はやめろ僕は大人だ」
「…………どう見ても幼子ではないか」
この二人もけっこう仲が良い。
白夜が食べたいというなら手抜きができなくなっちゃったな。
「白夜。多めに作るから、あとであの子のところにも持っていってもらっていい?」
「良いのか?」
「暇してるんじゃないかしらと思うの。余ったサンドイッチも持っていって」
いまは白夜の隠れ家から出てこられない宵闇。彼女にはせめてふわふわの美味しいパンケーキで、半身と最後に過ごす時間を作ってもらおう……と決め、小麦粉を取り出しながら、先ほどからずっと考えていたことを口にした。
「エルネスタさんが出てくる前に、二人にだけ相談があるんだけど……」
関わってはいけないとわかっているのに、私も悪巧みが板についてきたかもしれない。