51.ここに留めて良い鳥ではないのに
ライナルトに似通った面差しを認めると頭を掻きむしりたくなる。
「お前を待つ者のところへ帰れ」
お礼を言ったら最後、彼との話はここまでになる。ぐずぐずと迷った挙げ句に出てきたのは、諦めの悪い言葉だった。
「モーリッツさんが悲しみます。ニーカさんもいなくなったのに、あの人を一人にするんですか」
責任をモーリッツさんに押しつけるのは、我ながらどうかと思うけど、もうあの人を理由にするくらいしかない。
親友の名を聞いた皇帝は満足げだ。
そうか、と言いたげな表情にこの人の性格が出ているけど、この諦めの良さは欠点でしかない。
死んで欲しくないのに声が届かないのは残酷だった。
私が帰らないからか、皇帝の目線が窓に向いた。無言の命令に、はじめは嫌だと首を横に振ったけど、相手の意思は変わらない。諦めて窓に寄り、鍵に手を掛けた。
こちらの『目の塔』の窓は塞がれていないから簡単に空いた。いつの間にか曇天に覆われていた空からはぽつぽつと雨が降り出し、湿った風が室内を巡りだす。詩人でもいたら空が皇帝の死を悲しんでいるとでも唄ったかもしれないが、私は恨みがましく空を見つめる。
未練がましく傍らに残り続ける。
皇帝は浅い呼吸を繰り返す。
また見送る側になりつつも左手を重ねれば、一度だけ握り返そうとして……拒絶された。
「帰れと言っているだろうに」
自嘲気味に呟く真意は不明でも、たしかなことがひとつある。
階下から足音が迫りつつあった。
窓の開閉で気付かれたにしては早すぎるから、三人組が事前に知らせでも送っていたのかもしれない。
もはや完全な行き詰まり。どこにも行けないこの人の道の終わり。
生ぬるい風が金の髪を揺らしたのと、皇帝に終焉を与える人を招いたのは同時だった。
「陛下、ここにおられましたか」
まさか直接お出ましになるとは思わなかった。
本来、皇帝を警護すべき近衛に守られたレクスが『目の塔』最上階に到着した。無理をしたのか息が上がっていたが、皇帝を前に礼を失するつもりはないらしい。
常と変わらない様子で主に頭を垂れ、私には言うことを聞かない子供に接するように微笑みかけた。
「君については、さて、弟にも困ったものだ。かといってあの子を咎めるつもりはないがね。……彼らは殺したのかな」
「使い魔には、陛下を手にかけようとした場合だけ、気絶させるように命じました」
「分別ある行動に感謝しよう。私も君に危害を加えたくない」
近衛が踏み出そうとしたところをレクスが留める。
理由は私が間にいるから。皇帝を背にしてレクスとの間に座り庇っていたためだ。
「どうして邪魔をするのかな」
「……邪魔はしません」
「いま、立派な妨害になっている。……離れなさい、陛下は君が思うよりも動けるし、背後から斬られてもおかしくない」
「言うとおりにしたら陛下をどうするつもりですか」
「……宮廷に案内させていただくよ。皆に正しく、ライナルト陛下の治世が終わると理解してもらうために」
「殺すためにですね」
わかってる。これからのオルレンドルを引っ張るのはリューベック家のレクスだ。時の権力者に逆らう愚かさは承知しているが、それでも皇帝は渡せない。
さっきまで救いを求める理由にしてたリューベック家のレクスは、ライナルトを助けるつもりがないとここではっきり伝わった。
「陛下を渡しなさい。フィーネならわかるだろう、オルレンドルのために、この方には最後の役目を果たしてもらわねばならない」
「晒し者にして反乱の正当性を掲げる。そうやって自分たちの正義を認めさせることがオルレンドルのためですか」
「その通りだ。陛下の死には意味を持たせなくてはならない」
ここまでくると、私が残る意味も変わってくる。
皇帝の意思を変えることはできずとも、せめて静かに逝けるまで待ちたい。
「必要性は否定はしませんが、その程度だったら退く理由にはなりません。皇帝の肉体があればいいのですから、生きている必要はありません」
「兵の士気に関わる」
「自分たちで決断した反乱でしょう。その瞬間だけの決意で動くのはまだいい。自らの行動に責任を取れず、反逆の事実を背負えないのなら、あなたたちはそれまでです」
「フィーネ、民とは指導者に先導されてはじめて意思を持つ集団になれる。個人の意志は弱く、正義を掲げさせねば強くはあれないんだよ」
「だから処刑台送り?」
「それが王の役目だ。民衆を苦しめた王にできる最期の奉仕だ」
正義を掲げた処刑台という催し物は熱を上げ、一同の連結を高める。レクスの言い分はわからないではなかったが、私を納得させるには至れない。
「いま、私はこの人を静かに逝かせると決めました。あなた方が強くなれるかどうかなんて関係ないし、道具にするのは認められません」
「君も無事に帰りたいだろう」
「レクス、その脅しほど無意味で陳腐な言葉もありません」
「……いいのさ。陳腐で馬鹿みたいな正義であるほど、民は信じたくなるものだから」
これからのレクスは栄華を極めるだろうに、ちっともこの状況を楽しんでいない。
私はどのくらい時間を稼げるだろう。レクスが近衛を動かしたとして、この狭い部屋なら黒鳥の方が能力を生かせる。
誰かの死を見送るのなんて大嫌いなのに、いまはそのための時間を稼ごうとしているのが滑稽だ。
そう思っていたら、背後から服を掴まれた。
彼にはもう力が残っていないと思っていたから油断した。
皇帝に後ろから抱えられ、喉元に刃を突き立てられている。
「陛下!」
あの弱っていた姿はどこにいったのだろう。この時のために体力を温存していたとしか思えない強さで立ち上がり、私を盾にして距離を取る。
「陛下、お止めください」
「ニーカやヴィルヘルミナ達の時とは違うな。邪魔とあらば消さずにはいられない小心者は、よほど精霊共の心証を良くしたいらしい」
……ヴィルヘルミナの伴侶?
その言葉に該当する人はひとりしか知らない。レクスはというと、痛いところを突かれたといわんばかりに顔を顰めていた。
「ご存知だったのですか」
「ヴィルヘルミナの件は……どうでもよかったがな。ニーカはもしやとは思っていたが、証拠を掴みきれなかった私の負けだろう」
声でわかった。この人は今際の力を振り絞ってるだけで、これが多分、本当の最後だ。
抵抗はやめた。しても意味がないし、傷つけられる心配なんてしてない。
帰れって追い返そうとしたのだから、いまさら妨害はしないはず。それよりも私がレクスに対して有用な人質になった方が驚きだ。
皇帝はレクスに言いたい言葉があったらしい。
「勝敗の是非は問わん。私はこの生き方を良しとした、お前達がそうしたいなら、そうしろ」
淡々とした物言いはいつも通りなのに、レクスがいたく傷ついていたのは……罵倒してもらって、罪悪感を薄めたかったからなのかもしれない。下唇を噛み、はじめて恨みがましげに主君を睨み付けると、皇帝が笑ったのを感じる。
けれど予想外だったのはここから。
まだ伝える言葉があるはずと考えていた全員が虚を突かれた。
「だが」
拘束が解かれ背中を押された。
強い力に勢い余って転びかけたところをレクスに支えられる。
振り返ったとき、瞳に飛び込んだのは信じたくない光景だ。
……なんで、どうして、一番あなたらしくない選択をしている。
剣を手に持つのであれば、終わりの瞬間まで抗い続ける人だと皆が信じていたから、私も、レクスも、近衛達も意味を解するのが遅れた。
曇天から漏れる光を浴びて、皇帝は自らの首に刃を添えている。
――やめてほしい。どうしてそんな胸がすくような笑顔でいられるの。
「引き際は自分で決めるものだ」
レクスが叫んだ。近衛が走ろうとした。私も飛び出したにも関わらず、この手はあと一歩が及ばない。彼はただ喉を狙っただけじゃなくて――。
最期に残していた力はこんなことのために使いたかったのか。
胴体が崩れ落ちるのに合わせ剣が落ちた。装飾が最低限しか施されていない柄は見覚えがある。私も良く知る彼の愛用品だったと、どうでも良いことを思い出した。
目の前に血で汚れた金髪が転がっている。
すべてが終わったとき、誰かがぽつりと呟いた。不思議と畏敬の念さえ籠もっている。
「なんということだ。ご自分の首を自ら落とされるとは、なんと苛烈な御方だったか」
拾い上げた首はまだあたたかい。
勢いづいていたせいか表情は歪なままで、瞼を落とすといくらかましになった。腕の中に抱えたら服にじわりと血が滲む。意外とずっしりしてたけど、私の知る皇帝の質量には程遠い。さらさらの髪は馴染みがありすぎて、本来伴うはずの重みが足りなかった。
レクスは私から首を奪わなかった。
正確には『目の塔』から降りるまではそのままにした。
階段を降りる間は誰の力も借りなかった。一歩一歩が鉛を仕込んだみたいに重く、降りるまでに時間を要したが、終わりはやってくる。
首を離すときだけは人の手を借りた。落ち着いていたつもりだがうまく声にならなかったし、手伝うのがヴァルターであれば拒否はできない。
彼は皇帝の首を丁寧な手つきで扱い、レクスの手の者に引き渡す。
輪に加われないヴァルターに背中を押され、『目の塔』を後にするとき、胴体が運び出されるのを目にした。
首と胴の行き先は宮廷の入り口か、グノーディアの広場か、それとも正門か。
レクスの声が響く。
「愚かな戦を繰り返し、民を苦しめたオルレンドル皇帝はここに滅した。これからは我らが道を開き、新たな時代を作る番だ」
動乱が終わる。
降り出した雨にも負けず熱に浮かれる集団を後にした。
フィーネあるいはフィーニス:古典ラテン語等で「終わり」
レクス:ラテン語で「王様」