50.それはあまりに誇らしげで
ヴァルターは私を行かせたくないらしいが、それが少しおかしかった。
妨害したいならはじめから助けなければ良い。なのにわざわざ手を貸して忠告までしてくるのだから、そういうところが彼の律儀さを物語っている。
「陛下は……」
「きっと誰の言うことも聞いてくれません。私の言葉も届かない、ですよね?」
「貴女には傷ついてもらいたくない」
「行っても行かなくても、結局傷は抱えるのだろうと思います。知らない振りを頑張ってみたけど、あの人がライナルトという人である限りはきっとそう」
「あの血の量では先は長くない。見送りたいのですか?」
「まさか。私は置いて行かれるばっかりですから、誰かを見送るのは本当に嫌いなんです」
固く握られていた手の力が緩む。
「でも必要な事です。少なくとも私と、私のライナルトのためには」
私は私の自由意志に任せてくれる友人に加え、「行っては駄目だ」とも言ってくれる友ができたのが、こちらの世界での誇りだ。
「それにね、陛下には私の胸飾りを返してもらわないといけません」
会う理由は充分出来上がっている。これにヴァルターはいたく驚いた。
「陛下がなぜ……貴女の帰還には返す必要があると申し上げておいたのに」
「わかりません。それも合わせて聞いておかないと。……大丈夫です、これでも結構修羅場は超えてきてます。見つかったってすぐ斬りかかられるわけじゃないし、むしろ気が楽なくらいかも」
「斬りはしないでしょうが、拘束はしてくる。……陛下の信奉者も、反乱に加わった者、どちらも貴女の味方にはなり得ない。誰であろうが信用しないように、気をつけて」
「ありがとう。引き留めてくれて嬉しかったです」
認識阻害の魔法をかけると、部屋を飛び出した。
思い出すのは私のライナルトに教えてもらったあれこれ。彼にはお気に入りがいくつかあって、婚約後に教えてもらった場所は、皇太子時代から利用していたと聞いている。
皇帝はライナルトとは違うけど、根っこが同じならお気に入りくらいは変わらないはず。彼が気に入る条件は、人気が少なくて寝転がれるのが大前提。併設の小図書館や、景色がいまいちで使われにくい客間に目星を付けており、そういった場所に向かうかもと考えたが、宮廷はくまなく捜索されている。近衛だって反乱に参加しているのなら、宮廷の穴を突かぬはずがないので、いま考えた場所は除外した。
だから一番あり得なさそうな、嫌っている場所を当てに行く。
正直そこにいなかったらお手上げだけど、道順はわかっている。
長い廊下を駆け抜ける間に、皇帝の居場所を探す軍人と何度もすれ違い、反乱に加わった人は口々に皇帝の悪道を叫んでいた。
「オルレンドルを乱した大罪人を捕らえろ」
「欲望のままに民の命を奪った悪逆非道の王を許してはならない」
「彼の王についていては我らの家族が殺されるぞ」
「皇帝を殺せ。正義は我らの元にある」
ヘリングさんともすれ違ったけれど、彼は沈んだ表情をさらに曇らせ、人の輪から外れている。集団に背を向けて孤独になる背中は誰を思い描いているのだろう。
一端の兵までもが皇帝を追い詰める状況は胸が痛くなるけど、俯瞰的に眺めればその殆どが熱気と恐怖に駆られている。
それもそのはずで、大体の人は皇位簒奪時の少数精鋭達ほど覚悟が決まっていない……と思う。彼らからすれば、この反逆は国を守るための正統な行い。成功させれば傾いた国を救う英雄で、失敗すればたちまち国賊だ。皇帝は正義の名の下に息の根を止めねば正当性がなくなってしまう。
少し憐れだ、と思うのは私がかなり『ライナルト』側の人間になってしまったからか。
中にはいま迫害しようとしている王に傅き、心の底から慕った時期とてあったろうに、裏切ったからには彼らは走り続けねばならない。
“民”の心は移ろいやすい。
いつかライナルトが言っていた、民は衣食住を保証してやれば良く、その責務さえこなしていれば良いというのはこのこと。
私は、王が民に捨てられる末路を目の当たりにして、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、オルレンドルの民に失望を覚える。
きっと……ライナルトほどじゃないけど、皇帝も好きだったんだろうなぁ。
それを思うと、疲れが一気に降ってきた。
ただでさえ限度を超える魔法の連続行使で精根が尽き果てようとしている。右肘から下が動かなくて重心が取りにくいのに、全力疾走ともなればもう汗だく。苦しい思いをしてたどり着いたのはグノーディアの象徴たる『目の塔』の入り口で、この場所こそ皇帝がいるはずだ。
周りに人はいなかったけれど、厳重に封がなされているはずの扉の鎖が落ちている。血痕の他にも複数人の足跡があって、中に入れば、灯るはずのない壁の灯りが煌々と階段を照らしている。
ここに来て階段を走るのはきついけど、登らないと間に合わなくなる。
黒鳥を先行させると、壁に手を添えて階段を上がり始めた。
どうして皇帝が『目の塔』にいるのか考えたかといえば、ここが前帝の権威を主張するための建造物だったからだ。
『ライナルト』は一度だけ最上階からの景色を眺め、以降は足を運ぼうとしなかった。
民に裏切られた彼が自らを皮肉って、他の者が近寄ろうとしない場所といえばここくらい。必死に足を動かしていたら、しばらくして鼻血が吹き出す。強制的な魔力行使に正解を悟った。
最上階まで昇り終えると、開きっぱなしになった扉と廊下を跨いで軍人が倒れている。
ぐったりと動かないけど、気絶に留めるよう命じたから殺していない。中には他にも二人が倒れており、犯行に及んだ黒鳥は、鼻血に申し訳なさそうに影に潜る。
彼らから離れた壁際には、座り込んで動けない人がいる。こめかみから頬にかけて傷を走らせて――。
「ライナルト!」
俯いていたその人は、殴られた際に頬の内側を切ったのか、唇の端に血を滲ませている。気絶していそうだったが意識は飛んでおらず、ゆっくりと顔を持ち上げ私を認識した。
「お前か」
思ったより力強い声には安堵したけど、つかの間の勘違いだった。彼の汚れたシャツはよれよれで、お腹のあたりに血が滲んでいる。こちらが傷の本命で、止血のために無理矢理布で縛り押さえつけたのは明白だ。
「傷口を見せてください。いまならまだ間に合うかも、治さないと」
ライナルトに消費しただけの魔力を補う生命力が残っているかはともかく、ここまで生き長らえたのなら希望はあるはずだ。手をどかそうと指を重ねたらはね除けられた。
「不要だ」
拒絶は短く、だからこそ意思も伝わりやすい。何もかもを悟った目はこれより死を迎える覚悟をして、途端に胸が苦しくなった。
「私を衆目に晒し、生きたまま首を斬らせたいか」
「違う。わたし……は、あなたに、降伏をしないかと」
レクスなら説得を尽くせば可能性がある。あなたが従順になれば受け入れてくれるからと言いに来た。
無論、それはこの人を知るものなら決して言ってはならない、彼の生き様を否定する言葉になるけれど、なんでこんな酷いことを言ったのかって、知りたかったからだ。
もし、もしもの話を考えた。
私の世界の、私のライナルトが将来民に裏切られたとして、私は彼の理解者でありたいなら降伏を勧めてはならない立場だ。生きて欲しいなんて理由で彼の理想を妨げてはならない。
でもこの皇帝相手だったら……。私を知らないこの人だったら、恥を晒してでも生き続けることで、次に繋げる選択を選ぶかを知りたかった。『ライナルト』に別の可能性を見出せるのか知りたかった。
でもいまは、そんなことを考えた自分に後悔している。期待されているはずないのに、失望された気がして自分の愚かさに死にたくなる。
私の世界では異世界転移を果たしたキヨという女の子。彼女には簡単に意志を曲げさせ生かしたのに、皇帝に対してはひどく罪悪感が伴う。
「くだらないな」
ごめんなさい、と謝るべきだ。
ちっぽけな疑問を解消しようとして、あなたの誇りと望みを穢した。
ここで皇帝は負けた。下剋上を認め、狩られる側になるのも承知していたのだから、大人しく死を受け入れるのが、あなたを肯定するための唯一の道だった。
未来の皇妃としての在り方を学ぶなら嫣然と微笑むのが正解で、それがきっとこの人に私を認めてもらえる振る舞いになる。
でもいざ死に様を前にすると言えなかった。
「汚れる」
服が汚れても構わず傷口を押さえる手の上に手を重ねていた。謝りたくない。かといってかけられる言葉がない。レクスなら助けてくれるかもと考えたのは幻想だ。ここにいた三人組はあなたを殺そうとしたから、黒鳥が手を出した。
「生きてください」
身勝手を言った。私は帰る、自分の世界に帰るから生き延びたとて責任を取れない。
でも死んで欲しくない。
溢れかえる感情が処理しきれなくて歯を食いしばった。シスの言うとおり、彼にしてみれば『部外者』が口を挟むのは歪な光景になる。
「……私には最後まで理解できなかったが」
「え?」
「そういうところを愛おしんだと思えば、まあ、わからなくもない」
離れた拍子に押しつけられたのは見覚えのある装飾品だ。
「……なんで?」
胸飾りは欠けることなく健在だ。なぜレクスに言われていたはずなのに返してくれなかったのだろう。呆然と問うたら、相手は口角をつり上げた。
いままで見てきた中で一番優しく笑ってくれる。
「さてな、気紛れだ」
愛しているのだと伝わったから。