46.取り戻した名前
白夜たちに気を取られている間にも、黎明はさらなる浮上をはじめている。冷たい大気が体温を奪っていくも、太陽の光を反射する白銀の鱗が眩くて気にならない。
白竜“明けの森を守るもの”を失った彼女の故郷はどんな気持ちでいるのだろうか。
黎明は同胞に慈悲深い竜だけど、戦わねばならない瞬間に手抜かりするほど甘くはない。上空を陣取ると反転し急降下を始める。狙う先は傷つきながらも彼女を追いかけてきた竜だ。
咆哮を一回、直下へ飛ぶのは下手なジェットコースターよりも身震いさせる恐怖がある。彼女はこれで決めるつもりだとわかったとき、私が行ったのは保護の魔法だ。
名だたる魔法使いほど立派なものじゃない。ただ正面から向かってくる相手に対する部分限定で、行使用の魔力はいまも繋がっている白夜からもらっている。分相応を越える魔力量だから、扱いきれない魔力が青白い光となって放電現象を引き起こした。
黎明ほどの規模の大きさ、事前に魔法を展開して持続する芸当はできないために、目をつむりたい衝動を堪えて相手を見据えた。
『無理をしないで』
黎明が語りかけるけど、それは却下。
どのみち数秒後に接敵するのだからいまさら引けないし、私はほんの一瞬魔法を展開するだけだ。何が起こるかわからないし、親しい誰かが傷つくのは見たくないから妥協しない。
黎明を見据えて開かれる竜の口。迫ってくる牙は恐ろしくて堪らないが、守るためだと思えば勇気も奮い立つ。
黎明の喉が震え、この瞬間だと機を図る。
指先から走る魔力が展開され、黎明の首に食い込むはずだった牙を見えない壁が弾く。腕全体に電流が走った痛みはあったが、守り切れた感触はあった。
ありがとう、と声なき声が聞こえた瞬間、私を信じて守りを捨てた黎明の反撃が成功した。
彼女の牙が竜の首に食い込み傷をつけたのだ。加えて最初の咆哮で展開し、隠されていた雷の刃が翼を貫き、竜に裂傷と火傷を負わせていく。
命は奪っていないけれど、飛行が叶わなくなった竜は墜ちて行く。これ以上は宵闇の力をもってしても再生は間に合わないはずだ。
竜は対処できた。
あとは白夜と宵闇の決着だけど、そちらはほぼ入り込む余地がない。
黎明が宵闇に手を出されないぎりぎりの距離を飛ぶ間に、私は流れ出ていた鼻血を拭う。ここまで大きな魔法を使って倒れなかったのは、精霊たちと、そして大気に魔力が混じっているおかげだ。空気中から集まる魔力が自然と補助的役割をこなしていたからこれだけで済んだ。
「れいちゃん、あのふたり、どっちが勝ちそう?」
「宵闇が押しているように見えますが、白夜が本気を出していないだけでしょう。あの子がなにも考えず力を扱っていれば、森はとうに火の海です」
宵闇の攻撃手段は多彩だった。無数の黒い刃はもちろん、ひとの武器を模したものから動物まで、あらゆる有象無象が殺意を絡めて白夜を襲う。対する白夜は動物型などは展開するも、基本的に光線で対処するだけだ。光線といっても曲線を描く熱線だし、近くを飛んだ小竜はかすっただけで翼を落とされたから、人がくらったら消し炭も残らない。
黎明は宵闇の魔力が森に害を及ばさぬよう、わずかな残り滓さえ丹念に潰していると教えてくれた。
白夜は時折半身に声をかけるが、これが尚更宵闇を刺激する。
「いい加減に怒りを納めるつもりはないか」
「わたしはおこってない。変なことを言わないで、やるならさっさとやりなさいよ」
黎明は旋回を繰り返していたら、魔力の応酬を繰り返すうちに、やっと機会が巡ってくる。
突如宵闇の膝から力が抜けたのだ。
気付けば少女の全身には亀裂が走っており、そこからは白い光が不自然に漏れている。
最初に加えた一撃。あれで仕込まれた白夜の魔力が毒となってやっと効き始めた証拠だ。これは初めから白夜から聞かされていて、最初から気付かれていると対処されてしまうから、遅効性として働くように仕掛けると言われていた。
「力を削るなど本意ではないが、お前と話すためにはこうするしかなかった」
「やだ、やだやだやだ……」
宵闇はすぐに危機を察したが、止める間もなく胸にぽっかりと白い穴が空く。
そこから溢れる光が彼女から魔力を吸い上げ、溢れる光となって放出されていく。さながら美しい虹だけれども、穴が空いた本人は絶望でしかない。
宵闇は自らの魔力が削られていく感覚を覚えており、こうなってしまうと真っ当に白夜とは渡り合えない。取れる手段はひとつだけで削り取られる前に逃げ失せることだけど……。
「……うそ、うそ、なんで!」
「精霊郷側の扉は全て閉じられている。もはや我らの故郷がお前を受け入れることはない」
「わた、わたしだって精霊なのに!!」
精霊郷側の扉は全て閉じるのに成功したらしい。
「我々がどれほどの痛手を受けたと思っている。特に“明けの森”の消失は笑い事ではすまされない。あそこは命の源泉だ、生まれ出ずるはずの命が何千と失われた」
「あの竜がやったことよ!」
「守るものが操られた不始末はあろう。だがすでに罰を受け、彼の竜はすでに墜ちている。生き残りは黎明を責めぬと言った」
この間に黎明は翼を羽ばたかせ降下を始めている。目的は宵闇の真上、私も体勢を整えて眼下を見下ろした。
声なき黎明の問いかけに、お願い、と小声で返した。白夜が半身の気を逸らしているいまが最大の好機。黎明が胴体を傾けた瞬間、彼女に接着していた私の身体が離れた。
空中からの、落下傘のない自由落下だ。防壁があっても、想像していた以上に風の当たりが強くて目や口に風が侵入する。内臓からひっくり返る感覚が気持ち悪い。寒いし、このまま地面に衝突したら即死の現実を突きつけられるが、精霊二人はそこまで考えなしじゃない。
宵闇を近くに捉えた瞬間に重力が仕事を辞め、肉体にかかる圧が軽減した。白夜の手によるものと思われど、彼女に礼を言うより先に間近の黒い少女に取りついた。
宵闇にしてみれば私は突然現れたようなもの。嫌いな人間に取りつかれ、嫌悪に表情を歪ませると思われたが、そのとき少女に浮かんだのは明らかな恐怖だ。
ひ、と喉を鳴らした少女が何に怯えているのかは知っていたが、それより先に行動すべきことがある。
「名前を返してもらうわ」
魔力が放出し終わる前、少女が抵抗できないのをいいことに両手に頬を添え、息が掛かるほどに距離を詰めて瞳をのぞき込む。
今度はあの時と逆。私が少女から奪う側だ。
「あなたの名前は宵闇。それ以外の名前はないし、この世界以外の生涯は歩んでいない」
「や……」
やだ、は受け付けられない。
シスと同じ要領で宵闇の内側に入り込むと、本来あるべき私の名前を探した。視界は真っ白になって何も見えなくなるが、ちゃんと意識は残っている。奪われたのは魂と呼ぶべき一部だから、探し当てるのは難しくなく、腕を放したときには私は私を取り戻している。
……いつの間にか空中ではなく森の中にいたけど、それよりも充足感が満ちている。
カレン、だ。
カレン・キルステン・コンラートが私の名前。
私が私である証拠のひとつ。
名前を取り戻せばいろんな人が私を呼んでくれた響きも思い返せる。義息子に、家族に、それになにより愛する人が「カレン」と呼んでいたのを、どうして忘れていられたのだろう。
ライナルト、と自然と名前を呼んでいた。
彼が心配している、待っている。「カレン」がいない世界のままにはしておけず、狂おしいほどの愛おしさがこみ上げてくるも、感情は泣き声に遮断された。
子供が泣きじゃくっていた。
「やだぁぁぁ……なまえ、わたしのなまえが、やだ、やだぁぁかえしてよぉ」
もはや人間の子供同然の力で、胸を叩いてくる子が宵闇だ。魔力に続き奪った名前を取られた精霊にはまともな力が残っていない。静かな森の中で、少女の泣き声だけが耳朶を打つ。
「だめ。これは、あなたの名前じゃないから」
「わたしのだもん。わたしの名前だもん。わたしは宵闇じゃない、森に隠された可哀想な生き物じゃない」
精霊としての威厳はどこにもなく、涙と鼻水をごちゃ混ぜにしながら、わあわあと肩をふるわせている。不思議なことに少女が嘆いているのは魔力を奪われたことでも、白夜との勝負に負けたことでもなくて、ただ“カレン”でなくなった事実だけだった。
「あなたばっかりずるい。同じ異端だったくせに、馴染めなかったくせに、なんでちゃんと愛されてるの」
近くには白夜と人型に戻った黎明の姿もある。
どちらも手を出しあぐねていたが、私はずるい、と発した少女に物申したいことがある。
もう一度頬を包んだ。逃げないように、悪いことをした子供へいいきかせるためにだ。
「ずるくない」
抵抗し逃げようとした子供の目を見続ける。
「愛されたいと思うなら、同じくらいに愛して。誰かに想われたいのならそうなるようにしないと、誰からも何も返ってこないの」
必ずしも愛情の応酬があるとは限らないけど、少なくとも”カレン”になりたいのだったら奪うだけでは欲しい物は得られないはずだ。
私に叱られたと思った宵闇は再び泣き始めた。こうなってくるとどちらが子供か知れたものではない。
宵闇は私から逃れようとした。思ったよりも抵抗が激しくて手を離してしまったら、とにかく逃げようとあがき出す。
捕まえるために腕を持ち上げたら、それを目にした瞬間、少女は両腕を顔の前にかざして防御反応を取った。
「ひ……!」
私に怯えているのではない。
これは恐怖。宵闇がかつて人間に植え付けられた恐怖が形になった、心だけでは抗いがたい、どうしようもない心の傷。
むかし、人間を愛そうとして裏切られ、売られてぼろぼろになった女の子の傷だ。
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イメージに合った華のあるお声が物語に没入しやすくなっていて素敵でした。