40.婚約者自慢
「上等?」
「はじめて陛下にお目にかかったときにお出しした兎肉の煮込みです。恐れ多くも感想まで賜りましたけれど、ずっとお伺いしたかったのです」
このとき、皇帝は素の表情を見せた気がした。
「変なことを聞きたがるとお思いでしょう? でも、よく考えたら上等、なんてあんまり使わない言葉ではありません?」
「使わなくはあるが、おかしくもあるまい」
「ええ、おかしくはありませんけど、ただ……」
人によっては使う言葉なのかもしれないけど、少なくともライナルトが料理を褒めてくれるときは素直に「美味しかった」か「よくできていた」がほとんど。いままでもそんな言葉で褒めたことはなかったので不思議だったのだが、もしやと閃いた。
「もしかして陛下は昔食べた味をはっきりと覚えてらっしゃるのかと思ったんです。よかったらそれを教えてもらえませんか?」
「……なぜそれに答える必要がある」
声が低くなったのは、話した覚えのない過去を私が知っていると考えたせいだろう。
「あの料理を振る舞いたい人がいて、その人が昔食べた味を再現したいからです。ですが何回か作ってもまったく上手くいかない。美味しくできても再現は叶わないのです」
「再現したいのなら当時の状況でも聞けば良かろう。それで再現できなかったのならそれまでだ」
「そうもいきません。だって私、その人の過去になにがあって兎の煮込みが好きになったのか知らないのですもの」
話したくなったら聞く。そうじゃなかったらいまのままでいい。あの約束はずっと有効で、私たちはお互いの秘密を語っていない。
「陛下が信じる信じないは自由ですが、私達はお互いの過去を必要としていません。それでも私はその人が大好きですし、向こうも私を愛してくれています。ですから国内の平定が必要だからとか、政治的な理由で婚約したのではないのです」
「まさか色恋に身を焦がしたとでも私の前で語るつもりか」
「……でも両思いなのは事実ですので」
ライナルトについて語るのをずっと我慢してたから、言葉が過ぎてしまう。にやけてしまう頬を押さえて表情を繕い直した。
「困ったことに、その人は食に拘りがありません。でもそんな人が少しでも思い出に残しているのなら用意してあげたいのです」
「婚約者とやらに頼まれてか?」
「いいえ、私が勝手にやっていますが、止められてもいません。納得済みで付き合ってくれています」
ライナルトはいまに満足しているから、懐かしの味を頑張ってまで思い出そうとはしないけれど、私としては共有できる事由をひとつ増やしたい。
だからわずかでもいいから足がかりが欲しい。違う人とはいえ同一存在ならこれとない機会だと尋ねたのだ。
膝の上で中指を叩く仕草はいつもの通り。
答えてくれたらいいなーと待ちながら、きっと手の付けられることのないお菓子に手を伸ばす。
「ひとつ尋ねるが、そちらの婚約者とやらは櫛を持っているか」
「ちょっとだけ欠けた木櫛ですか? 丁寧に油を塗って肌身離さずもっていらっしゃいますよ。私もたまに梳いてもらいます」
このくらいは話しても大丈夫なはず……と、信じたい。
「……材料」
「はい?」
「材料と言った」
それって煮込みのこと……ってそれしかないけど、一般的な材料以外になにか加わっていたのかしら。
「なにかその地域の特産品が入ってたとか、そういうことですか?」
「違う。特別なものはなにひとつはいっていない、おそらくな。料理に詳しくはないゆえ憶測でしか言えんが、作り方も一般的なもので変わらん」
「で、では何が違うのでしょう」
「この間食した煮込みは材料の品質が良すぎた」
え……っと……。
まさか与えられた答えがこんなところにあるなんて思わなかった。
でも、でも考えてみたらそうだ。私は貴族だから食の水準は高いし、いっつも材料は用意してもらっているから買い出しに行くまではしない。
「作っていたのは貧しい者達だった。毎日食べられはしても、ただそれだけだ。であれば用意できる食材も自ずと知れていよう」
「あ、じゃあ……」
「猟師が手に掛け、血抜きが完璧にできた新鮮な肉は大体がまともな市に並ぶ。酒とて安くはあるがただではない」
「私、臭み抜きまでしっかりしてたのですが、それも間違ってたのでしょうか」
「さてな、私は野営食は知っていても料理は専門外だ」
血抜きが満足にできていないお肉となると大変だ。普段美味しいものに食べ慣れているから、臭みが強いと食べられない可能性がある。試作品を作るのも慎重にならなきゃいけない。
刺さるような視線に俯いてしまったのは、その答えに至れなかった自分が恥ずかしかったためだ。これまでのライナルトの発言や木櫛の状態を鑑みれば想像できたはずなのに、これはかなり情けない。
「ありがとうございました。あとは試行錯誤しながらやってみようとおもいます」
言いながら、少しだけしんみりしてしまった。
……ライナルトの昔は、どんな環境が彼を取り巻いていたのだろう。
意外と親切に答えてくれる皇帝陛下にライナルトの面影を感じてしまうが、寂しさを覚えていいのはいまじゃない。気を取り直して話しかけた。
「あ、せっかくお話しできたのですから、精霊のお話でも聞かれますか?」
「不要だ」
「そうですか。いえ、でも陛下にとっては良い思い出ばかりの相手ではありませんものね」
「それは構わん。それより回答への礼をもらいたい」
こちらを見据えてくる皇帝に、ライナルトが歳を取ったらこんな感じになるのかしら、と内心で首を傾げる。
「婚約者に愛されていると答えたな。そう確信を持って言えるだけの理由はなんだ」
突然な質問だけど、たしかにライナルトと婚約する前もしてからも、彼が本気なのか訝しんでいたひとはいた。親友のニーカさんですら半信半疑だったのだから、本人であればなおさら疑わしいのかもしれない。
別に皇帝陛下に納得してもらう必要はない。
ただこの人はずっと孤独なんだと思うともの悲しい。
胸に手を当て、ちょっと自慢するように言った。
「約束です。置いていかないと、奈落の果てまで連れて行くと誓ってくれました」
相手は俯きがちで表情がわからない。納得してくれたかしらと顔を覗き込もうとして、気付いた。
……いま、もしかして微笑んだ?
「礼としては充分だった。では仮初めの巣に戻るがいい、異界の客人」
たったこれだけで、私と皇帝陛下の会話はおしまい。
レクスの期待には応えられなかったから、彼には残念そうにされたけど、これは本人もわかっていたのか責めはしてこなかった。労いはリューベック家にて、エルネスタやシスも招いての豪勢な料理と広いお風呂だ。
馴染みになったリューベック家でお泊まりの夜、胸騒ぎを感じて身を起こした。騒がしくはないけど、なんだか落ち着かない。廊下に出れば階段の方で幾人もの人が駆けて行くのが見え、何事かと観察していると背後から声をかけられた。
「心配いりません。レクスが不調を訴えただけです」
びっくりしすぎて叫んだ。振り返ると私服姿のヴァルターが驚きに目を見開いている。
「申し訳ない、音を立てて近付いたので、気付いてもらえているものかと」
「い、いいえこちらこそ声を出してすみません。で、でもなんでヴァルターさんがここにいるんでしょうか。ヴァルターさんのお部屋は上の方では……」
「エルネスタを呼びに行っていました。彼女は大きな音を立てていたので、それで隣室のフィーネも起きたと思っていたのですが……」
全然気付かなかった。しかしエルネスタが向かうほどレクスが不調を訴えたのなら弟である彼はのんびりしていて良いのだろうか。それを問えば「いつものことなので」と普段通りだ。
「慌てず騒がず、家の中で不和が起きぬよう気をつけろと言い含められています。いまできることといえば明日に支障が出ぬよう休むことだけなのですが……」
ここで彼はある提案をしてきた。
寝る前の散歩に付き合ってくれないかと言うのだ。
私もすっかり目が冴えてしまったしお付き合いさせてもらったら、レクスの病気について聞くことができた。魔法では治せないし、内側の疾患だと考えていたら当たっていた様子で、ここ数年で容体は一気に悪化したという。食べても身体は痩せ細り、食欲は減退する一方。深夜から明け方にかけて特に痛みを訴えるも、ヴァルター曰く昼は我慢しているだけとの話だ。
「スウェンを養子にしたのも後を考えての話です。レクスはもう自分の子を諦めているが、大切な人のために、自ら後継を探していた」
「彼が駄目だったとは思いませんけど、どこかの貴族の次男や三男では駄目だったのですか?」
「レクスの望みに適う人ではなかったのです。それにスウェンは喪う痛みを知っている。コンラートのために強い意思を保ち、妻のために誰かに優しくあれる。ニコと話しましたが、彼女は純朴で良い人だ。あのままの人となりを維持できるよう私も務めましょう」
「あなたはリューベック家を継ごうと思わないのですね」
「継がない方が良いのです、私のような人間は」
何が彼を躊躇わせるのか。
ヴァルターは不思議な笑みを湛えつつ、足取りはいつか彼と話した裏庭に移った。彼にとっては思い出深い場所のようで、ひととおりぐるりと回ると向かい合って頭を下げられたのだ。
「今宵お誘いしたのは、ひとこと礼を言いたかったからです。陛下と話していただき……ありがとうございました」
お礼にしては奇妙だった。私はレクスの希望に添えなかったし、なんら役には立っていない。それにヴァルターの言葉は兄のために動いたことよりも、皇帝と話をした事実に喜んでいる。
「ご友人方と分かたれて以来、あの方はただひたすら前を向いていらした。休む間もなく過ごされていましたが、今日は久方ぶりに気の張らぬ姿を見た気がするのです」