39.皇帝陛下とライナルト
共生の可能性の提示などはなからできるわけないのに、彼は満足げに頷く。
「なにが正しいのか、間違っているのかはもはや定かではない。ただフィーネが導いたその答えだけで、私にとっては頼むに値するだけの価値があるんだ」
「レクスさん!」
「君がこちらに来たときの状況はエルネスタやスウェンに聞いている。"色つき"の迫害を知らず、いまの帝都に戸惑っていたと言っていた」
「知らない場所だから当然です。おかしなことでは……」
「そちらのオルレンドルは"まだ”精霊が現れていないだけかもしれない。とはいえ君という“眷属”とは共存できている。陛下が神秘をお認めになられた生き証人だ」
それは歩んだ道が違うからだ。こちらでは何の役にも立たないと訴えるのに、レクスは感情を込めた拳を握りしめ、片手でそれを覆い隠す。
……体型は服でうまく誤魔化されているけど、その手は以前よりも骨張っている。
頭に上りかけた熱が冷めた。
「どうか一度きりの対話を頼みたい。オルレンドルには共存という繁栄の道もあるかもしれないと、君という存在をもって陛下に見せてもらいたい」
「……なんでそんなに必死なんですか?」
彼の目は死の淵にしがみ付く死人だ。その兄を守る弟は、寂しげながらも従順な騎士だった。
「私も、リヒャルト殿も、陛下のご意思に添う覚悟を決めたいのさ」
そこまで言われどうして断れよう。
彼らの望む結果に関わらず、一度きりだと引き受けたら、当日はリューベック家に到着するなり笑顔のレクスと使用人に囲まれた。
「着飾る必要なんてあります?」
「あるとも。不意打ちで捻じ込ませてもらうから、君には相応の格好をしてもらわねばならない」
訪問ドレスが用意されていたのだ。そういうことなら事前に相談をもらいたいと物申したいところはあれど、一度と決めた以上は黙って従う。
作法は問題なくても、荒れてしまった指先は簡単に整わない。荒れた髪を手入れし、腕や背中の産毛を剃り、肌や唇に香油を塗り込んで艶を与え、爪の形を整える。まるでお人形の時間が終わると少し休憩の時間が与えられ、スウェンと話す時間が生まれた。
この時の彼は、リューベック家の客人ではなく、リューベック家の次期当主として姿を現している。
「リューベック家にはもう慣れたってきいたけど、顔色が悪いのはどうして?」
「覚えることが多すぎるからさ。おれだって貴族の跡継ぎだったけど、ここほど大きな家じゃない。仕事の規模だって違うから基礎からやり直しだ」
「でもとても優秀だってヴァルターさんが言ってた。良い跡継ぎに恵まれたって嬉しそうだったわ」
「嬉しいかぁ……」
「複雑?」
「複雑にならない方がおかしいさ。本筋の次男がいるのに跡を継ぎたがらないなんて、なんの裏があるのかなんて思うし……。ああ、違う。おれが疑ってるだけなんだ。二人ともおれとニコを大事にしてくれてるのは伝わってるよ」
以前、スウェンが難しい顔をしていた理由がこれ。
リューベック家に保護されたスウェンは、レクスの養子として迎えられた。次男のヴァルターを差し置いての次期当主候補で、いまは実地に慣れさせるため、連日現場に顔を出して揉まれている。
驚くべき事に、これはヴァルターも承知済みだった。
「でも意外だった。スウェンは陛下を憎んでいると思ったから、オルレンドルの覚えがいいリューベック家入りするなんてね」
「……まあ、な。だけどおれにはもうニコがいるし、ちゃんと食べさせてやらなきゃならないから」
「盗みはできないしね?」
「それを言うな。悪いと思ってるんだから」
レクスとスウェンの間にどんな会話があって養子入りがなされたのかはわからない。スウェンの複雑そうな表情や、一瞬だけ昏く沈んだ瞳の意味も、なにもかもだ。
「でもおれよりニコの方が大変だ。花嫁修業も始めたばっかりでコンラートがなくなったから、学べず終いのままここにきた。リューベックのためにも恥になれないって張り切ってるけど、いつか折れないか心配だよ」
「新しい目標ができたのが嬉しいんじゃないかしら。でも疲れるのは確かだから、ちゃんと見てあげないとね」
ニコはスウェンの養子入りを喜んだし、そのことで増長もしなかった。むしろスウェンと別れなくて良いのか、目が見えないのに邪魔にならないか不安に感じ、思い込みすぎて伏せたが、これはレクスがしっかり説き伏せた。
ざっくり述べるとスウェンとニコは別れなくて良い。それどころか将来的に子供ができたのならその子にリューベック家を任せたい。コンラートを復興させたい意思は汲むが、その場合は二人目の子供に任せるとして、リューベック家の跡継ぎを優先すると……そんなところだ。
つまり兄弟は親類から血を入れる気は皆無。
リューベック家本筋は絶えるけど、それらを承知で彼らはスウェンを迎えた。
「ただ目が見えない分だけ不利が多い。作法の先生の前だとどうしても緊張するみたいでさ、フィーネが教えてくれて助かってるよ」
「できる範囲でだけどね。見えないなりにどうやっていくか、工夫を提案してもやれるのかはニコ次第だけど、あなた達の役に立てるのならよかった」
そしてこの養子入りに伴い、スウェンは私のことも聞いている。深くは尋ねないけれど、なんとなくコンラート家に近しい人間だったと気付いていそうだった。
彼は着飾った私を上から下まで眺め、しみじみと呟く。
「……そうしてみると本当にお姫様みたいだな」
「そう言ってもらえるのなら頑張ってきた甲斐があったのかしら。……立ちたいから手を貸してもらえる?」
「はいよ、裾を踏んで転ぶんじゃないぞ」
「そうなったら助けてくれるでしょ。上手な援護を期待するわね」
「このひ弱な体型をみてくれ。そういうのはおれじゃなくてヴァルターに期待してくれよ」
別にひとりでも立てるけど、手を借りたのはすっかり大人になったスウェンと、私の過去で亡くなった少年との記憶が重なったためだ。いなくなった人に「もしも」は虚しい言葉だけど、こんな未来があったのかもしれない。
馬車に乗り、宮廷へ赴く。
着飾ってここを歩くのはいつぶりだろう。レクスと歩けば注目を浴びるから背筋を伸ばし、堂々と胸を張って正面を向く。大股になりすぎず、生地の重みを感じさせず軽やかに歩いてみせるのがコツだ。
案内役のレクスがスウェンに教示する。
「自分がここにいるのは場違いだ。そう考えてしまっても、いまそこにいる自分を誇ること。話術はいくらでも学べるし後からでも鍛えられるが、まずは立ち姿を形にしなければ侮られてしまうから。彼女を見れば意味はわかるね?」
宰相の協力があるから入室までとんとん拍子に進んだけど、全員が聞いていたわけではないから目が点になっている人も多い。皇帝はこちらを一瞥すると、控えていた老人に声をかけた。
「お前がいつまでも下がらぬから何事かと思っていた。レクスと企んだか、リヒャルト」
「企んだとは人聞きが悪うございます。陛下の御身を案じたとお思いください」
「どの口がそれを言う」
「精霊会談以降、陛下は御身を酷使していらっしゃるので、少しばかりでも手をお止めいただきたいのです。小休止程度では帝都の復興は止まりはしませぬ」
中指で机を叩いた皇帝は彼らの企みに乗った。
レクスの先導で向かったのは小さい丸机と二つの椅子がある書斎みたいな個室だった。軽食や茶菓子が置かれると机の幅が足りないけど、その分だけ距離は近くなる。
茶器類がすべて用意されるまで私たちに会話はなかった。
お互いに一口二口で喉を潤して、はじめて皇帝が口を開く。
「挨拶もないとは驚いた」
「自己紹介は済ませていましたので、あとはなんと切り出すか迷っておりました。挨拶が必要でしたら申し訳ありません。いまさら聞きたがるとは思いませんでした」
「目的は?」
「お話しをしに伺いました」
「意図を尋ねている。宮廷から逃げ去った者が、何故再び姿を現した」
「宰相閣下とレクス様に対談をと望まれましたので、一度だけとお受けしたのです」
「何を望まれた」
「精霊と人の共存の可能性を見せて欲しいと」
こう答えると、はじめて興味を向けられた。
私が気兼ねなく皇帝と話せると思ったら大間違いだ。彼の機嫌を損ねないためのコツは掴んでいるけど、初めからその他大勢のひとりで、嫌われる要素満載の人間として対峙したことなんてない。まともに会話するためには、必要最低限の誠実さと材料を提示する必要がある。
ライナルトと最初に会った頃を思い出すけど、でもやっぱりどこか違うかな。
「随分素直に答える」
「私はあなた様とお話しをする理由がありません。嘘をついても白々しくなるばかりで、面白みもないでしょう」
レクスが“眷属”を保護する姿勢を皇帝が知らないはずがない。そのため嘘をつく必要がないのが楽だった。
「レクス様には恩があります。ですから引き受けた以上はせめてと思いましたが、こうして対峙すれば、やはりなにも話すことはないのだと実感しますね」
「わかってもらって結構だ。では帰られるかな、異界の客人」
「いえ、頼まれた件についてはともかく、伺いたいことはありました。個人的な疑問です」
唐突に現れ、そして帰るだけの部外者が政治方針に口出しなどできない。まかり間違って説得や共存を提唱すれば席を立つのも目に見えていた。いまも何故相対してくれるのか不思議だけど、目で質問を許してくれた皇帝に、ずっと疑問だった言葉を投げる。
「なぜ上等、だったのでしょうか」
兎肉の煮込みの感想が、ずっと気になっていた。