36.憎悪の連鎖
『目の塔』内部は私が覚えているよりも老朽化が進んでいる。遺跡は機能を止めて久しく、湿気が流れ込み、ところどころ苔の浸食が見受けられた。
階下に降りるための道幅は人が二、三人並んでぎりぎりくらい。明かりもない中を進むのは勇気が必要だったが、設置されていたランプはすべて勝手に火が点いてゆく。先頭を行く白夜の足はわずかに宙に浮いていて、「歩く」動作がないから、不思議な気分で後ろ姿を見つめていた。
ただ下って行くだけだから、道は長くない。
地下への扉は厳重に封がされていた。
魔法だけでなく、扉の上から煉瓦で埋めていったのだ。真新しい壁を見つめた少女は憂いの息を吐いた。
「ここまでして閉じ込めたいとは、そうまでして嬰児は疎まれたか」
「被害が大きすぎたのよ。こうでもしなきゃ人間にもっと被害が出ていた」
白夜相手にも怖じ気付かないエルネスタは、素直に強いと思う。
こちらも指を鳴らして一発解除……かと思いきや、少女は壁に手の平を当てると、当たった部分を起点として煉瓦が砂と化していく。さらさらの砂状となり足元に散らばったところで尋ねられた。
「通れるか?」
少女なりの気遣いで、人が通りやすいようにしてくれたらしい。もうここまで来たら精霊ってなんでもありかもしれない。
扉の先は、いままで密封されていただけあって、独特の匂いが地下から漂っていた。不快感を覚える土臭さは、全身にわけのないぴりっとした軋みを覚える。
たぶん、私だから感じ取れた部分はある。
――シスが泣いてる。
そしてとても怒っている。恨んでいる。叫んでいる。
ここにいると呼びかけてみたかったが、おそらく声は届かない。理由は簡単で、彼は外にいる生き物を感知できていない。
降りるまでの間に、白夜はエルネスタに尋ねていた。
「封印はどのように施した」
「力業よ。元凶になった隙間を幾重もの魔方陣で埋めて感知を封じた。その後も総勢で外からがんじがらめに何十、何百とかけて全体を覆ったの。内側から破られたら困るから、絵柄を変えるみたいに術式を変えてね」
封じられている『箱』は相変わらず宙に浮いている。けれどその強大な石を、赤く細長い魔方陣が隙間なく巻き付いて、禍々しい色を放っていた。
見ているだけで痛々しいと感じるのは、シスと親しかった故かもしれない。
少女は箱を指差した。
「少し魔力が漏れている。あそこから風に乗って流れているな」
「やつも外に出ようとして抗って、内部から封印を破ろうとしているからね。定期的に上から術式を巻き直して、少し破られて、また巻き直しての繰り返し」
シスの封印に赴いていたらしく、たまの外出の理由が明らかになる。
私もつい口を挟んでしまった。
「封印を施しているとはいえ『箱』を人が凌駕したなんて信じられない」
「普通じゃ無理よ。だけどエレナがあいつの注意を引きつけて、できる限り力を削った。事前準備もできていたし、わたしも全力で事にあたったからできたみたいなものよ」
「上書きされるほどに新しい術式に変わっているな。見たことない言語を用いているが、これもお前の仕業か、人の子よ」
「…………前の研究の応用でね」
「なるほど。では嬰児では簡単には解けぬな」
白夜は術式の中身まで透けて見えるらしいが、エルネスタは肩をすくめた。
「わたしは総仕上げと上書きをしているだけ、『箱』については全部エレナの功績よ」
エレナさんを喪った事実に悲しそうに、恨みを込めて『箱』を見上げているけれど、友人を亡くしただけとは思えない殺意がある。
この間に皇帝も階段を下り終えたが、ヴァルターさんたち近衛や魔法使いが前面に出て警戒している。 私の横では黎明が出現し『箱』を見上げていたけど、彼女は同情を込めて目頭を潤ませていた。
「わたくしも穢れ堕ちましたが、心根の在り方だけは残せるよう努めました。けれど、この嬰児はもう違うのですね」
「違うって、どんな風に違うの?」
「最後に守り続けたはずのものが、溶けています。わたくしのあなた、これは考える以上に厳しいかもしれませんよ」
私に寄り添い、手を握りしめたところで白夜の周囲に変化が生まれた。なにもないところから風が生まれ、少女を中心に渦巻くのだ。地面にひび割れが生まれると水が流れ込み、散っていた砂が吸い寄せられた。炎が発生して渦に加わりはじめる。
不思議な光景だった。
魔力の渦としてねじれているのに、一つとしておなじものとして混ざらない。それぞれが独立して円を描くように少女の周囲に巡り、まるで生き物が意思を持って動いているようだ。
「行け」
少女が指させば、渦が『箱』に襲いかかった。幾重にも巻かれた術式が焼かれ、裂かれ、溶け、同化して解けていく。地下は様々な色を伴って照らされ、息を呑んでその光景を見守るが、層が薄くなるごとに異変に気付いた。
エルネスタの前に魔力の壁が出現した。飛んできた風の鞭が彼女を裂こうとして失敗したのだ。
「エルネスタさん、これは」
「わかってる。これは風に擬態しているだけで、もう殺しに来た」
逼迫した声に合わせ、風の鞭が黒く変色した。見覚えのある漆黒がはっきりと憎悪を成し、彼女を襲い、白夜の守りが弾いたのだ。
封印の解除が進むごとに、壁や床に漆黒の染みが出来上がっていく。それらはすべて『箱』に繋がっており、あらゆる影から人の眼球が浮かび上がる。
立ち合う人々は全員覚悟があるからよかったものの、同行した魔法使いたちは特に『箱』の脅威を知っている。
見つめられている。観察されている。
そこに好奇心や興味はなかった。あるのはただ人間を「どうやって殺すか」だけを込めた怨嗟だ。白夜の張った結界を超える方法を思考し、試行錯誤しては攻撃行動を繰り返す。徐々にその力は強くなって、やがて白夜の魔力が治まると、私にとっても馴染み深い、『箱』の欠けた一部が露出していた。
封印は解けたのだから発音が可能なはずだが、一向に喋りだす気配はない。『箱』の直下に黒い水たまりを作り、ぼこぼこと泡立たせると黒い人型を作った。
鼻も、口もない。ただ血走った目だけがあって――エルネスタを睨み付けると、地面に亀裂を走らせた。
未然に防ぐのはやはり白夜の守りだ。
「落ち着け、子よ。お前を閉じ込める箱は壊した。もはやその身を縛り付ける鎖はなく、お前は自由だ」
白夜が話しかけるも、その視線が同胞に向くことはない。エルネスタと、皇帝と……自分を裏切った人間達への憎悪しかない。私の知るシスの面影はひとつもなく、また一目で別物だとわかるほど心と、元の形を忘れるくらいに人としての有り様を亡くしている。
にらみ合いが続く中でシスだったものが最初に発したのは一言だ。
「裏切り者」
エルネスタに向けてはっきりと告げていた。
白夜の守りがなかったら、息をしていられないほどの圧迫感だ。身がすくんでしまいそうな殺意だが、エルネスタは臆すること言い返した。
「あんたの歯止めがきかなくなったから、エレナは剣を抜くしかなかったのよ。封印は最終手段で、わたしたちは最後まであんたに声をかけ続けた。自我を取り戻してくれるって信じてたエレナを殺したのは、あんた自身よ」
「だが封印した。あの絶望の日々から救ってくれると約束したのに、だから私の持てる力を持って協力してやったのに、私を解放するまでもなく封印を選んだ」
「裏切ったのはあんたも一緒よ。エレナを殺しただけじゃ飽き足らず……わたしの両親を殺したくせに」
『箱』がエルネスタの両親を、おじさんとおばさんを殺した?
ことここにくると、エルネスタも憎しみを隠さない。主人に呼応した黒犬が、いまにも飛びかかりそうな勢いでうなり声を上げていた。
エルネスタの恨みも続く。
「あの二人は関係なかったのに、あんたの都合で勝手に巻き込んだ」
「私はお前が裏切らぬよう、予備として網を張っていただけ。私を封印しなければ執行されなかった術であり、あれらが死んだのはお前が原因だ」
「ただの一般人を巻き込む必要はなかったでしょ!」
感情をむき出しにしたエルネスタの叫びは、いまにも泣き出しそうでも、彼はやはり心を揺らさない。次いで憎しみを向けたのは皇帝だ。
「お前もだ。人のふりをしただけの異常者。お前が決断していれば私を自由にできたのに、選んだのは破壊や解放ではなく封印だ」
彼の憎しみは主にエルネスタと皇帝にあるらしい。だがエルネスタと違い、皇帝は感情を乗せないし、その憎悪も一蹴した。
「解放か。確かに可能かもしれなかったが、あの時のお前は愚かな皇帝の命令を遂行する玩具だ。暴走した『箱』を鎮める手段を見つけるために、どれほどの時間と犠牲を生むと思っている」
……暴走はしたけど鎮める手段はあった。それを選択せずに封印を決行した?
皇帝の主張に、『箱』へ対する謝罪や憐れみは一切ない。それどころか嫌悪すら隠そうとしないから、当然のように怒りを買った。
繰り返されるのは漆黒の刃と、鼠や蝙蝠の群れだ。どれも目が赤く血走り、鼠に至っては鋭い牙や爪で襲いかかろうと守りを引っ掻く。
騒々しい雑音。押しつぶされそうな殺意と恐怖を煽る音の中で、なぜそれが聞こえたのかはわからない。
こきゃ、と小さな音がして、黒い群れが眩い光に除去された。
唐突だったから目が潰れたかと思ったくらいだ。両目が慣れて瞼を持ち上げると、そこには驚きの光景があった。
少女の小さな手が人型の首を握っていた。
「子よ、それ以上はならぬ」
華奢で細い腕が、片腕で人型の首を握って持ち上げている。指は首に半分以上めり込み漆黒に奇妙な歪みを作っていたが、当の人型は力は入らずとも、音を発した。
「いまさら何をしに来た」
「半分とは言え同胞が苦しんでいる。助けに来たのだ」
「嘘だ。お前からは私を利用しようという企みを感じられる」
「そうさな、実は嘘だ。お前が穢れと同化し、心の有り様すら変えた時点で、種として案じるべきではなくなった」
人型が腕を動かそうとすれば、全身が不自然に歪む。こき、こきゃっと骨が歪む音が嫌悪感を掻き立てたが、見えない鎖にがんじがらめに縛り付けられ、身動きを封じられた。
人でないもの同士のにらみ合いが続いた。呼吸ひとつすら音を立てるのが恐ろしい緊張感の中で、人型はぽつりと発する。
「殺せ」と。
「消せ。私はもう、どこにも存在したくない」
この瞬間、やっと、先ほどから離してもらえなかった力が緩んだ。飛び出そうとする私を黎明が制し、機を計らうためにずっと握っていた手の力を緩めてくれたのだ。
シスの名前を叫んだ。
■ちょこっと裏話■
平行世界のエルネスタも両親を大事にしていたので、元の世界同様に一緒に帝国へ移住しています。
皇位簒奪時のエルネスタは『箱』の封印を解く要でしたが、魔法院側に一歩及ばず『箱』の封印が進み、そのために被害が拡大、当時皇太子だったライナルトは完全封印を決断します。
『箱』の封じ込めを終えた直後のエルネスタはエレナを喪った喪失感と、シスとの約束を違えた後悔に満ちていました。
疲れ果てて家に帰ったとき、彼女が目撃したのはばらばらになった両親の亡骸です。
その時はじめてエルネスタは『箱』が彼女の裏切りにそなえ、もしもの場合に備えて枷を嵌めていたこと、封印を施す間際に枷を解放し報復を実行したことを知ったのでした。