33.機会を逃さぬために
私からなにかが抜け出る感覚が襲ったが、その正体は黎明だ。夢の中で会っていた彼女が実体を伴って出現すると、白夜の背後から驚きが上がった。
「明けの森の守護竜様……!」
喜びの声が上がったけれど、瞳に怯えが混じったのは見逃さなかった。尊敬と畏怖が混じったあべこべの感情を精霊が宿し、黎明は同胞の恐怖に寂しげに微笑む。
そんな彼女に、やはり変わらぬ態度で接するのは白夜だ。
「人の形を取るとは初めてではないか」
「この方がちいさきものとは話しやすいのです。対話には同じ姿が必要だと、いつかあなたが言っていた言葉がようやく、真の意味で理解できた気がします」
そうして彼女は人へ頭を垂れた。私の記憶を習ったのか、ドレスの裾を持ち上げる礼の形でだ。
「このオルレンドルと呼ばれる国を統べる王と人の子たち。はじめまして、わたくしは“竜”の形を取るもの、薄明を飛ぶもの、明けの森を守るものと呼ばれていたもの。あなたがたにわかるよう伝えるなら、トゥーナと呼ばれる地を襲った竜です」
この紹介と、突如現れた美女の言葉に全員が身を固くした。自らあの竜を語る存在、真偽を確かめようとするも黎明の姿が解け、彼女の本来の姿がぼんやりと現れる。鱗に覆われた体に、するどい牙、みたこともない異形の姿は現実味に溢れており、その禍々しさは近衛に剣の柄を握らせる。
「申し訳ありません。あなたがたを傷つけるつもりはないのです。どうか落ち着いて」
と言われて納得できるものじゃない。これは開幕からやりすぎでは……と心配になったところで、彼女はやってしまった。
「少々目と耳を拝借します」
卓に座っていた人々が、突然上体をぐらつかせた。
目か、あるいは頭を抑えて、うめき声を上げるのだ。皇帝でさえ例外ではなく、顔を顰めて目頭を押さえつけている。
エルネスタが唸り声を上げた。
「これ、もしかして……」
「精霊郷を飛ぶわたくしの目と、それからあなた方に捕まってからの声、この両方で信じてはもらえないでしょうか」
……それは、初めて顔を合わせる人達にやっていいものなのか。むしろあんなの経験させたら、逆効果ではないだろうか、と、見た光景は違えど、同じように『視た』私は思うのだけど……。
証明としてはこの上ない手段だけど、私は慌ててしまった。これ以上は無用な敵意を買うし、特に皇帝はこの手の証明を好まない。
慌てて彼女を止めた。
「黎明、これ以上は駄目。初対面の人達に、いきなり記憶の共有なんてやるのは無茶だから」
「……失礼を。ですが、これでわたくしがあの竜と同一存在だと信じてもらえないでしょうか。わたくしの記憶が間違いないなら、そこのあなたも、弱ったわたくしの前に立っていたはず」
やんわりと話しかけたのはレクスだった。
「あなたと、皇帝陛下がわたくしの前で話していた記憶もあったはず。これでは不十分でしょうか」
はじめて経験する人はびっくりだったに違いない。
皆が立ち直るにはしばらく時間を要し、レクスが回答するのも、幾度か頭を振ってからだった。
「た……しかに、あれは、私と陛下のお声だった。会話の内容も、一言一句間違いないと言えるが……エルネスタ元長老、これは現実なのだろうか」
「……大変遺憾ながら、作られた幻ではない、と考えてよろしいかと存じます。行われたのは相手からの干渉、記憶の共有であって、わたし達の心を乗っ取る形跡はありませんでした」
エルネスタもまた、いま見せられた光景を反芻しているらしい。こめかみに汗を流し、難しげな様子ではあるものの、受け入れるのは早かった。
「正直信じがたくはありますが、精霊側が嘘をつくとなれば信用問題にも関わってくるでしょう。真実として話を進めても、問題はないかと」
「本当かね? これが薬を使った幻覚ではないと言えるか?」
半信半疑で質問したのは、魔法に縁がない高官だ。
精霊の前で薬の使用発言は、白夜のお付き達を不快にした様子だが、割って入ることはない。
彼らが存分に審議を終えるまで待ち、エルネスタやシャハナ老に進言を行い、時間をおいてから、彼女が竜であると納得してもらえた。私はちらっと皇帝の様子を伺うけど……駄目だ、表情が死んでいる。もしあの人と知り合いだったら、いますぐ逃げ出したいくらい恐ろしいけれど、黎明の主張は止められない。
私もこの時になると、彼女の目的がわかりはじめていた。
「説明するべきこと、人の子には詫びねばならぬことが幾つもある。ですが、まずはわたくしの同胞と、わたくしの依代になってくれた彼女のために声を上げねばなりません」
黎明が語る中で、私も覚悟を据えた、というか据えねばならなかった。
なぜなら白夜が宵闇を討伐すると断言してしまったので、宵闇に元の世界に帰してもらう計画が、ほぼ達成不可能になった。残った現実的な策は、もうひとつしか残っていない。
けれど身分が足りない私では、この場でしか白夜に接触できる機会がない。さらに訴えを起こすため、この場で始まりの鐘を鳴らせるのは、無名の私ではなく『竜』の黎明だ。
黎明は自身が我を失った経緯を告白した。宵闇にいいように操られ、守っていた森を彼女自身の手によって焼き払ったこと。もはや帰る場所がなくなり、弱ったところを人に討伐されたことをだ。
実のところ、このあたりはオルレンドル側としては、経緯は気になりはしても、あまり興味を示すことはなかったと思う。彼らが明らかに眉根を寄せたのは、黎明の次の一言だ。
「宵闇はわたくしの森から大量の竜種を連れて行きました。ほとんどが自我を奪われ、彼女のおもうまま、牙を剥く傀儡としてです」
黎明ほどの力はないけれど、人界を襲うには十分な数を連れて行ってしまった。宵闇が人に敵対的なのは明らかなために、この言葉を彼らは無視できない。
さらに白夜が彼女の発言を肯定した。
「この薄明を飛ぶものは精霊でも指折りの竜だった。連れ出された子たちは、それほどの力はない……が、それはあくまでも我の基準だ」
黎明には及ばなくても、ひとかみで人間は即死するし、この時代の人々は、空からの脅威に対する備えや、戦闘経験がない、と指摘する。
彼女達が本当に宵闇を退治するのかといった疑念の声には、こう答えた。
「宵闇の手により、我らが生まれるべくしてある、偉大なる命の森の半数が消失した。責任と罰は受けてもらわねばならない」
どのくらい大切な森かは定かではないけど、見せてもらったあの森の半数がなくなったと聞くと、ぞっとしない被害だ。
黎明は多少宵闇に思うところがあるようで、胸の前で両手を握る。
「人の子の命を奪ったのは謝って済む問題ではありませんが、あの子はもう人の敵と言っても過言ではないのでしょう。これ以上被害を出さないためにも、あなた方はあの子を早く遠ざける必要があるのです」
「その……よろしいだろうか」
レクスが挙手する。
「宵闇とやらが危険と言いたいのはわかりました。守護竜……殿」
「森を裏切ったわたくしはもはやその名に値するものではありません。ただの黎明と呼んでください」
彼の表情には、あの凶暴な竜と、目の前のしとやかな女性の姿が一致していないように感じる。それでも即座に対応し質問するのが流石だった。
「ではお尋ねしたいのだが、何故貴女は人間を助けるような発言をされるのだろうか」
これに黎明は首を傾げ、レクスは朗々と語る。
「貴女は我らの同胞を殺した。操られていたといっても被害は大きく、簡単に許せるものではない。複雑な思いがあり、それはこの場の全員が同じ気持ちであると告白いたしましょう」
簡単に割り切れるものではない、ときっぱり語るのも当然だ。かといってレクス含め、誰一人仇だと叫び、手を挙げようとしないのは、皇帝の統率力の賜物かもしれない。
黎明もそのあたりは了解しているのか、少し悲しげに頷いただけだった。
「ですが私たちも貴女を捕らえ、生態を解明すべく……率直に申し上げれば、貴女の身体に傷を付けた。名誉と尊厳を損なう行為であったが、そのことに怒りはないのか」
「あなたはわたくしが人を謀っていないか心配なのでしょうが……」
「その通りだ。正直、私には想像に有り余る部分がある。なぜ人を案じられるのかを、お聞かせ願いたい」
おそらく拷問紛いの行為もあった。彼はその点を指摘したらしいけど、このあたりの怒りが持続していないのは黎明が人ではない点が大きい。長命であり、卓越した精神の持ち主だからといった理由が挙げられるが、一番は彼女自身、復讐に飲まれた己を知っているからではないかと思う。けれど彼女の回答には、私も知らない意外な理由があった。
黎明はまるで大切なものを見失わないように、胸に手を当てている。
「痛みを痛みで返すのは容易いでしょう。ですが、はじめに傷つけたのはわたくしであり、そもそもわたくしが傷つけなければ、あなた方は誰も死なずに済みました」
「……だから許すと?」
「許す、というより、そうですね。本来なら、怒りに飲まれながら死に絶えたでしょうが、最期は人に救われてしまいましたから、もはやただ荒れ狂う竜ではいられません」
「救われた?」
「ええ、あなたがたがフィーネと呼ぶ彼女に」
レクスはしばらく言葉を避けるも、やがて深く頷いてみせた。
「……なぜ彼女が関係しているかはともあれ、私はいまの回答で良しとさせてもらおう」
レクスは納得を示してくれたらしい。
次に黎明は皇帝へ頭を下げた。
「皇帝陛下、どうか誤解なきように。彼女とわたくしが巡り会ったのはまったくの偶然であり、意図したものではありません。あなたに敵意がないことは、どうかご理解ください」
皇帝の返答はない。色々と突然な話が多いから、彼なりに状況を把握するために黙っているしかないせいだ。レクスすら状況を整理しようと務めているし、他の者も同じだったせいで、自然と問いかけを出来る人物は限られていた。白夜だ。
「その娘が、汝が怨嗟に飲まれなかった理由か?」
「危うく心まで堕ちる寸前でしたが、彼女がわたくしを包み、悲しみを受け入れる時間をくれました。それなのにどうして人を嫌いになれましょう」
ここで白夜が私という人間をまともに視界に入れるも、何度か不思議そうに首を傾げる。
「穢れた精霊を受け入れられる器だが、人が用意した器には見えない。かといって自然に発生したわけではなかろう。……宵闇の気配がするのは、汝が関係しているか」
「いいえ、彼女はあの子に名前を奪われた人。あなたに与する理由のある人ですから、こうして会ってほしかったのです」
「あ、黎明、それは」
つい発言してしまったけど、後の祭りだ。
「わたくしのあなた。あなたは気付かなかったでしょうが、おそらくあの子が名乗った名こそが、あなたの奪われた名ですよ」
……そうだったの?
自分の名前だから聞いたら絶対わかると思ったのに、さらっと流してしまった自分に驚いている。しかもそれが自分の名である実感すらないし、違和感しか覚えない。むしろいまのフィーネの方がしっくりくるくらいで、どこか他人事に感じてしまうから、これが名を奪われる弊害なのかもしれない。
黎明は続いて、私を白夜に紹介した。
「仔細は省きますが、おそらくあの子は異なる世界から彼女を呼び寄せ、名を奪うことで封印を解いたのだと推察しています」
覚悟は決めていたとはいえ、あっさり言っちゃった。でも名前を奪うことと宵闇の封印がどう関係しているのかがわからない。
「ですからあの子を討伐するというのなら、わたくしは彼女に名を返し、元の世界におくってあげたい。それが堕ちながらもあなたの前に姿を現した理由です、白夜」
黙り込んでしまう白夜だったが、これに手を挙げる人がいた。
話を聞いていた、頭痛を堪える面持ちのエルネスタだ。先ほどまでは威厳を保っていたが、被った猫は捨て、事態の把握に努める方向に切り替えたらしい。
「ちょ……っといいかしら」
「はい、なんでしょう。古き魔法使いの流れを汲む子」
「その妙な名前はわたしのことかしら。……ええと、ごめんなさいね、いままでも話を整理していたのだけど、また突然すぎてついて行けてないのが本音よ」
「わかるまで何度でも説明致しましょう。どこから話しましょうか」
「あー……ごめん、きっと貴女とわたしの感覚が違いすぎるから、どこをどう聞いても、全部突拍子ないから変わんないと思うわ。だから重要な点だけ、もう一度聞きたいんだけど」
「はい」
「きっといま、全員が疑問に思ってる部分よ」
認めたくないけど認めなきゃいけない。聞かなきゃならない、そんな面持ちを隠しもせずに、肘をついたエルネスタが口を開く。
「異なる世界って何かしら」
やっぱりこういう部分はちゃんと確認するのがエルネスタだ。黎明が回答しようとしたところで、私が彼女を制する。
「わたくしのあなた、大丈夫ですか」
「うん。ここからは……流石に礼を失すると思うので、私が話します」
私からちゃんと挨拶しないといけないと、私自身のためにも機を伺っていた。
……どう転んじゃうんだろうなあ、などと心配しているが、行き当たりばったりに慣れつつある自分がいる。
エルネスタは正気に戻りつつあるが、他の人々に深く考えさせてはいけない。思考の空白を突いて私の存在を捻じ込むために、すっかり馴染み薄くなった貴族としての礼の形を取った。
「オルレンドルの偉大なる皇帝陛下にこのような形で拝謁賜ること、また皆さま方を不安にさせる形で登場したこと、オルレンドル名誉市民として深くお詫び申し上げます」
いつもお話しにお付き合いいただき、感想等ありがとうございます。
評価・ブクマ等どうぞよろしくお願いいたします。