30.思い出語り
「段々、見えなくなっていっちゃったんですよねぇ」
剥いた林檎をシャリシャリと美味しそうに食んでいく。小口でちいさく、大事に大事に噛みしめる様はまるでリスのようだ。
私はそんな彼女の髪から水分を拭き取りながら話を聞いていた。
「段々、ということは元は見えていらしたんですか」
「はい。コンラートの動乱の時はちゃんと見えてましたよぉ。町が大変な騒ぎになっているなかで……父母が囮を買って、コンラートのお屋敷まで送り出してくれたんです」
これは予想外だったのだが、彼女はコンラート襲撃を経験して生き残った。この時点でスウェンとの婚約を決め、花嫁修業に励んでいたのだ。コンラート邸に保護された際には、先に避難したヴェンデルには追いつけなかったが、それがニコの命運を分けた。
「旦那様がここにいなさい、って隠してくれたんです。なにがなんだかわからなくて……怖くて震えてたら、いつの間にか騒ぎは静まりかえったけど」
でも伯は亡くなった。家族も死んだし、友人や知り合いといった殆どを失った。先に逃げたヴェンデルも無残な姿で発見された。
後日になって、ファルクラムの都からコンラート領へ向かっていたスウェンがニコを迎え入れた。そのときになって彼女は知ったのだが、襲撃を受けたコンラート領に救援の手を差し伸べてくれたのは、当時は一介の貴族だったローデンヴァルト家のライナルトだ。このときスウェンは彼に感謝していたらしいが、後になってカミル伯とライナルトが襲撃数日前に会談を行っていたことを知り激怒した。
甘い林檎で若干べとついた手を拭きながらニコは言う。
「周辺の領主様に確認を取ろうとしたんです。当時軍が滞在していた演習場所を踏まえれば、襲撃に間に合ったんじゃないか。わざと救援を遅らせたんじゃないかって」
「……ご領主がたはなんて?」
「わからない、だそうです」
彼からしてみれば、その直後に、ライナルトに都合の良いファルクラム王国での悲劇が始まる。二人の王子と国王夫妻の死、ローデンヴァルト家次男による、オルレンドル帝国皇帝実子宣誓だ。
しかもよくよく話を聞くに、初めはニコとの婚姻に難色を示すだけで、当主になること自体は納得していた親族達も、ある日突然手の平返しをしたらしい。それも皇帝の息子に対する疑いを隠そうともしていなかった時に、突然だ。
ここで私は無知蒙昧を装って問いかけた。
「でもご当主になるのに反対はしなかったって本当なんですか。こういうときって、親族の方が……その、不埒な考えを抱くものとおもいますが」
「あたし、そこは疑ってないんです。だってスウェンさまは旦那様の忘れ形見ですし、旦那様のご弟妹は一時期仲は悪かったですけど、やっぱり旦那様の面影があるって皆さま泣かれていましたから」
スウェンが当主の座を追われたときも旅の支度はなされていたし、金銭に形見も渡してもらえたから、とニコは教えてくれる。このあたり喋ってもらえるのは時間の経過故だろう。話し相手に飢えているのもあったし、生来のお喋り好きもあって色々教えてくれる。
「スウェンさまはまだお怒りだけど、皆さまは仕方なくスウェンさまを追い出したって、本当はわかってるんじゃないかしら。ただの領民のあたしは嫌ってましたが、スウェンさまのことはちゃんと案じていたから」
スウェンの皇帝嫌いの決め手はコンラート領にラトリアの人間が入ったと知ったから。
彼にとっては「かもしれない」可能性ばかりでも、家族を失ったとなれば怒りの矛先が向くのも頷ける。
「ニコさんは、スウェンさんについて行かれたんですね」
「あたしももう家族がいないし、スウェンさまと一緒ならどこでも良かったから」
二人は旅の途中で今度こそ一緒になると誓った。帝都で人生をやり直す、コンラートを取り戻すべく邁進すると誓った矢先に、ニコの体調が変化した。
目が痛んだと言う。
曰く、コンラートの壁が崩壊し、屋敷に向かったときからだ。煙を吸って倒れる人々を見ていたから煙は吸わなかったが、煙が少し目に入った。
「でも時々だったんです。ご飯を食べてちゃんと寝ていれば治ってたんですけど……」
「いまも痛むんですか」
「ときどき、ですね。前ほどは激しくありませんから、大丈夫って言ってるんですけど」
「ニコさんのこと、とっても心配されてましたよ」
「うふふ、嬉しいです。嬉しい、ですけど……」
「ニコさん?」
「……いいえ、なんでもないです。それよりも綺麗にしてもらってありがとうございます。あたし目は見えないですけど、すっごく丁寧に洗ってもらえたのはわかるんです。服もふわふわで夢みたい」
「それもこれもリューベック家ご当主の計らいと、協力を得たスウェンさんの働きです。戻ってきたら褒めてあげてくださいね」
視力を段々と失っていって、スウェンは金に糸目を付けず様々な医者に掛け合ったものの、結果はご覧の通りだ。比較的余裕があったはずの資金は底をつき、二人は生活の質を落としていまの家に移り住んだ。
……これは個人的な見解だけど、元は目に毒物が付着したのが原因。あとは長旅のストレスと栄養が偏っていたのも原因ではないだろうか。貴族なら偏りなく食事できるけど、二人旅では商隊にくっついていくなど制限がつくはずだ。
その後のニコは体調が思わしくなく、食欲はあって食べても痩せてしまうらしい。
彼女の話しぶりはどことなくスウェンに見放してほしそうな響きがあって、それは呼び方にも現れている。夫婦関係なのにいまだ「さま」付けを外さないし、夫を語る微笑みには陰があった。
「はぁ、なんだかすっごい話しちゃった。こんなことまで話してたなんて、スウェンさまには秘密にしてくださいね」
「もちろん秘密にします。約束です」
髪を乾かし終わっても戻ってこないスウェンがレクスと何を話しているのだろう、いくら待っても彼は戻ってこない。代わりにやってきたのはエルネスタで、彼女は私が紙に記した診療録もどきを受け取り目を通す。
つまらなさげな態度だけど、無関心なら訪ねてこない。ひととおり確認を終えると、私は部屋を追い出された。
「続きはわたしが看るから、貴女はヴァルターのところ行ってきなさい」
だが部屋を出てから気が付いた。
ヴァルターのところへ行ってきなさいって、肝心の彼はどこにいる。
エルネスタ達は真剣な会話が始まり入れない雰囲気。使用人さんに聞いても目撃証言が得られず、聞き取った推測を頼りに探し回っていると、見つけた先はなんとお庭。しかも人様に見せるような庭ではなく、道具入れなんかの倉庫もある雑然とした裏庭だ。
物置に向かってヴァルターがひとり、後ろ手を組み佇んでいた。
はっきり言って、話しかけるか迷った。大人しく使用人さんに伝言を預け部屋に戻るか考えたが、あえて飛び込んだのはかねがねの疑問を晴らすためである。
忍び足でも、流石は軍人、庭に出て数歩もしないうちに私の気配を感知して振り返った。
そのときの彼の眼差しはどこか透き通っている。無意識に足を止めたのは『向こう』のヴァルター・クルト・リューベックを彷彿とさせたからだが、こちらの彼はあくまでも『ヴァルターさん』だ。
「エルネスタさんからあなたのところに行くように言われました。ヴァルターさんはここで何を……」
「ああ、ここ」
肩越しに倉庫を振り返り笑う。
「レクスを殺そうとした名残を振り返っていました」
思わず足が止まってしまうと、肩をすくめていつもの笑顔に戻る。
「冗談ですよ。昔、二人でよくかくれんぼをしていたので懐かしんでいたのです」
「あ、ああ、そういう……」
「以前はまだ古い建物でして、まわりも片付いておらず、使用人もほとんど近寄らなかった。親には近寄るなと言われていましたが、子供はそういうのが好きでしょう」
何かを守ろうとしている、堅い意思の壁が築かれているよう。眼差しは柔らかいけれど、近づくことをためらわせる。さりげなく家に戻るよう指示するのは、触れられたくない思い出に踏み入ったせいかもしれなかった。
「ヴァルターさん、私に何か用事があったのですよね」
「ええ、あるにはあるのですがフィーネ自身も何か聞きたそうにしていたのが気になっていた」
気付かれていたらしい。わざわざ場を設けてくれる姿に、かつて狂気と呼称するものの名残はない。
大した内容ではなかったけど、聞きにくい内容だったから、内緒話ができるのは助かった。
「ヴァルターさん、わざと髪を染めてらっしゃいますか?」
「染めてますよ」
隠し立てもしないのだった。