29.空白を埋めて
ニコの迎えに行きたかった。
女手がある方が彼女も安心すると思ったのだけど、これを止めたのはヴァルターだ。
「申し出は有難いのですが、彼の住まいは貴女のように身綺麗な女性が行って良いところではない。彼と一緒に我が家で待っていてもらえますか」
「そだな。おれらはうまいこと受け入れてもらえたけど、あんたは行かない方が良い。一昔前ならいざ知らず、いまのあそこじゃ身ぐるみ剥がされて娼館行きがせいぜいだか……なんだよ、止めてるだけだろ」
微笑むヴァルターに気圧されるスウェン。彼と馬車に乗り込む際に、彼はヴァルターに何かを耳打ちされていた。ぎょっと目を剥いて反論する声は、心外だと言わんばかりだ。
「絶対に危害は加えないって約束するから、そういうのはやめてくれ!」
馬車は私とスウェン二人になるから、こちらの身を案じてくれたのかもしれない。けれどヴァルターは迫真の絶叫を聞いても納得できず、私には黒鳥を出しておくよう申しつけた。
道中では膝の上ではしゃぐ黒鳥に半信半疑でも、スウェンはしっかりと頭を下げる。
「謝って済むことじゃないけど、悪かった」
ヴァルターがいなくなったから虚勢を張る必要がなくなったらしい。強気な態度はなりを潜めて、ばつが悪そうに視線を逸らしている。
「言ったでしょう。無事に戻ってくるならそれでいいって」
「でも、だな……。大事な物だったんだろ」
「気にしないとは言わないけど、いまあなたはちゃんと謝ってくれたし、私がこれでいいって決めたからいいの」
「……お人好しだな」
さらに言うならあなたが私にとって特別な人だからだ。それにニコの名前まで聞いてしまってはもはや責めるのは無理に等しい。
リューベック家に到着後のスウェンは案内されてからも落ち着かなかった。エルネスタが顔を出したが、彼女はスウェンを見るなり良いところの出と気付いたみたいだ。
コンラート領主の子息だと教えれば眉を潜め、言葉控えめに「そう」の一言。彼が落ちぶれた理由も、語らずとも察した。
ニコが到着したのはさらにしばらく経ってからだ。
ヴァルターに手を借り現れた彼女は、私が知るニコよりもだいぶ大人びていて……痩せていた。着衣はあたたかさを重視したのか、質よりも量を重視して着ぶくれしているが、だからこそ身体の異常が目立つ。これ以上痩せたら本当に倒れてしまうのではないかと思うほどで、両目は開いているものの、瞳の色は濁り気味で変化している。
はじめこそ緊張していたが、室内の匂いを嗅いだ彼女はすぐに表情を変化させた。
「スウェンさま!」
両手を彷徨わせる彼女を支えるため、スウェンが駆け寄る。ニコの片手は震え気味で、それを慰めるために必死に彼女の頬を撫でるのだ。
「ごめん、本当にごめん。三日も家を空けて不安だったよな。服が汚れてるけどどうしたんだ」
服の膝や肘は土に汚れている。ニコは申し訳なさそうに顔を歪め、か細くごめんなさい、と謝った。
「おばさんから、釈放金があればスウェンさまは牢屋から出られるって聞いて、家中のお金をかきあつめたんです。でもいざ詰所に行こうとしたら、お金がなくなってて……」
「……おばさんって、いつも食料くれるおばさんか?」
「はい。もっと気をつけなきゃいけなかったのに、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「いや、いいよ。……良くしてくれてたもんな、気付かなかったのも無理ないよ」
……たぶん、お金をだまし取られたのかもしれない。
安心したのか、ふらりと足元を崩すニコを支えて座るスウェンは、ニコが持っていたものに気付く。
「悪い、持ってきてくれたんだな」
「いいえ、これだけしか持ってこられなくて……」
「十分だよ」
小さめのひび割れた眼鏡は、私にも見覚えのあるもの。ただ、こちらではあの子の存在は示唆されていないし……生きていたら、スウェンは絶対に手を離していないはずだ。持ち主が誰だったのかを至ったとき、私は感傷を隠すために行動していた。
「ひとまずお茶を飲んで落ち着きましょう。こちらのお菓子は美味しいですよ」
リューベック家のものだけど、色とりどりのお菓子を二人のために選り分ける。そこではじめてニコはスウェン以外の人に意識を向ける余裕が生まれた。
「あの、それでここは……」
「あー……なんていうか、まあ、一応安全な場所……か……?」
スウェンが視線を彷徨わせれば、傍観していたヴァルターが口を開く。
「馬車内で説明させてもらったとおりですよ。貴女のご夫君には少々協力してもらいたい調査がありまして、そのために招集させていただいたのです。ですがご夫君は貴女が大事なのか、奥方の保護を願われた」
「スウェンさま……本当ですか?」
「拘留されたのは間違いでさ、色々ごたついたからこれだけ時間がかかったんだ」
「ああ、そうですよね……。スウェンさまは毎日真面目に働いてるんですもの、拘留なんて絶対なにかの間違いだって思ってました!」
「……うん、信じてくれてありがとな」
ニコはスウェンの盗みを知らないらしかった。ヴァルターも彼女に真実を告げるのは憚ったのか、嘘の説明をしたみたいだ。彼の物腰は柔らかく、道中も無体に扱われなかったためか、ニコはすっかりこの話を信じた。
一変して笑顔になるニコと、随分変わってしまったスウェン。苦労しているみたいだけど、こういった彼女の無邪気な側面を、いままでスウェンは守り続けたのだと伝わってくる。
どうしてスウェンとニコをリューベック家で保護する必要があるのか不明だけど、とにかく二人のために部屋が用意されるし、落ち着いてくれるなら異論なんてあるわけない。さらにニコが落ち着いたところでヴァルターはこう言った。
「滞在中はこちらの魔法使いに身体を見てもらうと良い。彼女は薬師の心得もあるし、きっと貴女のためになるはずだ」
「え、いえ、でも……」
「なに、お金なら心配いりませんよ。ご夫君に協力してもらう報酬だ」
なんとエルネスタにニコを診察させる破格の待遇だ。これにはスウェンも目を白黒させたが、当の魔法使いはどことなくわかっていた様子である。
「わたしの管轄になるってことね。……なら、まずは身綺麗にするためにも、フィーネは支度を手伝ってあげて」
「お風呂ですね、任せてください」
身体の状況把握のために手伝いをするよう言いつけられたが、私たちが離れたタイミングで、エルネスタとヴァルターがこんな会話をしていたのを聞いている。
「レクスは本気なのね?」
「本気も何も、ずっと前から真剣です。盗人なのは気がかりでしたが、それはやむを得ぬ事情であるとわかった。元は血筋の良い青年ですから条件としては申し分ないでしょう」
「あんたがやる気はないんだ」
「器ではありません」
……ヴァルターに聞きたい事があったから戻ったら、なんと割り込み辛い雰囲気か。結局部屋に入る勇気は得られず、回れ右をしてニコの元へ直行だ。
ニコのお風呂は、旦那様といえどスウェンの同席はお断りした。
ちょうどレクスが彼を呼び出したのもあって、お風呂に入ると袖をまくって気合いを入れる。
ニコが恥ずかしがったから、お手伝いは私ひとりだけ。蒸し暑くて大変だけど、むしろ望むところだ。
「お風呂を手伝ってもらうなんて、すみません……」
「いいんですよー。女同士なんですから気にせず綺麗にしちゃいましょう!」
「あのぉ、でも、目は見えないですけど、大抵のことはひとりでできますからぁ」
「慣れない場所で無理は禁物ですよ。私の雇い主のエルネスタさんの指示でもあるので、お手伝いさせてください」
「うう……ありがとうございますぅ……」
わざとらしすぎるくらい元気な声をあげた。
彼女はスウェンと一緒になる前も、後も平民だ。他人にお風呂を手伝ってもらう習慣がないから、つい背を丸めがちになる。あまり綺麗な場所で生活していなかったのか、体のあちこちにある、虫刺されと掻いた痕がたくさん残っている。満足に食べていないのは丸わかりで、背骨が目立ち、殊更痛々しい姿を晒していた。
いつか、違う世界では彼女に背中を洗ってもらい、お湯を流してもらったことがある。今度は私が彼女を介助する側になっているのが不思議な気分で、そして不謹慎にも、かつてぽっかり空いた穴が満たされていく心地であり、同時に私を知らない彼女で充足感を得る自身に、わけのない罪悪感を抱いている。
泡立ちが悪かった髪は丁寧に、耳の後ろまで揉み込んで指を動かした。
「ええと、フィーネさん、でしたか?」
「はい、でも私の方が年下ですからフィーネと呼んでください」
「そんな恐れ多いです」
「恐れ多いもなにも、私もエルネスタさんの使用人ですよ」
スウェンの性格を鑑みるに、ニコに衣食住の不自由はさせないはずだ。それがどうしてこうも痩せ細っているのか、エルネスタに身体の状態を伝えるためにも、慎重に見極める必要がある。
「あの、あたし、スウェンさまが本名を明かしていたからヴァルターさんは大丈夫と信じたんですけど、みなさんはあたし達のことを、どこまでご存知なんでしょう」
「大体は知ってると思います。私なんかはコンラートのご領主一家を存じ上げていましたので、スウェンさんがカミル様のご子息だったのもすぐにわかりました」
「わ。もしかしてそれで、ご立派な屋敷に招いてもらえたのでしょうか」
この一言は、特にニコの心を開くのに成功した。
生来のお喋り好きが発揮されたのか、私が彼女に好意的だとわかると、ニコは色々教えてくれた。
身体のあちこちに掻き傷があるのは、虫刺されと乾燥が原因だということ。
スウェンはいつも彼女を優先してばかりで、ほとんどを休みもせず、稼ぎは彼女の薬代に充ててしまうから心配だということ。
持ってきた眼鏡は、彼の弟さんの形見であることなど、本当に様々だ。さらにお風呂上がりになると、彼女は自身の視力を失った経緯も教えてくれた。