21.精霊の変質
驚くべき話だが、“薄明を飛ぶもの”は積極的な肉食ではなかった。
竜であり雑食ではあるが、分類的には精霊。摂食行為は趣味嗜好となり、生存だけに限るなら食事を摂る必要はない。
が、それはあくまで理想論だ。
やはり食べる行為は精霊も好んでいたらしい。
『とはいえ、わたくしが珍しい分類だったのはたしかです。竜は他の精霊よりも野生に近い。気高さゆえに喧嘩も多い種族でしたから、若い竜ほど共存が難しかった』
「食事を摂ろうとは思わなかったんですか」
『可能ではありました。ですが、わたくしは"明けの森を守るもの"でしたし、命尽きかけた森の仲間たちは自ら命を差し出していた。かれらの平穏を守り、調停を務める代わりに、命を取り込むことで共存をしていましたから、命を狩る必要がなかったのです』
声は流れる声を、私の脳内が変換している。会話はしていても、実際は彼女の鮮明な記憶と感覚で答えが返ってくる形だ。
向こう……ではややこしいので精霊の世界、精霊郷とでも述べさせてもらおう。精霊郷に人間はいない。在るのは様々な精霊達と、自然を生きる動物たちだけとなる。
彼女はそこの“明けの森”と呼ばれる森の守護竜だった。人界に顕現したことはないが、人のことは森を訪ねる友人から語り聞いていた。そのため人間についてはそれなりに知識があったらしい。
『多くの同胞が人界から『大撤収』を果たした折は精霊郷も混乱を迎え、色々変わってしまいましたが、それでも平和ではありました』
『大撤収』は過去において、人の王様達が精霊に大陸からの退去を求めた話だ。隠された歴史といおうか、私も真相はシスから聞いただけなんだけれども、精霊郷でも帰還後は大変だったらしい。らしい、となったのは彼女は基本森に住まいだから、詳しくないそうだ。
「精霊郷ってどんなところなんでしょうか」
『いまは人の里と差異はなく、人がいるか、いないかの違いではないでしょうか。……見ますか?』
「見られるんです?」
『私の記憶から同じ視界を差し上げましょう』
いつの間にか空に立っている。足元には森や谷が広がっていて、遙か遠くには宙に浮いた岩の塊群や、空の隙間から滝が流れていた。空中に浮かぶ崩壊した建造物は、重力がまるで仕事をしていない。昼間なのに空は結晶が舞い、きらきらと光り輝いていた。
「すごい……あんな建物まであるなんて……」
『あれは、はるか昔に人の世からもってきた都市です。だれも住んでいませんが、わたくし達が時折羽を休めるのに使います』
「……地上にあるのは街ですか」
「ええ、ご覧の通り、わたくし達の里です」
社会形成をしないはずと考えていた精霊にも街の概念があった。いくらかの集落が存在して、建物があり、そこに彼らは住んでいる。
私が知る人型の他にも、物語で伝え聞くような、羽の生えた精霊も当然のように飛び回っていた。
「精霊が街を作ってるって、ちょっと意外」
『むかしはばらばらに点在していましたが、おそらく人を真似たのでしょう。精霊にも弱く小さきもの、不定形のものといます。身を守るために、群れを成した方が良いと判断したのでしょうね』
「思ったより弱肉強食だし……あなたもあの中に行ったことあるんですか」
『わたくしは、大きいためにかれらに近寄れば怖がらせてしまうから……』
精霊世界にも弱肉強食の概念が存在する。否、自然と近しいからこそなおさら当然の概念なのかもしれなかった。
景色が一変し、緑が深い広大な森が目の前に広がった。
そこが彼女の住まう“明けの森”だ。
『明けは眩いほどの太陽の恵みに溢れ、月が昇る神々達の時間は、緑や白に赤の虹が舞います。色とりどりの風が交差すると、煌めく星々のもとで踊り明かす虹たちを眺める。その時間がたまらなく好きでした』
『すばらしい森だったんですね』
『はい。様々な祝福をわたくしにたちに与えてくれたのです』
彼女はその森で長く在った竜だった。
私が知る彼女は血に汚れた赤汚れた鱗を持っていたが、記憶の彼女は白銀の鱗を持つ竜だった。
彼女自身が語るように、見目は確かに恐ろしい。けれども実際に見る“薄明を飛ぶもの”は目を奪われるほどの壮大さと美しさを秘めていた。森に住まう動物と語らう姿は聡明さを示し、動物たちは彼女を敬っている。守るもの、の名の通りの存在だったのだと推察できる。
そんな彼女も、いつしか唯一の存在を迎えた。
こちらは青っぽい鱗を持つ竜で、彼女よりは幾分若い雄だが、長い月日をかけて二匹は番となった。巣を作ると卵を産み、大事に大事に慈しむこと、人間の時間に換算しておよそ九十年。あと十年で卵が孵るのだと揃って楽しみにしていた。
番に卵を任せ、一時的に巣を離れたとき、遠方から竜の咆哮が轟いた。それは通常では発せられない命がけの、文字通り生命を賭けた咆哮だ。
『わたくしの番の、聞いたことのない悲鳴でした』
巣の危機を察すると急ぎ戻ったものの、そこにあったのは殺された番と、番が最期まで守った卵たちだ。
卵はすべて割られていた。
さめざめと泣く“黎明”の声が耳を打つ。
『わたくしは、わたくしの番と、子供達を殺され我を失ってしまった。その油断が隙を生み、それがあの子にも伝わってしまった。我を忘れ挑んだけれど、あえなく大敗し、この目と心を奪われました』
その時の状態を、彼女は深く記憶していない。
あるのは激しい怒りと、愛しいものたちを求める衝動だけだ。
「あなたは精霊郷にいたのに、いつの間にか人の世界にきたんですか?」
『気付かぬ間に精霊郷と人界を繋ぐ門を潜ったのでしょうね。従来なら門は監視されているのですが、白夜の対であれば、新たな門の創造は可能です』
「気が付かないほどに、怒りに飲まれていた?」
『なにもわからなかった。あるのはただ、奪われた痛みを返してやる……それだけだから』
失った目は痛む。けれどそれ以上に大切なものを奪われた怒りがすべてを支配し、まるで導かれるがままに仇を討っていった。
聞こえてくる悲鳴も、自らの歯が潰す肉の感触も、奪っても奪っても足りなかった。
その彼女を導くのは“宵闇”の声なのに、憎むべき相手に誘導されているのも気付けない。変わり果てた“薄明を飛ぶもの”が命を奪うたびに無邪気な笑い声が響いていた。
「やっぱり、お腹の痛みは……」
『生きるため以外に、守るべきでないときに爪を振るいました。これにもまして人の世にかかわり、奪う必要のない生命を奪うのは、わたくし達の罪。ゆえにわたくしは……守るものとしての資格を失い、穢れ、変質してしまった』
鱗の変質は穢れが理由だと言った。いまは元の気質と、穢れに染まった心の均衡が取れていない状態なのだと語る。
『かれらの命がわたくしのなかで、ずっと蠢き続け、心が無念を叫ぶのです。けれどわたくしはただただ怒っていたから……』
彼女に共鳴する私には、彼女にとってつらい記憶の一部が流れ込む。それはどこかの戦場、宵闇に繰られた竜が復讐に駆られ、人を足で掴み捨て、千切り、食い捨てる様がありありと流れ込んでくる。
そこで私は、馬がいななき、幾重もの驚きと悲鳴の中でも、勇敢さを失わない声を聞いた。
「引け、引け引け引け! 殿は私が務める、とにかく安全な場所に逃げろ!!」
ひとりでも多くを逃がそうとした赤毛の将校の叫び。見えなくたってわかる。竜が人々を襲っているのに、臆さず自ら囮になって――。
「やめて」
“黎明”の肩を押しやり共鳴を解いていた。
「……わたくしのあなた、どうされたのですか?」
「お願い、それ以上はだめ。なにもみせないで」
声が震えていた。これ以上は聞きたくない。
私はこちらの赤毛の将校を知らない。知らない人なのだから、元の世界のニーカさんと同一視してはいけない。なのに声を聞いてしまったら、はっきりと彼女をニーカさんを殺した竜として認識してしまう。『向こう』と『こちら』を混同してはいけないと決めた決意が揺らぐ。心が持たなくなる。帰ると決めたのに頑張れなくなるのは駄目だ。
震えを抑えていると、ふわりと抱きしめられた。
子守歌を唄うみたいに、けれどほんのりと悲しさを込めながら頭を撫でてくれる。
「わたくしは、聞かせなくても良いものを伝えてしまったのでしょう。ごめんなさいね」
「い、いいえ。それより……捕らえられたときにひとりだったのなら、解放されたのですよね」
なぜ困ったように笑いを零すのだろう。
「ええ、あの子はしばらくわたくしを使いましたが、やがて飽きてしまった。わたくしも限界でしたから、動けなくなるとどこかへ去ってしまった」
「そっか」
「ですからもう、つらくはないのです。……さみしくは、ありますが」
母さんに抱きしめられたときみたいな甘い香りがする。
彼女はすべてを知っているわけではないのに、私を労ってくれる。
身の上話を聞いていたはずが、この状況をいったいどうするべきか。気持ち良いけれど、意を決して身動きすると、やわらかい声が耳朶を打つ。
「あなたはがんばってきたのですね」
たったそれだけなのに、あっけなく涙腺が決壊した。
寂しい、怖い、帰りたいと溢れる気持ちが蘇り、なによりすべてを話しても良い“黎明”との出会いに安堵していた。たとえ彼女が人の理の外にある竜だとしても、手放したくない。
みっともないくらいに彼女の胸で大泣きし、眠りにつくまでは時間を必要としなかった。