閑話:彩のない世界
陛下、と声がかかった。
オルレンドル帝国は帝都グノーディア、その宮廷にあるライナルトの執務室に帝国騎士団第一隊隊長マイゼンブークが入室する。
「失礼いたします。報告に参りました」
それはこの一ヶ月で、もはや定例になりつつある恒例行事だ。
肝心のライナルトは顔を上げない。書記官から書類を受け取り、内容を改めているが、いちいち返事を待つ必要はなかった。そして、結果を先延ばしにするのもよくないと男は心得ている。
「我が方の力及ばず、未だ発見に至っておりませぬ」
そうか、と端的な返事が返ってくる。
相変わらず男性にしては美しすぎる顔で、淡々と事務処理をこなしていく様は機械的でもあった。
「以前申し上げましたとおり、今回は山岳方面に手を広げてございます。このまま捜索を続けたく存じますが……」
「ご苦労だった。そのまま捜索を続けろ」
「かしこまりましてございます」
無言で頭を垂れた。もとより躊躇とは縁のない皇帝だっただが、特に今回の件においては一切の妥協やためらいを見せていない。側仕えの文官ですらまともに口を挟めないようで、面と向かってもの申せるのは宰相クラスか、そうでなくてはニーカ・サガノフといった者達だけだ。
退室したマイゼンブークは途中第二隊隊長エーラースと顔を合わせるのだが、相手はマイゼンブークを見るなり同情に顔を歪めた。
「相変わらずか」
「ああ、進展はない」
「このあとはどうなる」
「どうなるもなにも、見つかるまで捜すだけだ。足が延びればヨーを刺激してしまうかもしれんが、陛下は構わんといった方針だからな」
「そうか。ファルクラム方面にも向かわせているのか」
「目端の利く者を行かせている」
相づちを打つだけのエーラースだが、このままでは隣国を刺激するのはわかっている。だが第一隊の捜索をやめろ、と言えないのは彼らなりの事情があってだ。
――皇帝の婚約者が失踪した。
ある日、彼らの皇帝との逢瀬を楽しみ、帰りを見送った間の出来事だったらしい。まだ隠れた監視が大勢残っている中での出来事だ。ほとんどの視線が皇帝に逸れていた。彼女を見ていた者はほんのひとときだけ目をそらした。隣にいた家令においては頭を垂れ、頭を持ち上げた一瞬のうちにいなくなっていた。
その日以降、皇帝はコンラート家のカレンを捜している。
「それでもお手を止めになられないのは流石だが……」
「嫌味か?」
「なにがだ」
本心から言ったマイゼンブークだが、エーラースの意見は正反対だ。
「そうか、お前は直接指揮をするから帝都を離れる時間も長いのか」
「だからなにがだと言っている」
「陛下は確かに手をお止めにならない。内乱の傷跡による復興も順調だし、我らの業務が滞ることもないさ。帝都はいたって順調だ」
だが、とエーラースは肩を落とす。これは彼もやっと聞くところに及んだのだが、王をいただく身としては大問題だ。
「前にも増してお休みにならないのだ。陛下には休憩時間という概念がないのではないか。政に向かってくださるのは嬉しいが、我らとしては心配になる」
「ああ、そういうことか」
「簡単に流すでない。倒れられては元も子もないのだぞ」
王が遊びに耽るのではなく、休まないから不安になるなど滅多にない事例だ。
エーラースの心配をよそに、一方の執務室では、肝心の皇帝は仕事の虫だ。休憩から戻ってきた秘書官ジーベル伯は、変わらず主が休憩を挟まぬと聞いてため息を吐いた。
「食事はとってくださるし、夜もしっかりお眠りになる。我らには休みをくださるのだ。おかげで帝都の発展はめざましくもある。成すべきことはなしておられるのだから、悪くないのだが……」
しかし休めといって休むライナルトではない。いざとなればニーカ・サガノフが気絶させると豪語しているが、それを彼らが容認したいかと問われれば否である。
ライナルトが黙々と働きを見せる最中で、ある人物が彼を訪ねた。
「失礼いたします、陛下」
「こんにちは」
ヴェンデルを伴ったキルステン伯である。来訪を告げられていなかったライナルトはちらりと顔を上げる。
「お二人か。息災だっただろうか」
「悩ましき事態ではございますが、おかげさまをもちまして、つつながく過ごしております」
ライナルトにとってこの二人は将来的な義父と義息子にあたるが、しかしライナルトが席を立ちはしないのは、根本においてキルステン伯アレクシスは彼の部下だからだろう。それにいまは唯一彼を動かせる存在も行方不明だ。アレクシスも立場をわきまえているので、深々と頭を垂れていた。
「今日はどのような用事で来られたか。捜索ならば、相変わらず芳しくない」
「そちらはヘリング殿からよく伺っております。娘のために人員を割いていただき、ありがとうございます」
「私にとっても大事な人だ。礼は見つかってからにしてもらいたい」
「それでも最大の感謝を。我が家だけでは捜索の手は広げられません」
二人が挨拶する間にヴェンデルは対談用長机の上で黙々と準備を進めている。あらかじめ頼んでおいた茶器類を広げ、あたためられていたティーポットに茶葉を入れ蒸らし始めるのだ。
「へーか、こっちこっち」
手招きするも、ライナルトは怪訝そうに眉根を寄せただけだ。ただこの反応は予想していたのか、ヴェンデルも続けた。
「これ、カレンが最後に調合してた陛下用のお茶」
「カレンが?」
最愛の名にようやく見せた反応だ。
「まだ上手くいかないって出してなかったの、見つけたから持ってきた。陛下用のって言ってたから、どうせなら本人に出した方がいいでしょ」
「そんなものを作っていたと?」
「仕事ばっかりだからせめて気が休まるものをってね。お気に入りも持ってきたから、ほら早く」
そう言われてしまえばライナルトも席を立つ。アレクシスはヴェンデルの隣に座ったが、彼はほぼヴェンデルの付き添いだ。彼には孫ほどライナルトを扱える自信が無い。
それに、この場合アレクシスは黙っているべきだ。
彼がいま口を開くと、どうしても娘の笑顔が脳裏に纏わり付く。報告は受けているものの、どこを捜しているのかを尋ねたくなってしまう。
それはできないのだ。
何故ならコンラート家はいま不安に襲われている。アレクシスにとってもだが、大事な家族が目の前で消えた衝撃は激しく、また家令のウェイトリーにおいては隣にいたにも関わらず彼女がいなくなったのに気付けなかった。後々は大勢の目撃者がいたおかげで彼らにも罪はないと断定されたが、ウェイトリーはすっかり元気をなくして参っている。ヴェンデルもいまは普段と変わらず振る舞っているが、今回ばかりは自ら休学を申し出ていた。
エミールや学友達が頻繁に会いに行くものの、明らかに口数は減っている。ヴェンデルを不安にさせないためにも、いまは余計な口を挟むべきではなかった。
「僕は良い香りだと思うんだけどね」
「……私には少し甘すぎる」
「味は?」
「嫌いではない」
「なるほどねー。それで上手くいかないって言ってたのか。でもカレンが合わせたやつなら陛下飲んだでしょ」
「飲めないわけではないからな。それにカレンが用意した物なら価値はある」
「そ、相変わらずでよかった。でもちょっとくらいは甘いもの食べられた方がいいよ?」
何故? と問う目にヴェンデル自身も不思議そうに首を傾げる。
「さあ。でもなんか、寒い日は好きな人にチョコレートを贈って一緒に食べたいって言ってたから」
ヴェンデルがなにを求めライナルトに会いに来たのかは不明だが、どこか安堵した物言いは、少なからず少年を安心させられたのだろう。
「見つかるかな」
「そのはずだ」
「自信あるね?」
「私に無断で消えるはずがない。失踪の原因が外的要因でしかないならば、ひとつひとつ潰していくしかあるまい」
「……シスはいつ戻って来られそう?」
「十日内には」
半精霊の青年だが、彼はカレンが姿を消した直後から接触対象になっている。今回は旅立ってから時間が経っているため見つけるのは難しいと思われたが、今回は自らオルレンドルに接触を図ってきたのは記憶に新しい。
彼が戻ってくるならば、ルカも戻ってくるはずだ。ヴェンデルが膝の上で両手を組み合わせるとアレクシスが慰めるのだが、ライナルトは少年に気の利いた言葉をかけられない。
できたのは茶の礼と、捜索を諦めるつもりがない旨だけ。
彼らが帰った後、モーリッツとニーカが揃った場でそのことを問われたが、彼はこう言っている。
「見つけてもいないものを約束はできん」
「子供にはせめて優しさを見せろ。仮にも義息子になる相手なんだから……」
頭を抱えるニーカに、モーリッツは口を噤んだまま茶を啜っている。
「私には向いていない」
「向かなくても、やれ」
「その役目は別の者でこなせよう」
「それを彼女の前で言う気か、ええ?」
「いないのならば意味があるまい」
まったく、と彼女が頭を抱えるのは、やはり彼の『人らしさ』が誰の前で発揮されるかによるからだろう。ニーカやモーリッツだからこそ理解を示してやれるが、正味、この対応をキルステン伯アレクシスがどう感じ取ったか、友人としてニーカは不安で仕方ない。
「せめて……もう少し態度に出してくれ。いつもと変わらず仕事して……そんなだから変な輩が湧くんだ」
「どんな状況だろうが蛆は湧く、政を滞らせるわけにも行かないだろう」
カレンが行方知れずになって早一月。ただ一介の貴族だった頃とは違い、彼女の不在は段々と隠しきれなくなっている。事態を明るみにしないだけなら可能だが、捜索隊を組まないわけにも行かないから妙な噂が囁かれ出したのだ。もはやこの事態が明るみになるのは時間の問題だと、先ほどモーリッツは忠告しに来たのだった。
しかしそんな状況でもライナルトは変わらない。普段通り政務をこなす上に、婚約者がいなくとも慌てないから誤解されるのだが、彼を知らない者はライナルトとカレンの仲を疑うのだ。あまつさえ彼女が追い出されたなどと、都合の良い噂を信じる馬鹿者まで出始めている。
あわよくば娘を皇帝とお近づきにさせたい。三日ほど前、そんな無謀な欲望を抱いた貴族はライナルトの不興を買いしばらく出禁となった。
彼の愛情はいまだ一人にしか向いていない。
大体、真実政だけに専念するなら予算を割いてまで捜索隊は出させない。噂よりも彼女を優先するのは、なにがあろうとも彼女しか皇妃にしない考えの表れだ。
それがわかっているから、ニーカ達も諦めないのだと、彼を理解する者達は知っている。
モーリッツは砂糖を投入する手を止め、ニーカに質問した。
「あの男はいつ来る」
「シスか? ……エレナに迎えに行かせたから、予定よりは短縮できるはずだ」
「そうか、ならば思ったより早かったな」
「今回は自分から出てきたからな。で、場合によっては軍では解決できない問題かもしれないから、魔法院に再度渡りを付けておいてくれ」
「言わずとも優先的に働く。彼らはコンラート夫人なしでは今後がないと知っているからな」
彼らが異常事態だと悟っているのは、シスの出現も大きくある。なにせライナルト達に連絡を取ってくるはずのない男が、旅の同行者を差し置き、拘っていた人の形を解いてまでオルレンドルの国境近くまで戻ってきた。
ここから先はまだヴェンデル達には教えていないが、シスは伝令にこう言った。
『人形が動かなくなった』
これが誰に該当するかは全員知っている。
カレンの使い魔たるルカに異常が発生したのは明らかだが、しかしシスの伝言は死んだ、でも消失した、でもない。ただ『動かなくなった』だから、希望は残っていると考えている。
この報告を受けたとき、ライナルトはなにを感じたのだろう。その答えは友人達といえどわからない。
陶器の器を置くと「しかし」とライナルトが言った。友人達はそれぞれが口を噤み、一言一句逃すまいと耳を向けている。
珍しくライナルトの目は現実を見ておらず、消えて久しい最愛を追っていた。
「随分景色がつまらなくなったな」
この声を聞くと、モーリッツとニーカは席を立つ。
互いに部屋を出るとどちらからともなく腕を持ち上げる。
顔も目も合わせない。ただ去り際に持ち上げた手の甲がコツンとぶつかり合い別れるのは、軍学校時代の習慣だ。
「任せた」
「任されよう」
現場はニーカが。世論はモーリッツが。
それぞれにこなせる役目を理解した上で、短いひとことに信頼が込められていた。
――彼にとって彼女のいない宮廷は、少し、彩が欠けている。
ライナルト側の話を書くつもりはなかったのですが、14日なので用意しました。
ハヤカワnoteにて6巻の登場人物紹介、収録される書き下ろし短篇2篇にも触れていますで是非ご覧ください。甘々です。