137.妻の勘
急かして戻ろうとする私に、もう話すことはないと背を向けるシグムント。
地団駄を踏みそうだったヤーシャだったが、私たちの意向を無視するわけにもいかなかったようで、名残惜しそうに兄を見ながら距離を取る。
この話題に興味を失ったシグムントは最後まで弟に話しかけない。
それどころか彼は私の方をじっと見ていたから、ちょっと不気味だと感じて、私は部屋を出てしまった。
しばらく置いてヤーシャも部屋を出てきたが、時刻は夜になっていたようで、薄暗がりの道を慣れた様子で歩く青年を追いかけるのだが、彼の疑問は私に向いた。
「おま……いや、カレン皇妃は兄上を知っていたのか?」
「あら敬称で呼んでくれるなんて珍しい……っていうのは置いといて、私がシグムント様を?」
「ああ。まあ知っていたというより、顔見知りとか、親しくしていたとか……」
端から見れば、私とヤーシャは使用人とその主とでも映るだろうか。
私に足並みを合わせてくれるあたりが、意外に気遣いの出来る人なのだと人柄を表しているようだけど、その内面を誤魔化すように、口調は強めだ。
ただ、このときは彼の中に在る動揺を隠せていなかった。
私も彼の疑惑に気づき、無実を主張するために、堂々と胸に右手を当てた。
「そんなわけありません。大方、シグムント様が私に好意的な感じだったから疑ったのでしょうけど、私は旦那様一筋ですから」
「そういう風にみたわけじゃ……いや、その、すまない」
既婚者に対して不貞を疑うような質問、普通なら怒ってもいい内容だけど、今回ばかりは彼がそう聞きたくなった理由もわかるから、私も首を傾げていた。
「貴方のお兄様、なんでか私に好意的でしたものね」
「なんでわかった!?」
「感情表現がわかりにくくて似てる人を知ってるから」
ヤーシャも感じていたらしいから、間違っていなかったらしい。
とはいえ、前々回の蒼茫、前回のウツィアと一緒の時には特に何も思っていない様子だったから、本当に理由が解せない。
シグムントの部屋は上階にあるのか、階段を降りながら腕を組む。
というかあの人、私が王宮に入り込んでいたり、お母様であるダヌタ妃と私が会ったことを知っているのに、何も言わなかったのもおかしくない?
「ライナルトの名前を出したときの方が嬉しそうだったし……」
……正直、私にとってシグムントって、ウツィアを推薦している理由といい、何を考えているか全っ然わからない人だったのだけど、さっきの兄弟の会話で、ピンとくるものがあった……ような気がした。
だから正解とは断言できないけど、もし私の予測が当たっているのだとしたら、点と点が線になって繋がったというか……。
考えを整理しているいると、用意してもらった馬車を使って隣の宮に移動するのだが……。
「ねえヤーシャ、もしかしなくてだけど……」
「着いたぞ」
「はい?」
てっきり宿に送ってくれると思ったのに、馬車を走らせただけで到着ってどういうこと?
王宮と同じ敷地内にある建物は、本宮とはまた別棟になっている。おそらく離宮なのかもしれないが、だからといって庭や建物の格調が劣るということはない。
重厚な二枚扉を潜った内部も派手派手しさはないが、想像しい喧噪からは無縁の心安らぐ時間が約束されていそうな趣があった。
あらぁ……と天井を見渡していると、あることに気付いた。
「え、あれ?」
ここはラトリアの政の中心地だから、警護の人間がいるのは当然だ。
そのはずなのに、私たちの到着と同時に姿を現したのは、私がよーーく知っている人物だった。
「ジェフ?」
誰もがはっと目を奪われるような美中年は、本国にいるはずの私の護衛隊長だ。
なんでこんなところにいるのと声を失っていると、目をつり上げて怖い顔をしていたジェフが、私を見るなり目を丸める。
「カレン様?」
「はい。私です……ってことは、やっぱり本物?」
尋ねるなり、体中から空気が抜けたかのように崩れ落ち……るのは寸前で留まったけど、膝を折り、全身で息をするのだから、こちらが驚いてしまった。私や部下にも心配されながら、彼にしては時間をかけて立ち直ると、今度は感無量と言わんばかりに天井を仰ぐ。
「よかった。本当にご無事で……よかった」
「あっ、ってことは、心配かけた?」
「…………生きた心地がしませんでした」
あらまぁ。やっぱり苦労したみたい。
淡泊な感想になってしまったのは、何回も行方を眩ました経験故、だろうか。
でも慣れてしまってはいけないので、ちゃんと謝っておくのは忘れない。
ただ「ごめんね」と謝ってみても、こめかみを揉み解すだけで反応は鈍い。
このままだとお説教は免れない予感がして、誤魔化すように両手を叩いた。
「ところでジェフ。あなた、いつ頃こちらに来たの?」
「……五日前です。それよりも、ラトリア方はカレン様の出奔に関与していないとは、そこの王子殿下の言でしたが」
ジロリと剣呑な目つきになるので、「ひぇ」と怯むヤーシャ。
私という秘密を守るためか、ご丁寧にも彼は護衛を付けていない。助けてくれる人間がいないため、助け船を出せるのは私しかいなかった。
「彼は無関係。で、ここまで何事もないように連れてきてくれたのだから、怖い顔をするのはやめてちょうだい」
そう言えば、ジェフは一応下がってくれる。
次に私が言いたいことは察してくれていたようで、一番知りたかったことを教えてくれた。
「陛下でしたら、二階の自室に」
「いまから行きます。それとヤーシャ」
「な、なんだ?」
「送ってくれてありがとう。あなたとはまだ話したいことがあるから、そのうち訪ねてきてくれると嬉しい」
彼とはまだ話したいことや質問があったけど、考えが纏まってからでも遅くない。
もし私の考えが正しいようなら、彼とは仲良くなっておいて損はない……そう思って渾身の柔らかい微笑みを作ったのに、私にむかって胡散臭いものを見るような、いまにも「うわぁ」と言いそうな顔になる。
「うわぁ」
「ねえ、そういうのは思っても口に出さないのが礼儀というものよ?」
素直なのはいいことだが、本当に口に出す人がいますか。
顔に出やすいのがシグムントと違うところなのだろうが、この兄弟の場合、足して二で割った方がちょうど良くないだろうか。少なくとも、オルレンドルとしてはその方がとっても助かる。
一人で戻れると言い張るヤーシャを見送ると、私がまっすぐに案内してもらうのは二階だ。
本当はどうして住居を移しているのだとか、ジェフがここにいる理由とか、通りがけに私を見つけたニーカさんが座り込んでアヒムに慰められてたとか……。
ジェフ同様、本来ならここにいるはずのない人間その二のエレナさんがいる謎を解明しておくべきだったが、それは全部後回し。
ひとまずは婚前前に続き、再び大事な存在を見失いかけた人の「寂しい」を解かねばならない。
階段を登って二階。
逸る気持ちを抑えても、早足になってしまうのは否めないだろう。
中央にある扉にジェフがノックを行うが、私は返事を待つ必要はない。
勝手に扉を開いて、固い石の床を踏みならして室内に入れば、中央の長椅子に座っていた人と目が合った。
私を見るなり腰を浮かして立ち上がると、私の好きな、黄金色の波打つ髪が揺れる。
滅多に動揺することのない青い瞳に向かって言った。
「ただいま、遅くなりました!」
この瞬間だけは、私はちょっとした予言者だ。
なぜならたった数秒後にライナルトが力いっぱい抱きしめてくれることや、大丈夫、と言ってもしばらく離してくれないことを簡単に予測できる。実際、彼はシスが止めるまで力を緩めてくれなかったし、私もされるがままになっていた。
…………やっぱり彼の傍が帰るところなのよね。
コンラートの家でもなく、オルレンドルの宮廷でもなく、ライナルトという人の傍に在ることが私の幸せ。
その事実を実感すると、シグムントが去り際に放った言葉が、不快な空気となって身体に纏わり付いて離れないのだった。
勘が囁くのだ。
私と話をするとき、シグムントはきっと、私を通してライナルトを見ていた。
……場違いも甚だしいし、本当に自分でも釈明できないのだが。
ライナルトはここにいるのに、彼を取られたような気分になって、胸のムカムカが止まらなかった。