134.古精霊達の願い
疵は神々の海側から入ったという。
それは流れ星が空を横切り、天と地の間に爪痕を遺すように精霊郷の空を傷つけた。同時に、流れ込んできた神々の海が数多の精霊を吸い込んでいった、と彼女は語る。
白夜は憂いを帯びた瞳で裂け目を見つめた。
「我らは急ぎ、神々の海の影響が及ばない地に移った。だが浸食は止まらず、日を追うごとに我々の大地を死の土地に変えて行く」
白夜が指を鳴らすと場所は森に移る。
それは小さな集落と思しき里なのだが、いままでの精霊郷観賞と違うとしたら、それは精霊達も私をみることができたということ。白夜の連れているのはすぐに人間だと知れ渡り、誰かが「人間だ」と呟いた言葉を皮切りに、さざ波のように好奇心が広がって行くのだ。
私も竜以外で人型以外の形を持つ、多種多様な精霊を初めて直接目にした。
それこそ人が夢物語で紡ぎそうなあらゆる形の精霊達。一つ気になるとしたら、彼らの瞳にはいずれも不安の種が宿っているということだ。
精霊が人の住処を模倣していたのは知っていたけど、こうしてみると、本当にあらゆるところがそっくりそのままだ。空はうっすらと虹色の光に覆われている。
「白夜、案内は嬉しいのですけど、私を衆目に晒していいんですか。これが星穹にばれでもしたら……」
「ここにいるのは我の保護管轄……いわゆる近親者達ゆえ、むやみに口外したりはせぬよ。そも、漏れても問題はない」
「ないんですか?」
「皆、もう些事に気を取られるほどの猶予がないのだよ」
白夜さま、と不安げに声をかける小さな精霊に彼女が微笑むと、それだけで精霊は安堵の笑みを浮かべる。するとどうだろう。それまで不安でいっぱいそうだった精霊が、泣きそうながらも安堵に胸をなで下ろした。
……それだけのやりとりだけど、この光景に私は心のどこかが酷く揺さぶられる。
ただ、この気持ちが何なのかを考える暇はない。
里外れを行く白夜が問いかけてきたからだ。
「我らの里はどうだ?」
「すごく人に近い、ですね。黎明に見せてもらって知っていたはずですけど、改めて驚かされた心地です」
「この数百年で我らは変わった。『大撤収』の際に各々が持ち帰った人への郷愁を、生活という形と変えてな」
うっすらと笑い、そして吹いた風に眉を潜めながら手をかざす。
「避難した後だが……あまりに多くの同胞が消えた我らは、一丸となって手を取り合った。主に動いたのは、我のように神々の海に己を晒しても己を失わず、"海"で迷わずにいられる古精霊だ。あらゆる場所を探し、“海”の浸食を防げるか、或いは影響の及ばぬ地を見つけられぬかを模索した」
……私も体験した神々の海渡りだ。あのときはフィーネの助けがあったから帰れたが、つまり浸食してきた“海”に晒されたら、波に攫われるように連れて行かれて同じような現象に遭うらしい。
「――結果は?」
「精霊郷はじきに神々の海に飲まれる未来のみが残った」
精霊達は話し合った。
「進むべき道は多くなかった。もはや精霊郷は滅び行くのみと定められれば、郷を捨てるしかない。ではどこに行けるかといえば……人の世界しかない」
「ああ、それで……」
それで、精霊達が人界への帰還を決めたのだ。
この異変は、もしかして「向こうの世界」でも発生していたのだろうか。もはやそれを確かめる術はないが、向こうでも白夜は帰還の理由を語ろうとしなかったのは知っている。
なら……同じ事が起こったと考えても良いのだろうか。
ただ、二つの世界の違いはある。
それは生きるために人界へ渡る覚悟を決めた者と、郷と共に滅び行くべしと決めた者。
白夜は後者だ。
「残ることを決めた者は、ほとんどが長くを生きる古精霊だ。人界へ渡る子らと、残り時間を穏やかに過ごす子らのため、我らは柱となって結界を作ることとした」
「だからといって、柱になるなんて……」
「自分一人を守るだけなら容易い。しかし大勢を生かすためには、もはや我らが総じて身を削るしか術がなかったのだよ」
私は情けない顔をしていたのだろうか。白夜がくすりと笑い、透き通った指で私の頬を撫でた。
「いまは我らが囲むように結界を張ることで、一部の大地のみだが、かろうじて浸食を防ぎ、結界内ならば通常通り過ごすことができる」
「よく、皆さんが同意されましたね」
「ほう?」
「精霊も一枚岩ではないでしょう? そんなことを簡単に……」
「それも精霊郷に住む半数以上の精霊を吸い込まれたからだ。もし全員が残っていたのなら、我らはこの結論に至るまで長い時間を要しただろう」
白夜は悲しげに空を見上げた。
「まだ少し余裕があった頃だ。我らは“海”に飲まれた、本来ならば多少なりとも"海"を渡れるはずの、同胞の帰りを待ったが、彼らはいまなお姿を見せない」
また、同じように探しに行った精霊も戻ってこなかった。
精霊郷にはまだまだたくさんの同胞がいるのだ。そんな状態で、力のある古精霊達まで世界の壁を越えて、しかも時間の概念が途方もない場所へ捜索に行くなどできない。
だから彼女達は結界の『柱』になることを決めて……後事を託した。
「……あなた達は星穹やその仲間達へ人界との交渉を一任されたのですか?」
「あの子達が誰よりも他の子らを生かすことに精力的だった」
……ああ、なるほど。
それなら星穹が精霊達の代表を任されていると言っても過言ではない。
“星の使い”は確かに嘘はついていなかったが、でも、と私は問いたい。
「どうして彼は真実を話してくれなかったのでしょう」
「それを聞くか? オルレンドルの皇后よ」
「……その言い方はちょっと意地悪」
少し涙声になってしまったのは、私がとっくに、彼女が残留派になった理由を察していたせいだ。
そしてそれはきっと、星穹が人間や半身のスタァへ真実を伏せたわけにも繋がっている。
白夜は笑いながら言った。
「人間は怖い」
強者であるはずの生き物が、堂々と人を恐ろしいと口にする。
彼女が私の知る白夜とまた違うのは、ここが故郷だからだろうか。晴れやかに彼女は言った。
「我らは強い。お前達より寿命が長く、力があり、不自由なお前達と違ってどこへでも行ける。けれどそんな我らでも、人間には叶わぬものがある」
「……それは?」
「欲望だ」
こればかりは叶わない、と白夜は言う。
「人の欲には際限がない。かつて我らは、たとえ相容れずともお前達と生きていたのに、お前達が望んだもののために共存を拒まれた」
『大撤収』の話だろう。
当時の人間の王達と、精霊の代表を務めた白夜の間に、どんな話し合いが持たれたかは定かではない。しかし彼女の様子を見るに、決して良い感情ばかり抱くようなものではなかったようだ。
そして私は嫌でも直視せざるを得ないから胸が苦しくなる。
この答え。彼女はもう、人と思いを分かち合いたいと思うほど、人間に価値を見出していないのだと私に報せている。
「たとえ人界に戻っても、人は我らを謀り、利用しようとすると我は知っている。この精霊郷で穏やかな時間を過ごせたように、我らを我らとして、あるがままでは過ごさせてはくれない。ただ救いを求めても、人は見返りなしに我らを助けなどしないだろうよ」
……悔しいが、彼女の言うことは正しい。
ただ、その返答の中に私はもう一つの理由を見出している。
「あなたは疲れてしまった?」
そう尋ねると、白夜は少し目を見はる。
「ああ……そうかもしれないな。我は……疲れたのだろう。もう、それほど生きることに期待してないから」
「……あなたの死が世界に影響を与えるとしても?」
「なに、この場合の"死"は海に溶けるだけ。さほど待たずに次が生まれる」
フィーネ、もとい宵闇が持っていた死の概念同様、白夜も担っている"何か"がある。混乱は避けられないと言ってみたけれど、その消失が与える影響すら、もはや彼女を止める理由にはならないようだ。
私たちはお互いを知っているようで、これが初対面。彼女が私をここへ連れてきてくれたのは、スタァを経由したからであって私を信じてくれたからではないことを、ちゃんと自覚しておかねばならない。
私にはもう一つ聞いておかねばならないことがあった。
「白夜」
「なんだ」
「こちらの黎明は死んだのですか」
「ああ、死んだ。美しき竜は、その咆哮で真っ先に我らへ危機を知らせてくれたよ」
白夜は教えてくれた。
最初の裂け目が襲ったのは黎明が守る『明けの森』だったと。
「あれは裂け目に吸い込まれかけた我が子を助ける代わりに、“海”に呑まれた。多くの同胞や竜種同様に、帰還していない」
精霊郷で強いと呼ばれる竜達は弱肉強食でありながらも、本心では同胞を想っていたのだろう。大多数が自らを犠牲にし、小さな同胞達を助けるために“海”に呑まれていったせいで数を減らした。残った竜は元の姿のままでは土地を占拠するからと、人型になっているようだ。
そして彼女の言い様、もしかして、もうこちらの黎明の卵は……。
「白夜。黎明と蒼茫のお子さんは……」
「古き血は途絶えておらぬ。無事、生き残っているとも」
「なら彼もまた、人の世界へ進む道を選んだのですよね」
「親なら子を生かしたいと思うのが自然の常だ。竜種であれば、なおさらその本能は強い」
白夜の返答は回りくどいが、内容はすべて肯定だ。
私の中で星穹と蒼茫、二人が並び立っていた理由が繋がった瞬間だった。
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